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もう揺さぶらないでくれ

「喧嘩でもしてるの?」  最初の信号にかかったとき、不意に小野さんが口を開いた。履歴書にあった地図で憶えている方向へと向かいながら、「別に」と答える。 「幼なじみだから、あんなので普通だよ」 「そうなんだ……なんかでも空気が硬かったから」  小野さんの観察眼には脱帽だ。苦笑するのに気付いて、ごめんなさい、と小さく謝られてしまう。膝の上でぎゅっと両手を握りしめていて、こっちこそ悪かったなと反省した。 「明日はゆっくり休んでね。俺も夜からだから、戻ったらちゃんとあいつと話すよ」 「そうですか」  ほう、と息を吐いて、手の力が抜ける。  この辺? と尋ねて、指定されたところで曲がると、また小野さんの手に力がこもる。  家と家の間の細い道で、俺の車でぎりぎりの幅だ。目測で二トントラックくらいが限界だろうなと踏んだから、対向がないのを確認して、殆ど車体を直角にしてからねじ込んだ。 「わ、安原さんも、巧い……っ」  駐車場に入ると、小野さんは詰めていた息を吐き出した。 「も?」 「うん。慎哉くんに初めて送ってもらったときにも一発であそこ通ってくれて、びっくりしたんだけど」 「大抵の奴は通れるんじゃないかなあ。まあ、圧迫感があるから、女性だと怖いかもね」 「男性でも、通せない人結構居るよ」  そいつはしょぼいな、とは口に出さなかった。まあ、車に乗るのが好きじゃなくて、必要だから乗っているとか、ドレスアップカーなら、擦るのが怖いから嫌がるだろう。  旦那さんと出会う前の恋人がヘタレだったのかもしれない。  一応ハザードを出して停車すると、するりと小野さんが降りていく。 「ありがとうございました」  声を掛けてからドアを閉めると、深く腰を折ってから、俺に向けて手を振った。  見送るつもりだったのかもしれないけど、それだと心配だから、手振りで中へ入るようにと促した。再度会釈をして、背中がホールの方へと消えていく。ここからじゃ死角になっていて見えなかったから、室内の明かりが灯るのを待ってからようやく車を方向転換させて敷地を後にした。  ファミレスの駐車場に入った瞬間に、ボンネットに凭れて携帯端末をいじっている豪の姿が飛び込んできた。  咥え煙草の煙が、グレーの空を掻き混ぜている。鮮やかな紅が俺からのヘッドライトに照らされて、眩しげに顔を上げた隣のスペースに愛車を滑り込ませた。 「おまたせ」 「ああ。……こっちこそ、悪い」  ぼそりと謝罪されて、面食らってしまう。いつだって自分に合わせるのが当然のような顔をしているくせに。余程のことがあったんだろうか。 「晩飯まだだったの?」  俺が禁煙席に向かうと、入り口の灰皿に吸い殻を放り込んだ豪が追ってくる。 「日曜とか、客が多い日はこんなもんだよ。下手すりゃ飯抜きで午前様だな」  不規則な生活に慣れきっている俺は、メニューの中からがっつりと和食のセットを頼んだ。豪がハンバーグセットを頼んでいる間、スタッフの若い女性は目を煌めかせていた。妥当な反応だ。運んで来るときには厨房でじゃんけん大会が始まることだろう。 「結構大変なんだな」  ふうんと鼻を鳴らして、豪はとんとんテーブルを指先で叩いている。 「そういや、仕事のことなんて話したことないもんな」  尋ねられることもなかったし、はなからエロいこと目的で会いに来る豪に、そんな話題を振るなんて有り得ない。豪のことは、俺があれこれ訊いたり、親や共通の知人から伝わってくるから知っているけど。  フリードリンクは付けなかったから、一旦席を立って、お冷やを二つ取ってきた。豪の目の前に置くと、目を瞬かせて「サンキュ」と言われる。心ここにあらずといった感じだ。 「で?」と促すと、不思議そうに見つめられる。なんなんだよ、こいつは。 「話があって待ってたんだろ。親にでも聞いたのか、俺がここにいるって」 「ああ……かあさんと電話で話してて」  やっぱりか。ご近所だから立ち話でもしてたのかと思ったら、わざわざ電話までしてたのか。 「だからって、こんな遠くまで来るなんて、よっぽどのことなのか。見た感じ車は大丈夫みたいだけど? タイヤ買うとか? まさか車買い換えるとか言うなよ」  オークションでショップ経由に競り落としてもらってまでして手に入れた愛車だ。そう簡単に手放すとは思えないから、冗談半分に言ったつもりだった。  それなのに、豪は酷く傷ついた顔になった。 「――そんなに変か」 「らしくないっていうか、初めてだから驚いただけだ」  暫くして絞り出すように言った声が低くて、言い方が拙かったかと取りなすように答えた。  予想より早く食事がやってきて、一人でも持てそうなのに、それぞれ両手でトレイを捧げた女性店員が、にこやかに給仕してから物欲しそうな顔で去っていった。 「いただきます」  あとは豪が話し始めるまで待てばいい。取りあえず食事に集中する俺を見て、溜め息を吐いてから、豪も箸に手を伸ばした。  付け合わせのマッシュポテトと人参のグラッセを残す豪からせっせと奪い取り、二人分の食器は空になった。  恐らく煙草が吸いたくてうずうずしている豪が、まだ何も言い出さない。 「明日も仕事だろ? 早くしないと寝る時間なくなるぞ」  言外に「さっさと帰れ」と含めて腕組みすると、弾かれたように窓から俺へと視線を戻す豪。らしくなさすぎて苦笑いが漏れる。 「琉真は? 朝から?」 「いや、夜だけだから俺はいいけど」 「じゃあ、泊めてくれよ。休むから」 「はあ? 元々休みか?」 「そうだよ」 「嘘だ」  真っ直ぐ見ているようでも、瞬きの回数が増えている。幼児の時からの豪の癖だ。 「帰れ。それに泊められる場所なんてない。社員用の部屋だし」  断ると、ぐうっと豪は歯を食いしばった。 「ほかにも誰かいるってこと?」 「そうだよ」  正確には山根の荷物しかないわけだけど、まだ山根の部屋でもあるんだから嘘じゃない。  部屋に入れたら、きっとまた色仕掛けが来る。金じゃないのかもしれないけど、もう豪を抱くのは止めるって決めたんだから、揺さぶらないでくれ。

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