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離れる意志
「そうか、助かるよ」
始業時刻に係長のデスクに行くと、伝えた意志を受け取り、大田はほっと笑顔を作った。
俺が延ばし延ばしにしていたから、流石に少しは不安に感じていたのかもしれない。他に行き手を探すのは大変だろう。辞令だと言われれば不承不承従うだろうけれど、それよりは同意が欲しいはずだ。
他の現場は期限があるから、皆嫌でも我慢している。新しい現場だから、忙しくても大変でも、成功させるために心骨を捧げて働いている。
けれど、その現場だけは特殊だ。新規立ち上げから入っているのに、未だに本社が直接指示しないと回らない。スタッフが現地で調達できない現場。いつ帰れるのかも不明とくれば。
「すぐにでも行けますけど、アパートを引き払ったりちょっと手間が掛かるので、手続きするのに有休頂きたいんですが」
「そうか、いやあ助かるよ。勿論引っ越し業者の手配も料金も会社持ちだからね。安原くんのとこは管理会社が入っているよね。じゃあ、次の月末までの家賃も支払いがいるだろうし」
安堵の色を隠すことなく、係長が滔々と説明していく。どうやらそこの現場は、近くに社員用の部屋を借りているらしい。今は山根の荷物があるから、同じ日に荷物を入れ替えようという話だった。
土地勘のないところで部屋探しをするのは大変だから下見に行こうと考えていた俺にとって、これは大いに安心させてくれる材料だ。
逆に言うと、そこまでお膳立てしないと誰も行かない、ということなんだろうけど。
まあでも、一度くらいは下見に行かないとなあ、なんて頭の隅で思いながら、現場の図面を広げて説明を続ける大田の声を聞いていた。
久しぶりに高速道路に乗った。隣の県くらいなら車で行き来するんだけど、最近までいた現場が遠方だったから、帰省するときにも新幹線を使っていた。
まだまだこのツーシーターでもいいか、なんて、国産の大衆車を操りながら、少し気分が浮上している。今では手に入りにくくなった、マニュアルミッション。五速までしかないけど、それでもオートマに変える気にはなれなくて、きっと動かなくなるまで乗るんだろうな、俺は。
豪も、車にはうるさい。あいつも自分の愛車があって、いつも金がないって言って女に貢がせているのは、愛車の改造に給料を突っ込んでいるからだ。
勿論貯金なんてないから、急な出費があると俺に泣きついてきたりもしていた。出世払いな、ってありきたりの口約束は、きっと果たされることもないだろう。
ここ最近はそんなこともなくて、そういえば前回戻ったときには一枚だけ返してくれたっけ、と思い出す。
焼け石に水だけど、返すつもりがあるっていうだけでも嬉しかったな。
可能な限り高速を使ったけど、次の職場に着く頃には昼を回っていた。平日の早朝に出てこれじゃあ、そうそう帰省は出来ないだろう。
だけど、それでいい。
比較的出入りの多いスーパー側の平面駐車場に停めると、まるっきり客のような振りをして店内に入って行った。
昼食時のピークを過ぎているからか、食料品売場は空いている。広い通路沿いにあるたこ焼きやデザート系のテナントもひと段落したのか、ちらほらとスタッフがバックヤードに入る姿が見える。
それらを風景の一部に収めながら、専門店ばかりが並ぶモール側へと抜けていく。イベントホール、レストラン街、そしてシネコンにフィットネスクラブ。事前に頭に入れた通り、他のショッピングモールと似たり寄ったりの店内を一回りして、改めて首を傾げる。
客の出入りは少なくも多くもない。日祝がもっと混雑するのは判るけど、やはりこの現場が回らないのは、スタッフの問題だけのように思えた。
今の時間には店内に二人以上出ているはずだが、見かけなかった。トイレ内にいる時間が一番長いから、それは別段気にするところではないけれど。
二階に上がって吹き抜けを見上げると、手が届かない出っ張りに埃が積もっているのが見えた。一般の人はそういうところは見ないだろうけれど、これはモールサイドからは苦情が出るだろう。全国的に店休日がないモールばかりだけど、こういうところも、本当は平日の昼間や夜間に対応していないといけない。難しいことは承知しているけれど。
頭を掻きながらテラスを回り、駐車場のど真ん中にある小さな公園に足を向ける。滑り台とブランコがあるだけの憩いスペースは、殆どの部分に木陰があって過ごしやすそうだ。何か買ってきて昼ご飯にしようかなと木製のベンチを眺めていると、インターロッキングをやってくるすらりとした女性が目に入った。
ダストパンセットを横に付け、吸い殻回収のバケツを載せたカートは、我が社のオリジナルだ。社名の入ったステッカーを見なくとも一目でそれと知れる。
白地の開襟シャツに赤のチェックが入ったキュロット、そして揃いのベレー帽をまっすぐに被ったショートカットの女性は、俺の二メートル傍くらいまで来てから会釈をした。
「いらっしゃいませ、こんにちは」
花の種類なんて殆ど知らないけれど、百合のようなひとだなと思った。
「こんにちは。お疲れさまです」
同じくらい静かな笑みがこぼれた。それを少し不思議そうに見て、それから手近にあった灰皿をチェックして、一本だけしかなかったらしい吸い殻をつまみ上げてバケツの中のザルに放り込んだ。
ついでのようにゴミ箱もチェックすると、ファストフードの紙袋を引っ張りだして、カートの下段に載せているビニール袋に押し込む。トイレ清掃のゴミにしては多いから、道中同じようにしてゴミ箱の中身を回収したのだろう。
一人二役をこなしているなら、道理でスタッフに会わないはずだ。
「失礼します」
踵を返してインターロッキングに戻る彼女の、斜め後ろに続く。不審に思われているのは百も承知で、彼女の対応を見たくて、いかにも付いて行ってますという距離で歩いていく。
彼女の神経がこちらに向いているのが判る。道々埃をダストパンに掃き入れながら、ちらりと窺う視線。そのたびににこりと微笑むと、微笑み返して確かな足取りで歩き出す。
なんとなく、これが噂のサブマネかなあと思った。
バックヤードへと抜けるスイングドアの手前で、店内に向けてお辞儀する。顔を上げるタイミングで軽く手を振ると、また微笑してから体を翻す。内心どう思っているかは判らないけれど、彼女の対応はそつがない。これは頼りにされるはずだ。
胸ポケットの名鑑は、小野となっていた。
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