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なんだか、痛そうな顔してるから

 シャッとカーテンが開いて、おずおずと小野さんが出てきた。 「お疲れさま。気を付けて帰ってな」 「あ、うん。お疲れさま」  小野が声を掛けて、小野さんが頷いてから俺を見た。 「大丈夫ですか? 安原さん」 「あー、まあ多分。相手が悪そうなら近寄らないことにする」  会話は勿論筒抜けだから、心配してくれているらしい。 「良かったら送って行こうかって声かけようと思ってたんだけど、これじゃ止めた方が良さそうだね。自転車の方が安全かも」  大抵自転車で通ってきているように履歴書に書いてあったから、そう苦笑すると、小野さんは驚いたように目を見張ってから、小野を見上げた。 「ああ、そっか。車……ゆっこ、送ってもらったら?」  小野は考えるまでもないといった風に俺を見た。  ん? 何故小野に決定権? やっぱり名前が同じなのには理由があったり。  まだあまり親しくなってはいないし、知らないことの方が多い。親戚か家族かはたまた夫婦か、不思議そうにしているのにようやく気付いてくれたのか、小野さんが顔を赤らめた。 「あ、あのっ。夫です、はい」 「あれ、まだ言ってなかったんだ。失礼しました」  もじもじしている隣で小野が頭を下げている。ああ、お似合いだなあなんて、納得していた。  ちょっと軽そうだけど誠実な小野に、しとやかで生真面目な妻。羨ましいくらい幸せそうなカップルだ。  改めて挨拶をしあって、三人で失笑してしまった。  夜間スタッフに施錠を頼んで、ふたりで従業員用の風除から退出する。モールの敷地から出て、四車線の道路を渡り、そのまた向こうの平面駐車場だから、結構距離がある。  実は自転車の方が早く家に着きそうだなと気付いて謝ると、問題はそこじゃないからと、小野さんは軽やかに笑った。 「家を出るときはいいんだけど、やっぱり心配みたい。あと、早朝から出るときも、まだ真っ暗だし」  勤務の時間帯が合えば一緒に車で来るけれど、なかなかそう上手くはいかないから、と付け加える。  日中はうだるくらい暑くて、今もその名残でちょっと蒸し暑い。本格的な夏がもう少しでやってくる。  離れすぎず近付きすぎず、適度な距離を置いて隣を歩く小野さんに、ふたりの馴れ初めを訊いてみた。  最初は全く意識していなかったんだけど、とぽつぽつ話す小野さんは、愛し愛されている雰囲気に包まれている。 「幸せそうだね」 「色々大変だったけど、慎哉くんが世界一大事。あんな王子様みたいなひと、絶対に見つからない」 「もー、上司にそんなにのろけてどうすんの」  小野さんだって十分綺麗なのに、こんなに手放しで褒められるって凄いことだと思う。ほかのことには謙虚で、自分に対する評価が低すぎるくらい低いひとなのに。 「安原さんは、恋人いないって言ってたけど……地元に、本当に残してこなかったの?」  勤務中ではないせいか、少し砕けた口調で控えめに問われる。  横断歩道を渡ると、駐車場が見渡せる。まだはっきりとは見えないから、人影があるのかどうかも判別できない。  時間が時間だから、レイトショーを観る人たちは、決められた区画に駐車する。ここはもうじき閉鎖される区画だ。モールから同じように出てきた客たちが乗り込んで帰っていく中、少しずつ俺たちも奥へと進んでいった。  問いに答えないままの俺を待っているのか、小野さんは口をつぐんでいる。もしかしたら、車の傍にいるはずの人物について思いを巡らせているのかもしれない。 「気になる?」  そっと、吐息と共に確認した。  車の前にしゃがんでいた人物が、腰を上げるところだった。 「少しだけ」  小野さんも目を凝らしている気配が伝わってくる。  でももう、俺には判ってしまった。暗いし離れているし、顔の中身なんて見えない。だけどただそこに居るだけで、ここが俺のアパートの駐車場じゃないかというくらいに馴染んだ風景に見えてしまう。  同じくらいの背丈、でも少し撫で肩で、ほっそりしている立ち姿。  どうしてここに―― 「安原さん」  大丈夫ですか、と小野さんが囁きながら俺を見上げた。 「なんだか、痛そうな顔してる」 「――ああ。知り合い、だから」  痛そうな、なんて。まだ知り合って間もない女性に見抜かれるほどに、顔に出ていたことに驚く。 「やっぱり自転車で、」 「だめ。旦那さんと約束したんだから、絶対無事に送り届けるよ」  モールへと引き返そうとするのを引き留めて、手首を掴んだ。当たり前だけど、豪よりも白くて華奢な手。少し冷たい。  表情が視認できる距離で、俺はもうどういう顔をしていいのか、そしてどんな顔を見せているのか、さっぱり判らなかった。  ただ、何かに怒っているような豪がまっすぐに俺を見るのを受け止めて、車にも豪にも一メートルほどのところで足を止めた。 「何やってんだ、こんなとこで」  問いかける声は、意外と落ち着いていた。いつもより低いような気がする。 「ちょっと、こっちに来る用があったから……で、たまたま琉真の車見つけて」 「へえ。こんなとこまで遊びに来てたんだ」  小野の話では、数時間前からいたという。そんなに長い間、本当に待っていたんだろうか。それとも見かけたときには別の誰かで、豪は今し方来たところなんだろうか。  納得できない行動を訝しく思いながら、斜め後ろに静かに立っている小野さんのことを思い出す。いつまでもここに突っ立っているわけにはいかない。今日も昼から働き詰めの有能なサブマネを早く休ませないと。 「用があるなら、後にしろよ。彼女送ってくる。車か?」  はっと息を飲んだ豪が、半分呆けたような顔で頷いた。 「飯食いながら聞くから、この先にあるファミレスで待ってて」  場所が判るか確認してから、脇へ退けた豪を視界から引き剥がし、ナビシートに小野さんを座らせると、運転席に乗り込んだ。  駐車場を出るときにも、豪はその場に佇んだままだった。

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