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後編
※
試合の翌日、今朝のスポーツ新聞に、自分の写真が載っていることが気持ち悪く、丸めてゴミ箱に捨てた。
リングの上で試合をした時間は、1ラウンド2分16秒。悪くない結果だ。幸成がいたから、勝てたんだろう。
捨てた新聞の見出しを思い出す。
『不幸を乗り越え、鮮烈KO勝利!』
不幸? 何が不幸だろう。防衛もできた。恋人もいる。俺はこんなに幸せなのに。
「どうして人は他人の事を不幸だって思うんだろうな。俺は幸成がいて幸せなのに。幸成?」
何の反応もないことに、基樹は部屋に自分以外誰もいないことに気が付いた。
「ああ、仕事かな」
幸成は雑誌に取り上げられるほど有名な美容師だから、今日も仕事なんだろう。
試合の後は何もすることがない。ごろりと横になる。
目を閉じるとふわりと懐かしいにおいがする。むかし嗅いだような、懐かしいにおいだ。
長い間寝てしまっていたのか、閉めたままだったカーテンの隙間から見える空は暗かった。朝から電気はつけていたから、室内は明るい。
スマホで時間を確認していると、幸成が立っていた。
「あれ、幸成今日帰り早いね。まだ19時前だよ」
「うん、よく寝ていたね」
「ああ、起こしてくれたらよかったのに」
「疲れていたんだよ」
「緊張したしな。てか、おかえり」
「ただいま。それより基樹、早くテレビつけて。今日は昨日の試合が放送されるだろ?」
「どうせジムの人が録画してるよ」
「駄目だ。今、見るんだよ」
しぶしぶリモコンを取り、テレビの電源をつける。放送されるチャンネルボタンを押すと、たった今始まったらしく放送席のアナウンサーや元同階級の選手やボクシング好きで有名のタレントやアイドルが今回の挑戦者について話をしている。
『それでは、続いてチャンピオンが試合前の意気込みを語ったVTRをどうぞ!』
画面が切り替わり青空を映し出す。それからすぐにジムの中でミットを打つ基樹が映る。
インタビュアーがその紹介をした後、また画面は切り替わった。
(今回の挑戦者についてお聞かせいただけますか?)
───キックボクサーからボクサーへ転向されたばかりだと、聞いてます。キックボクシングとボクシングは似てるけど、違う。キックボクシング出身とはいえ、ベースは空手だとも聞いてます。正直、そういった選手とは対戦したことがないので怖いです。
(最近カリスマ美容師の大鶴幸成さんとデートしている現場を写真で撮られて、その後お付き合いされていると公表されましたが?)
───正直、公表する気はなかったので、戸惑いの方が大きいです。でも、あそこまで雑誌で晒されて、隠すのもなんか違うし、いいタイミングだったかなと思います。
(ふたりの出会いは?)
───出会い? それもう今回の試合と関係ないじゃないですか。
(志井選手は可愛らしい顔立ちと強さ、男女ともに人気のある選手です。気になる方も多いかと)
───まだ、宅配便のバイトとボクシングを兼業してたとき、あいつの勤める美容院に荷物の配達があって。
───いつもは髪とかバリカンで剃るだけだったんですけど、ちょうどそのときバリカンが壊れてて、放ったらかしにしてて……そしたら、あいつがカットモデルになってほしいって言ってきたのが、出会いですね。
(つまり、志井選手が髪型が変わった頃から、と。結構前からのお付き合いですよね?)
