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第2話
碓氷さんは酒の銘柄は言わずに「碓氷」と名乗る。それを受けて、バーテンダーは背後の棚からキープされているウィスキーのボトルを探しだした。目の前に置かれたボトルを指さして、碓氷さんが「これでいいなら、一緒に飲もうよ」と言う。
「えっと、じゃあ、水割にしてもらってもいいですか。チェイサーも」ウィスキーは飲み慣れないし、そもそもそんなに酒に強くない。
「もちろん」こんな時、碓氷さんは「新人なんだからじゃんじゃん飲め」などと強要したりしない。そんなところも好感が持てる。
「大人って感じですね。こういう店でさりげなく飲む男、憧れます」
「落ち着く店だろ? たまにね、一人で来る」
「一人で?」
「ああ。誰かと来たのは……最初にここに連れてきてもらった時ぐらい」
「会社の人ですか?」
「そう。今の俺と萩野と同じ関係。俺の教育担当だった師岡 さん」碓氷さんはそこで俺の顔を覗き込むように見た。
「な、なんですか?」
「師岡って名前で、ピンと来ない?」
「もろ……? あ、社長」
「当たり。良かった、これが分からなかったら新人教育やり直さなきゃならないところだった」碓氷さんは大げさに眉間に皺を寄せてみせた後で、ニッコリと笑った。「というわけで、その師岡さんはうちの社長の親族。でも、そんなこと全然鼻にかけなくて、良い人だった。教わりたいことはまだまだあったんだけど、本社にいると変に派閥争いに巻き込まれるのが嫌だって、出身地の九州の支社に引っ込んじゃったんだよね。最初のボトルはその人の置き土産を頂戴したんだ。これは、何代目のボトルかなぁ」
懐かしそうにボトルを眺める碓氷さん。今の俺と同じ関係だったというなら、碓氷さんはその人のことをこんな風に想っていたのだろうか?
そう思った自分にドキッとする。「こんな風に想う」って、どういうことだ?
間もなく碓氷さんのロックと俺の水割が来て、軽く乾杯をする。ロックグラスに添えられた碓氷さんの手。長い指。きれいな手だ、と思った。時々職場でパソコン作業を教わる時も、その美しい手が俺の前を去来する。爪の先まで整えられているその手に触れてみたいと思ったのは、一度や二度ではない。
俺は水割を呷る。花見の席でもかなり飲まされたけれど、美味しいと思ったのは、碓氷さんとフライングで乾杯した最初のビールだけだ。その後、酌して回った上司は揃いも揃って、酎ハイやら日本酒やら自分の飲みたいものを俺に勧めてきたから、チャンポンもいいところで、味なんぞ分からない。もうしばらく酒は見たくないとさえ思っていたぐらいだ。
でも、この水割は美味しい。
いや。
水割が美味しいんじゃない。きっと、それを勧めてくれる、この手が。
気が付いたら、碓氷さんの手を握っていた。「碓氷さん、手がきれいですよね。爪も。手入れしてるんですか?」自分でも何をしているのか分からなかった。
それでも碓氷さんは俺の手を振り払うでもなく、いつもの笑顔で答えてくれた。「ああ、うん。うちの商品って繊細だろ? 大切なものは傷つけないようにしないとね。爪切りや爪磨きはいつも持ち歩いてる」
「爪磨き?」
聞き慣れない言葉だった。でも、意味は分かる。碓氷さんの艶のある爪は生来のものだとばかり思っていたけど、そんな道具もあるのか。やすりみたいなものだろうか。
「男はあまり使わないかな。でも、マニキュアまでするのは抵抗あって」
碓氷さんの声が心地よく響く。握った手は皺もシミもささくれもない、滑らかな皮膚だった。美しい手だけれど、女性的ではない。細く長い指でも関節はごつごつと出っ張っているし、甲には静脈も浮き出ている。磨いていると聞いたら爪の表面まで撫でたくなって、酔いを自分への言い訳にして、指先に触れた。
大切なものを傷つけないようにと隅々まで整えられた手。
この手が触れるのは商品だけじゃないんだろう。この手に大切に触れてもらえる人は幸せだと羨ましく思う。それから無意識に左手の薬指を確かめて、そこに何もないのを知るとホッとした。
この手に触れてもらいたい。
この人に大切に触れられたい。
この人に触れたい。
繊細に、大切に、触れたい。
「俺も大切な人を傷つけたくないな」俺は碓氷さんの爪の先を撫でる。滑らかなカーブはどこにもひっかかりがない。「ね、碓氷さん? 俺にもやり方、教えて?」自分でもびっくりするほど甘えた言い方をしてしまう。
一瞬にして強張った碓氷さんの手に少し正気に返った俺は、恐る恐る碓氷さんを見た。男に手を握られてそんなことを言われて、さすがに不愉快になっただろうか。
碓氷さんは笑顔ではなかった。
ただ、真っ赤になって硬直していた。
「えっと……それは……どういう。あ、いや、いいんだけど。爪の手入れぐらい、いつでも教えてやるけど」
その口調から、赤面は怒りのせいではなく照れているからだと分かり、安堵した。そんな風に焦る碓氷さんを初めて見た。碓氷さんは依然として俺のされるがままに手を握られていて、そして、嫌がってるようには見えない。『大乗り気とまでは言えなくても、悪い感触じゃないと思ったら、タイミングを逸しないうちに一気に畳みかけろ』、そう伝授してくれたのは碓氷さんだ。
「教えてください」俺は握ったままの手を更に強く握った。「すぐにでも」
碓氷さんはまじまじと俺を凝視した。それからロックグラスを揺すった。球形に削られた氷がからからと音を立てる。碓氷さんはそれを口元まで持っていくが、飲まないままテーブルに戻した。俺の水割もまだ三分の一ほど残っていた。奢られておいて残すのは非礼な気がして、俺は慌ててそれを飲み干した。それが合図ででもあったように、碓氷さんは立ち上がった。
早々にバーを出て、行先も言わずに歩き出す碓氷さんの後に着いていく。
「ごちそうさまでした」
「うん」
碓氷さんは何か考えているようで、珍しく上の空の返事だ。いや、考えていると言うより、迷っているような。
「あの」話しかけると、碓氷さんは立ち止まり、俺を見た。言うことを決めていたわけじゃなかったから、続きが出てこない。
「……腹、減ってないか?」碓氷さんは近くのコンビニを親指で指した。コンビニで何か食べ物を買おう、という意味なのだろうけれど、買って、それからどうするんだろう。
「減ってます」と答えた。俺は狡い。「どうするのか」の判断を碓氷さんに委ねようとしている。碓氷さんもそれは分かってるんだろう。だから、迷っているのだ。
碓氷さんはコンビニに入っていく。俺もそれに続く。碓氷さんが何を選ぶのかに注目する。たとえば菓子パンやレジ脇のホットスナック系のものだったら、期待薄、だ。……なんて思った直後には、何を期待してるのかと自問自答する。
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