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第3話
碓氷さんが手にしたのは、弁当だった。ごく一般的な、幕の内。そして「おまえも、好きなの選べ」と言った。
「えっと……」俺がためらっていると、碓氷さんが言った。
「俺んち、ここからすぐだから、電子レンジはうちのを使えばいいよ」
俺は碓氷さんの顔を見た。その表情から碓氷さんもまた、俺の反応を窺っているのが見て取れた。俺は電子レンジが必須の明太パスタを選んだ。
レジにそれを持っていく。ふと横を見れば、そこは花見客を当て込んだらしき軽食や菓子の特設コーナーとなっていた。
俺の目に留まったのは桜餅だ。
「桜餅はどっち派ですか?」と俺は聞いた。
「関東か関西かって質問なら関西の……こっちで言う、道明寺だな」
「いえ、葉っぱも食べるか食べないか、です」
「そっちか。食べないな」
碓氷さんが俺のパスタも含めて弁当の会計をしている隙に、俺は端のほうのレジで、道明寺とクレープ状の桜餅、それぞれ一つずつ買った。
碓氷さんは「すぐ」と言ったのに、また歩かされた。それも相当の早歩き。そのスピードでコンビニを出てから二十分以上も歩いている。まずはこの健脚を見習わなければ碓氷さんのようにはなれないのかもしれない。
やっとたどりついたのは、トップセールスマンらしからぬ、ごく普通の、庶民的なアパートだった。
「狭くて散らかってるけど」そう言ってドアを開けてくれる碓氷さん。
「一人暮らしですか」
「うん」
「関西出身なんですか?」
「いや、横浜だけど。なんで?」
「道明寺派って言ってたから」
「ああ」碓氷さんは買ってきたものをテーブルに置いた。「実家の近所に和菓子屋があって、そこの道明寺が好きだった」
「なるほど。ちなみに柏餅は?」
「……柏の葉っぱは食べられなくない?」
「餡子の話です。漉し餡か粒餡か。あ、あと味噌餡っていうのもありますね」
「ややこしい聞き方するなよ。俺は漉し餡」
「へえ」
「そんなに意外?」
「粒餡のイメージでした」
「ハハ、なんだよ、粒餡のイメージって」
俺はこっそり買っておいた桜餅を二種、弁当の隣に置いた。「手土産です」
「いつの間に買ってたんだよ」碓氷さんは笑った。「これはデザートだな」
「弁当の後ですか?」
「すぐ食べたいのか?」
俺はじっと碓氷さんを見る。「桜餅も弁当も後回しでいいです。それより、すぐ教えてくれるっておっしゃってたほうの」
「……爪の手入れ?」
「はい」俺は手を伸ばして、碓氷さんの手を取った。「大切なものを扱うには、どんな風に触れたらいいのか、とか」
碓氷さんは片手を俺に預けたまま、あからさまに困惑の表情を浮かべ、空いているほうの手で頭を抱えた。「あのさ、なんか、おまえの言い方って、口説かれてる気分になるよ。そんなんじゃ客に勘違いされるぞ。気をつけろ」
「は?」この期に及んで勘違いで済ませようとする碓氷さんも狡い、と思ったりする。「勘違いじゃなかったらどうします?」
「あのな、言っておくけど"枕"のレクチャーなんかしないからな。やったこともないし」碓氷さんは苦笑いする。
「枕って、枕営業ですか? 碓氷さんがそんなことしてるとは思ってませんよ」なんだかバカバカしくなってきて、結局は俺のほうから手を解いた。
碓氷さんは椅子に座った。小さなダイニングテーブルでセットの椅子は二つだけ。もう一つの椅子には新聞が載っていたから、俺はそれをテーブルによけて座った。そんなところからも、誰かと同棲している気配はない。
「萩野は可愛い顔してるし、そういうやり方もできないことはないんだろうけどな、俺は枕なんか認めてないから」
「さっきから何言ってるんですか。俺だってやらないですよ」
「だったら尚更、今みたいな、誤解を招くような」
俺は最後まで言わせずに、言葉を被せた。「誤解じゃないです」
「なっ……」
「口説いてるんですよ、さっきからずっと。バーにいる時から」
碓氷さんは口を半開きにして驚いている。
「モテるんだから、分かるでしょう、そのぐらい」俺は畳みかける。
「……俺、男だし」
「知ってますって。ちなみに俺もです」
「知ってるよ。……おまえは、その」
「男とつきあったことはないけど、寝たことはあります。興味本位で」
碓氷さんの眉間にしわが寄る。「興味本位」
「興味がなきゃしないでしょ、普通」
「じゃあ、今の、口説いてるってのも興味本位か?」
「興味はあります。でも、それがメインじゃないです」
碓氷さんが溜息をつき、髪をかきあげた。せっかく整髪料で整えられていたはずの前髪がバラバラと崩れた。「おまえの言ってることは、分かるようで分からないな」
「単純です。好きなんです。俺、碓氷さんのこと。好きだから、当然興味もあります」
「はぎ……」それ以上言わないでくれと言わんばかりに俺の口元に差し出された手を、俺はつかんだ。
「碓氷さんだって本当は分かってたはずです。でなきゃ部屋に入れたりしないでしょう? 確かめたかったんですよね? 俺がどういうつもりでこんなことしてたか」俺は碓氷さんの手をそのまま口元に持ってきて、その甲に口づけた。「誤解でも勘違いでもないです」
「あのな」碓氷さんはそこまで言って、続きを言えずに口をパクパクさせている。そしてやっぱり、握ったままの俺の手を振り払ったりはしない。それが答えだってこと、本人は自覚できないみたいだ。
「もう一度言わせてください。好きです。でも、振られても根に持つようなことはしません」
「あのな」と碓氷さんは繰り返した。「萩野は優秀な後輩だし、可愛いと思ってるし、嫌いじゃない。ただ、それはあくまでも仕事の」
それは俺を説得していると言うよりは、自分自身の気持ちを整理したくて言っている独り言のように聞こえた。見方を変えれば、そうでもしないと気持ちが揺らいでしまいそう、ということでもある。そんな隙を"優秀な後輩"である俺が見逃すわけにはいかない。
「今ならお試しキャンペーン実施中」と俺は言った。
「あ?」突然の営業トークに碓氷さんは目を丸くした。
「試してみて、やっぱり違うと思ったら継続しなくても大丈夫です」
「おまえを? 試す?」
「はい。合う合わないは実際やってみないと」
「や、やってみるっておまえ」
「クーリングオフしていいですから」
「おまえはさっきから何を」
俺は碓氷さんの口を手で塞いだ。「すみません、まだクレーム対応は得意じゃないんです」
碓氷さんは乱暴に俺の手を払った。いつもならそんな雑な動作は決してしない。
「トークで誤魔化すな。本当にモノに自信があるなら、そんな上っ面のセールス文句なんか必要ないだろ」
まっすぐ俺を見る目に、身震いした。もちろん、武者震いのほうだ。
この人を堕としたい。何が何でも、自分のものにしたい。
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