───まあ、そうですね……。
───この階級での世界タイトルが日本人同士というのは初、らしいので。精一杯頑張ります。
試合についての質問はほとんどがカットされ、俺と幸成の話がほとんどの割合で放送されている。これでは試合前の煽りVTRというよりただの惚気だ。
『……はい。えー、このVTRは1か月前に撮影されたものです』
『つい最近、でしたかねえ? 雑誌で志井選手が同性の恋人とのデート……っていうか路上キスを記事にされて、ご自身が付き合っていることをカミングアウトしたのは』
『でも大鶴さんのお話しされてるときの志井選手の顔、すごくいいですね』
『それだけに残念でしたよね……あのニュースは』
『では、こちらが試合前日の計量時の映像です』
5分刈り頭の男が計量器に乗る姿が映し出される。
基樹はそれが自分だと気が付くのに時間がかかった。さっきのインタビューの自分とあまりにも違う顔をしていたからだ。
『気合いの坊主、でしょうか』
『長年彼を見ていたボクシングファンにとっては、懐かしいイメージなんですけどねえ』
『でも、なんだか痛々しくて、かわいそう……いままで彼氏に切ってもらってたのに、もう切ってもらえないんだね』
『それでは、CMのあと試合です』
スポンサーの最近流行のスマホゲームのCMが流れ出した。
「なにこいつら勝手なことを言ってるんだろうな。なあ、幸成」
懐かしいにおいが、また漂う。本当に、このにおいはなんだろう。
「ごめんね、基樹。僕が悪いんだ」
「幸成?」
「ごめんね基樹、ごめんね」
幸成の背後には見慣れない仏壇があった。スタッフTシャツを着て笑っている幸成の写真と白い骨壺が置かれた小さな仏壇だ。
ぎゅるぎゅると、映像を巻き戻すように記憶が鮮明に戻っていく。
それは基樹と幸成が一緒に出かけた帰り道、信号待ちをしていた光景だった。
基樹はファンに呼び止められて、道の端へ寄ってその人にサインをしている。
その刹那、ゴムの焼ける酷い臭いと轟音が真横で響いて、よく自分が目にするものとは違う色の血と何かが灰色のアスファルトを汚していた。
幸成は家族がいなかったから、基樹が喪主を務めた。その日から今日は、三十五日目だ。
この世界にもう幸成はいない。分かっていたはずだ。なのに基樹はまだ幸成がいると思っていた。いや、現に目の前に幸成はいる。目の前にいる幸成は誰なんだろう。
ああそうだ、このにおいは昔、おばあちゃんの家で嗅いだにおいだ。
白檀の線香。
仏壇には必ず白檀の線香を使うこと、神様と繋がることができるから。そう基樹のおばあちゃんが言っていた線香だ。だから基樹も仏壇の線香は白檀にしていた。
もう一度幸成を見ると、いつものように優しく笑っていた。
教えてもらった通りにしたから、神様にでもなった幸成が自分の前に現れてくれたのだろうか。
「基樹、あの線香を1本点けて?」
そんなことを考えていたら、幸成は優しく笑ったままそう言った。
「そしたら、どうなる?」
「それで、最後だよ」
最後。消えてしまうということだろうか。
「幽霊でいいから、そばにいてほしい」
幸成はゆっくり首を横に振る。
「線香を点けたら、基樹は裸になって目を閉じて、横になって?」
俺は言われた通り線香を上げ、幸成の前で服を脱いだ。
「絶対に、目を開けちゃダメだよ?」
「目、開けたらどうなる?」
幸成は困った顔をして笑うだけだ。俺はおとなしく目を瞑り、横になった。
やがて、聞こえていたテレビの音がとぎれとぎれになり、ぶつりと消えた。
唇にひやりとした感覚がする。体温の低い幸成のキスだ。
冷たい感覚がそのまま胸、腹と下りていく。
優しく上下に扱かれる中心が気持ちいい。今、幸成とセックスをしているんだと強く思った。
「ひ、あ……っ」
とろりと先走りの垂れる感覚が、今自分が感じているんだと実感する。
自分の中に押し進む質量の苦しさが切なくて涙が出た。
「ゆき、なり……愛してる、愛してるずっと」
「俺も、愛してるよ。基樹……」
目を開けたい。幸成と見つめ合ってセックスがしたい。
薄く目を開くと、幸成の顔はそのままに、そのからだは巨大な肉片の塊のような異形のからだになっていた。
例えるなら、むかし幸成と観光した閻魔堂で見た掛け軸に出てきたような。そう、地獄にいても不思議はないその姿は、まるで鬼だ。
また、堅く目を閉じる。
「基樹……僕は、見てほしくなかったよ」
「怒らないのか?」
「怖く、なかったの?」
「怖い。でも、それが今の幸成なら、それでいい」
「僕は基樹を愛しているよ、ずっと。たとえ、浄土になんか行けなくても、どんな形になっても、基樹を僕のものにしたかったんだ」
基樹の後孔に深々と潜り込んでいる幸成の楔が動き出す。途端に基樹のからだに快楽が走る。
「基樹が欲しい」
それがいつも一歩引いたところで、大切に見守ってくれていた幸成の願望なのだろうか。
そんなことが、鬼のような異形になっても叶えたかった願いなのだろうか。
「いいぞ。連れて行ってくれよ。幸成のいない世界に俺も未練はない」
そんな簡単な願いなら叶えてやる。
幸成に身をゆだねよう。基樹は全身の力を抜いた。
スマホのアラームが大きな音を立てて鳴り響いた。テレビはつけっ放しのまま、朝の天気予報を映し出している。
昨夜のことは、夢だったのだろうか。
ふと自分の体を見ると、全裸で下半身は体液が乾きカピカピになっていた。
「連れていかねえのかよ、ホント優しいやつだな」
基樹は仏壇に線香をあげると再び寝転がり目を閉じた。
幸成へ夢の中でさよならを言うために。
◆了◆
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