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手ぇ出したら許さない
目を伏せて視線を落とすと、震える声で呼ばれた。
「さっきの彼女……も、社員?」
なんでそんな真剣な瞳で見つめる。お前には、関係ないことだろう。
「社員と言うとちょっと違うけど。まあ、似たようなものかな」
「綺麗なひとだったな」
「真面目で働き者だよ。気配り上手だし」
綺麗なのは、お前の方だ。そう言いたいけど、それこそ豪にはどうでもいいことだろう。
「俺の前で褒めるなんて、珍しいな。お前の好みとは外れてるだろ」
豪が今まで付き合ってきたのは、もっと華のある、化粧やネイルでバリッと決めているタイプの女性だ。だからなのか、ベッドインしたとしても、朝までは一緒にいないらしいけど。女性は色々と大変だ。
「お近付きにならないだけで、好みから外れてるわけじゃないよ。いいなって思う」
「そっか……けど彼女は駄目だ。手ぇ出したら許さない」
小野さんが簡単になびくとは思えないけど、波乱の種を蒔きたくはない。旦那さんとも、仲良くやっていきたいんだから。
ふうん、と鼻を鳴らした豪の瞳が潤んでいる。これも初めて見る顔だった。
ずっと一緒にいて、なんでも知っていると思っていた。社会に出てからは、なかなか時間が合わなくて、知らない時間も増えて。もしかしたら、たまに会うときにも、仮面をかぶっていたのかもしれない。
俺が本気で諫めることが珍しいから、ショックなのかもしれないけど。
「豪、悪いけど、あの人は、」
「分かった。もういいから」
テーブルに突っ伏しそうなくらいに低く頬杖を突いて、切ない吐息をして。豪が何をしたいのか、本当に判らない。
「なんかさ、琉真が女と居るっていう景色がさ、珍しくて……」
「悪かったな、お前みたいなイケメンじゃねえからモテないんだよ」
「びっくりした」
おい、形だけでも否定しろよ。
今度は音を立てないように、静かにテーブルをタップしている豪。頬杖で顔を支えたまま、くすりと笑った。
「どんな職場なんだ? 辛い? 忙しいけどやりがいあるから続けてるんだよな、きっと」
「辛いなんて思ったこと、ないかな。目が回るくらい忙しくても、充実してる。無茶な要求にどうやって応えるかって必死に考えながら作業してると、ほかのこと皆頭の中から出ていって、無我の境地――みたいなさ」
「集中力凄いもんな、琉真」
そうだな、と頷く。背を伸ばして腕組みしている俺の方が、豪を見下ろす形になっている。
これも計算なのか、上目に見つめる睫が震えていて、場所も弁えずに抱きしめたくなる。
やめてくれよ。どうして今頃、俺のことなんて訊いてくる。
「店内で、制服着て歩いてる子見かけたよ。バイトの女子大生? さっきの人は俺らと同じくらいなんだろうけど。膝丈のキュロット可愛いな。あの制服いいよ」
「シャツもデザインいいから、ほっそりして見えるんだよな。バイトの子なんか、私服見たらかなり乳でかいぞ。土日祝はバイトに囲まれてるから、豪に向いてる職場かも。転職する?」
「いいねえ。スタンドは女子もツナギだし、脱がしにくいしな」
瞳が濡れているのに、笑い声は乾いていた。
なんで、豪と、今、こんな話してるんだ俺。ほかの誰とでも出来るような、普通の男がするだろう受け答えをして、そんなこと露ほどにも感じたことがないのに、女に興味がある振りを装っている。
バカみたいだ。
これ以上続けても、虚しいだけだ。
豪が本当にしたかったのは、きっとこんな話じゃない。でも自分から口に出さないなら、俺から切り上げてやるしかない。
これだけは使いたくなかった、切り札がある。
心の何処かに期待があるから、もうやめる離れる忘れるって自分に言い聞かせても、豪に嫌われないように、もしも次があったとして、普通に接せられるようにブレーキを掛けてきた。
今このタイミングでしか使えない。
天使が通った。その一瞬に、腰を上げる。
「出よう」
さっさとレシートを摘んでレジに向かうと、慌てて豪がついてくる。まとめて支払ってから一つ目のドアを出ると、風除にある灰皿の傍で吸っていた豪が口の端に煙草を挟んで、一緒に二つ目のドアから出た。
いつもなら「ごちそうさん」って笑うのに、尻ポケットから出したウォレットから抜いた札を指に挟んで差し出してくる。
「はい」って出されたら、受け取らないわけにはいかなくて。何か? と言いそうな顔の豪を見て、まあいいかとそのまま作業着のポケットに入れた。
名残惜しそうに見つめられて、決心が鈍りそうになる。
どうして今なんだ。猫みたいにあっさり帰っていくお前が、俺の部屋じゃないこんな場所で、物欲しそうに俺を見ている。
ぎゅっと、拳を握りそうになって、それを隠して肘から上へと上げた手をひらりと振る。
「じゃあな、豪汰」
さあっと顔色が抜けていく。少し桜色だった頬が青白いくらいに血の気を失って、くわえていた煙草がゆっくりと足下に落ちていった。
伝家の宝刀を振るってしまった。
もう、後戻りは出来ない。
自分でもちゃんと分かっていないくせに、見聞きした言葉を使っては悦に入っていた幼児時代。
「ゴンタのちびー、くやしかったらおいついてみろよ」
「ぶっ、ぶって、あるくおとしてるぜ。へんなのー」
「ゴンタなんてへんななまえー」
「ゴンタじゃねえ! ごうただ!」
デブじゃないけど、その頃の豪は確かにチビで、名前のことでからかわれては、真っ赤になって泣きながら取っ組み合いをして、俺が引き剥がして仲裁するまでにはぼろぼろにされていた。
「またノッポさんきたぞー。にげろー!」
当時大人気だったテレビ番組のキャラクターになぞらえたあだ名で呼ばれていたけど、勿論本物みたいにノッポじゃなかった。まあ、成長曲線で言えば、標準枠内の一番上って辺りだ。
「ぜってえあいつらよりおっきくなって、やっつけてやる」
俺の顔を見て恥ずかしくなったのか、嗚咽を堪えている顔は可愛かった。くりんとした大きな目で、精一杯きつそうな目つきをして、からかった男児たちを睨み付けて。
「だいじょぶ。ごうのおとうさんおおきいから、ごうもおおきくなるよ」
母親の受け売りを言って宥めるのが俺の役目みたいな感じで、そうやっている内にどんどん豪はかっこよく成長して、小学校高学年になる頃には、誰も豪のことをからかったりしなくなっていた。女子からモテモテで、だけど男子にも人気があった。
誰も豪汰って本名では呼ばずに、ゴウってあだ名呼びが当たり前になって。
「ごうたって名前、俺は好きだぞ。かっこいいじゃん」
何よりご両親が考え抜いて付けてくれた名前なんだから。そんな慰めも届かなかった幼い頃、豪は俺にも約束させた。
「琉真ってカッコイイ名前のお前にわかるかよ、この気持ち」
確かに解らなかったから、俺は黙るしかなかった。
「琉真も今日限り、俺のこと本名で呼ぶの禁止だかんな。豪って呼ばなきゃ絶交だ」
「わかった」
神妙に頷く俺に、豪は満足げに笑った。
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