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前編
何らかの気の迷いだと思う。いつもの帰り道。早く帰りたくて暗くて細い路地を突っ切ろうとした時だった。こんな危ない時間帯に何考えてるんだか、と自分でも思った。それでも俺は道端に死んだように転がっている男を見過ごせなかった。
「あの、大丈夫ですか」
その男は脱色した髪色に不健康そうな肌で、まだ寒いのにカットソー1枚しか着ていなかった。
男はくぐもった低い声で俺の方を見ると目を細めて笑う。
「あぁ。大丈夫。今日は運が悪くて誰も捕まらなかったんだ」
さして気にしても無い風に言ってのけるとまたそのまま蹲る。本人が大丈夫って言ってるから大丈夫なんだろうけど、俺はなんだか放っておけなくて近くの自販機で珈琲を買う。
「せめてこれでも飲んで温まって下さい」
関わらなきゃよかったのだ。本能では関わるなと言ってる。
「悪いね。ありがとう」
珈琲を受け取る手も細くて長くて女みたいな手だった。
「悪いんだけど、1日でいいからそこのホテル代くれない?」
つまりやる事やるから寝床をくれ、そういう事だ。
「……生憎俺、そんなに今お金持ってないんです。さっき飲み会あったから」
男はケタケタとかれた笑い声をあげる。
「やっぱり、今日は外れだ」
男はじゃあね、と手を振って用無し宣言をする。
このままこの妙な男と別れてしまえばいいのになんだか惜しい気がして、きっと俺がお節介な性分だから、とか。もし俺のせいで死んだらどうしよう、とか。色々言い訳は思いついてとりあえず男の手をひっつかんで帰路へ急ぐ。
「ホテル代は無かったんじゃないの?」
「別にホテル代は無くても場所はあるでしょ」
それ以降男は黙って俺に引っ張られるがままだった。
とりあえず俺の家に運ぶと男は不躾に俺の部屋を見回す。
「アンタ、結構いい家住んでんだね」
「……恥ずかしいんでやめてもらえます?」
そういうと男は口端を歪める。その顔がものすごくエロい。
「やっぱりやるなら雰囲気ないとね。安っぽいビジネスホテルでもやろうにはやれるんだけどさ」
男は跪いて俺のズボンのチャックを開けるとパンツの上からぺろりと舐める。
「……いいもん持ってるね。久しぶりに楽しめそう」
器用に俺のパンツからソレをだそうとする手を止める。
「俺、男とする趣味ないから」
男は鳩が豆鉄砲食らったような顔で俺を見つめた。そして堪えきれず爆笑する。
「……ふふっ……まさか本当に……『ホテル代』だけ払ってやるつもりだったの?」
男はそう言って目尻に溜まった涙を拭いた。
「でも、俺もタダで泊めてもらうのはちょっとね……俺さ、こういう事しか出来ないから」
さわさわと俺のパンツをいやらしく撫でると誘うように首筋に息を吹きかける。
「悪いようにはさせないからさ。ただ女にやるみたいにやればいいだけだし」
俺は男の首根っこをぐいっと引っつかむとギリ……と睨みつける。
「俺、男には起たないんですよ」
男はすぅっと目を細めてへぇ、そうかいと淡白に呟いた。
「……じゃあなんで俺なんか家に入れたの?」
「目の前で死にそうな人がいたら手を差し伸べるでしょ」
男は徐ろにポケットから煙草を取り出すと一度こっちに目線を向ける。俺は目線でそれを許すと男は火をつける。
ゆっくりと吸って紫煙を吐き出す。その様はやはり色っぽくてしたくもないのにゾクゾクとしてしまう。
「……死にかけ、ねぇ……」
自嘲気味に吐かれたそれは空っぽだ。
「アンタ、βでしょ」
「……だからなんですか」
男はどーりで、と含み笑いをする。
「まぁ俺は見ての通りΩなんだけどさ、今発情期な訳よ」
そういうことか。やけに艶めかしく感じるのも、嫌なのに発情するのも。
「……αなら俺のフェロモン浴びたら理性飛ばして腰振ってくるからさ。じゃあセックスの代わりに俺に出来ることない?」
「……随分律儀なんですね。別に俺の勝手だからいいのに」
男ははー、とため息をついて肩を竦める。
「アンタ何さん?」
「東城です」
「東城さんさ、これは『契約』だから。俺が東城さん家に泊めてもらう代わりに俺は東城さんにご奉仕する。世の中はギブアンドテイクなんだから、これが崩れたら俺は東城さんに借りを作ることになる。それだけは避けたいんだよね」
男は困った顔をして俺をじっと見つめる。
「じゃあ、風呂入って飯食って寝て下さい。それが俺へのご奉仕です」
男はケラケラと目のシワを深くして笑う。さっきから何がおかしいのか。
「東城さん、本当に面白いや。俺、アンタのこと気に入ったよ」
「……別に気に入られても嬉しくないですが」
男はひとしきり笑うと手を差し出してくる。
「俺は平塚智。今晩よろしく」
「はあ……」
握られた手はしとりとしていて、この手で様々な男を落としたんだなと不埒な考えが頭をよぎった。
俺より先に入るのは、と躊躇する平塚さんをなんとか風呂に入れると冷蔵庫から余ってる食材で簡単な夜食を作る。幸い明日は休みで遅く寝て遅く起きようがなんとも無い。
「……風呂ありがと」
「俺の部屋着、サイズぶかぶかですね」
平塚さんは首にかけたタオルで頭を乱雑に拭く。
「東城さん、背ぇ高いもんね。いくつ?」
「186です」
「おーおーそっか、そりゃあでかいわ。スポーツでもやってたの?」
平塚さんはするりとさり気なく俺の腰を抱く。
「……バレーボールを15年してました。平塚さん、危ないんで離れて下さい」
