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第1話
新卒で入った会社は近場の公園での花見が恒例で、新人だからと場所取り係を任された。良い場所をゲットするために早朝から出向く。今日の俺は宴が始まる夕方までそこをキープするのが仕事なのだそうだ。全くくだらない。桜が咲いても朝晩は肌寒いし、今日は風も強い。そんな中、俺は一人ブルーシートの上で時間を潰す。
ようやく日が傾いて、それでも定時まではまだ一時間あるという時に、「お疲れ」という声がして、振り向いたら新人教育担当の碓氷 さんがいた。入社五年目で役職こそまだついてないけれど、営業成績は全国の支社を含めトップクラス。それでいて威張るでもなく、面倒見のいい先輩。俺の憧れの人だ。
「はいよ」手渡されたのは缶ビール。碓氷さんもシートに座ると、自分のビールをプシュッと開けた。
「フライングですよ」笑いながら俺も開けた。
「いいんだよ、これぐらいの役得。はい、乾杯」軽く缶同士をぶつける。そして、どちらともなく、通路を隔て更に十メートルほど奥まったところに咲いている満開の桜に目をやった。「なぁ、萩野 」碓氷さんは桜から視線を外さずに、俺の名を呼んだ。「あっちに満開の桜があるのに、どうしてここにしたんだ?」
俺が選んだのは、日当たりの加減か七分咲きの桜の近くだ。今見ている桜をはじめ、少し離れたところのほうが満開で、今でこそその下には酔客がたくさんいるけれど、俺が到着した頃は空いていたから、そっちの場所を確保できないこともなかった。でも。
「満開の桜は少し離れて見たほうがきれいでしょう? それにここ売店に近いし、トイレの匂いは来ないし、それから」
「社屋が見える」被せるように碓氷さんが言った。
「はい。ここからが一番よく見えました。特にさっきまで夕陽が窓ガラスに反射して、すごくきれいで。あ、写真ご覧になります? みんなにも見せたいと思って撮ったんですよ」俺はスマホを取り出したが、碓氷さんはそれには興味なさそうだったので、すぐに引っ込めた。
「……おまえ、明日から俺と一緒に外回りな」
「え?」
「五年前、俺も同じ理由でこの場所を選んだ」
碓氷さんは口角を上げてニッと笑った。今までもそう怖い表情は見せない碓氷さんだったけれど、この笑い方はいつもの笑顔とは違っていた。普段が営業スマイルだとしたら、これはもっと本心に近い……希望的観測を含めて良いなら、ようやく俺を後輩として「認めた」という顔だ。
「ありがとうございます」無意識にそんな言葉が出て、頭を下げていた。
「何言ってんだよ、礼を言われるようなこと、何もしてないだろ」碓氷さんはまた笑う。でも、これもまた一味違う笑顔。弟でも見ているような優しい顔。
職場だとこんなころころ表情を変えたりしない碓氷さん。
なんだか、もっともっと別の顔を見たくなった。
そうこうしているうちに、花見の会場もすっかり夜桜になり、園内はライトアップまでされはじめた。職場のみんなは連れ立ってくるのかと思いきや、ぽつりぽつりと集まってくるものだから、乾杯のタイミングひとつ取ってもややこしい。もっとも、花見の司会進行は俺の係じゃなくて、二つばかり上の先輩が仕切っているから安心だ。
「あ、総務部長いらした。萩野、今のうちに挨拶してきな」「あのへんコップ足りない。紙コップでいいから回せ」碓氷さんは折に触れそんなアドバイスをしてくれる。
そうして課長だ部長だと酌して回り、ようやく一段落ついて戻ってくると、碓氷さんの隣には俺の同期の女性がちょこんと座っていた。
……ちょっと待て。そこは俺の席だろ。
さっき席を移動する時に置いておいた、飲みさしの缶ビールがまだあるのを確認し「あれ?俺のビールどこだ?」と大げさに探すふりをした。
「これじゃない?」彼女はその缶を高く掲げるだけで、意地でも退く気はなさそうだ。
当の碓氷さんは苛立つ俺のことなどてんで無視で、彼女に「次は何飲む?」などと聞いている。
「ビール苦くて苦手でぇ、カシスオレンジとか好きなんですけどぉ」俺に対する時より一オクターブ高い声が癇に障るが、碓氷さんはにこやかに相槌を打つ。畜生、やっぱりそうだよな。そりゃ碓氷さんだって女の子のほうが。
「カシオレね。待ってて」碓氷さんは立ち上がる。
同期の「ドリンク係」が買い出しをして、社からクーラーボックスを持参しているが、その中にそんなものはないはずだった。……碓氷さん、わざわざ買ってきてやる気なのか?
「買いに行くなら俺が行きますよ」あんな女のために碓氷さんが動く必要なんかないと思い、俺も立ち上がった。そうなると碓氷さんはあの女の隣に居続けることになるが、「カシオレ、買ってきたよ」なんて言いながら目尻を下げて彼女に笑いかける姿は見たくなかった。
だが、碓氷さんは俺の残した缶をチラリと見るや、「萩野のビールも、もうぬるいだろう? よし、一緒に行こう」と言って、俺の腕をつかんで一緒に歩きだした。……と思ったら小声で「抜けようぜ。この先に良い店、知ってるんだ」などと言い、ニヤリと笑った。
何か企んでいるような笑顔。碓氷さん、こんな表情もするのか。
碓氷さんの指さす方向は並木の夜桜がぼーっと浮き上がってよく見えない。でも、もちろん俺はハイと答えた。桜色のライトアップが俺の赤面を誤魔化してくれていたらいいな、と思いながら。
「カシオレはいいんですか」と一応聞いた。
「ああいうタイプは、俺がいなきゃいないでとっとと他のターゲット見つけるさ」こともなげにそんなことを言う碓氷さん。よくあること、なのだろうか。そう思ったら、何故だかイライラした。そんな俺に、碓氷さんは続けて言った。「おまえは、そうじゃなさそうだから」
「えっ?」
「おまえは、俺しか見てないだろ。出世したいなら、もうちょっと周りも見たほうがいいと思うけど」そこでいったん口籠り、少し照れたように笑った。まただ。また新しい顔。「そういうのも、まあ、嬉しくないわけでも、ない」
碓氷さんの照れた顔が俺にまで感染して、顔が熱くなる。いや、俺のほうが先に照れてたのか。いや、もうそんなことはどうでもいい。
それより、碓氷さんの。
今の、
言葉の、
意味が知りたい。
「この店」碓氷さんが急に立ち止まったので、危うくぶつかりそうになった。そこには、二階に続く細い階段があり、その壁には知らなければ見落としてしまいそうな地味なプレートがあった。店名と一緒に「Bar」と刻まれているからバーなのだろう。いつの間にか公園からはだいぶ離れている。「この先にある」なんて言っていたから、すぐ近くかと思ったけれど、一駅分ほどは歩いたのではないだろうか。
カウンターに並んで座る。ほかに客はいない。BGMにスタンダードナンバーのジャズがかかっていた。
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