平塚さんはちぇ、と残念そうな素振りをして素直に離れる。
「料理もできるんだ、さすが今時のイケメンは違うね」
「……さっきからおじさん臭い喋り方してますけど俺とそんなに歳、変わらないでしょう」
平塚さんはおどけた風に俺に顔をぐいっと近づける。
「いくつに見える?」
「……それ、妙齢のOLがよく言うセリフですよ」
「確かに。でも、確実に東城さんよりは上だよ」
俺は悩む時間をかけず、思いつきの年齢を口にする。
「26……とか」
すると平塚さんはニタリと笑う。
「それの8個上」
「は?」
思わずそんな声が出るほど唖然とする。俺と見た目そんなに変わらないのに自分と10も違うとは。
「丁度……俺の10歳上です」
呆けた声で辛うじてそう返すと、平塚さんはあれま、と心にもないことを言う。
「俺は10も下の子を誑かしてた訳だ。ダメな大人だねぇ。俺捕まっちゃうかな?」
「これがあと五年早かったら……確実に捕まってますけどね」
俺は軽口を叩きながら皿に盛り付ける。
「俺、風呂入ってきますから先食べててください。終わったら皿、シンクに置いといてもらえますか?」
了解、と言うと平塚さんは皿を持って目の前のテーブルに座る。
俺は上着を脱いで洗面所へ入る。鏡の前には少しだけやつれた顔。
「……もうそろそろ若さもなくなるのかな」
なんてぼやきながら温かい湯船に身を沈めた。
風呂から出ると平塚さんは皿を洗っていた。
「シンクに置くだけでいいって言ったのに」
「これぐらいは出来るからね。やらせてよ。それとも他人が洗うの気にするタイプ?」
「いや……さっき自分で『こういう事しか出来ない』って……」
「あぁ、あれ嘘」
しれっと悪びれもなく白状する平塚さんはそのまま皿を洗い続ける。
「俺さ、Ωだから追い出されたんだよ、家から」
まるで鼻歌なんか歌いだしそうな口調で重い事実を言ってのける。
「有名な企業の跡取り息子だったんだけどね、ある時親父にΩだってバレてさ」
それで勘当。
淡々と述べたそれは俺の想像の超えた所にあった。納得だ。宿無しのはずなのにどこか漂う洗礼された雰囲気。売り専という職業なのにそういった汚れを感じさせない。
「まぁ、しゃーないよなって。おふくろも毎月俺の口座宛にこっそり金送ってくるんだけど、それ使うの嫌で全く手ぇつけてない。でも、一度ももΩだったこと、後悔してないんだよ。Ωだろうがαだろうが、結局その人っていう存在には変わりないんだから、俺はΩってことを含めて俺なんだってね。まぁ、親父には理解されなかったけどそれは仕方ないから。だって俺とは違う頭の人間だしな」
まるで酒の肴のように笑いながら話した平塚さんはそう話の幕を閉じた。
「そう……だったんですか」
なんと言えばいいか曖昧な返事しかできず、黙り込む。
「こんなこというの、東城さんだけだからね?俺を助けてくれたお礼って言ったら変だけどさ」
あっけらかんと、でも話し終わった平塚さんは見た目は変わらないのに34年の年月を感じる。
「……平塚さん」
蛇口をきゅっと締める音がする。
「俺、失礼な事言ってもいいですか?」
平塚さんは口を挟まずどうぞ、と促す。
「俺、恋人をΩに寝盗られたんです。それだけじゃない、寝盗られた挙句、勝手に妊娠して、勝手に降ろして、その金を請求されて、それで彼は……だから……」
その後の言葉が出てこなかった。もう何年も前の話なのに。忘れたと思ってたのに。
「……だから男に起たなくなったと」
平塚さんは静かにそういうと長いまつ毛を伏せる。
「まぁ……元々俺もされる方でしたから」
どうでもいい事を付け加えて笑ってみせる。でも平塚さんは決して笑わなかった。
「今でもΩは憎い?」
「……そうですね、憎いとかそういう感情はないです。ただ……もう俺には関係ない」
「……東城さんは優しすぎる。もう関係ないと言いつつ俺を見捨てなかった」
ポンポンと優しい音がしたと思ったらいつの間にか頭を撫でられていた。その手がいつかの彼に似てると思ってしまったのは何故だろうか。
「じゃあ俺はもう寝るわ。おじさんのつまらない話を聞いてくれてありがとな」
平塚さんはひらひらと手を振って床へと寝転んだ。
「……おやすみなさい」
そう言って俺は逃げるように寝室へ戻ったのだった。
開けっ放しにしていたカーテンから日が差し込んであまりの眩しさに目をそぼめる。今何時だっけ、と時計を確認すると10時を過ごしすぎたぐらいだった。ぼりぼりと頭をかきながらリビングに出ると、ラップをした幾つかの皿とメモがテーブルに並べてあった。
『昨日はありがとさん』
たったそれだけ。
平塚さんらしいな、なんて思いながらラップされたものを温める。平塚さんにしては洒落た、なんて本人には失礼なことを思いながら黙々と食べる。
「……美味いな」
そうぽろりと言葉が零れる。
あーあ。なんだよもう。Ωの癖に。何でアンタはΩなんだよ。
Ω何て嫌いなのに。あんなこと聞いたら嫌いになれないじゃないか。
だから何?と切り捨てられないのは昔の恋人にも言われたこと。
お前は優しすぎる、と。
人を許しすぎる、と。
そんなこと分かってるんだよ。俺だって。
それなのに俺はあの男を嫌いになれそうにはないらしい。
そんな事実に目を背けたくて無心にそれを食べた。
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