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SS 甘い休日
蒲生奎吾が自身のマイノリティを自覚したのは早かった。
初恋は幼稚園の年中組で、相手は二十歳過ぎの保育士だった。いまではどんな顔をしていたのか覚えていないが、ふわりと笑ったときの笑顔がやさしくて、頭を撫でてもらうとドキドキした。相当なマセガキだったように思う。
高校二年のとき、放課後誰もいない教室で、当時つき合っていた同級生の男とキスしていたのを、偶然忘れ物を取りに戻ったクラスメイトに見つかった。その日の夜にはクラス全員が知ることとなり、翌朝登校した自分の机の上に嫌がらせのように使用済みコンドームが置かれているのを目にしたときは、なんてくだらないヤツラなんだろうと呆れた。蒲生は学年の中でも目立つ生徒だったが、手のひらを返したようなクラスメイトたちの態度に、やり場のない怒りをぐっと堪えた。
付き合っていた相手は蒲生を避けるようになり、夏休みが終わって新学期が始まるころには別の学校へと転校していった。受験などの鬱屈を抱えたクラスメイトたちにとって、蒲生はストレス解消の絶好のターゲットだった。
朝履いてきた靴は放課後にはどこかへ消えてなくなり、体操服は便所に捨てられた。それでも堪えたようすもなく、飄々と過ごす蒲生の態度は、一部の生徒の気に障ったらしい。どこからか引っ張ってきたゲイ雑誌に蒲生の顔を合成し、わざわざ自宅にまで送ってくる念のいれようだ。くだらない騒ぎは当然蒲生の親の知ることとなり、それまで自慢の息子だった蒲生は単なる厄介者に成り下がった。母はさめざめと泣き、兄ちゃん兄ちゃんと懐いていた弟からはゴミでも見るような冷たい目で見られた。父は問答無用で蒲生を殴ると、お前は異常だと吐き捨てた。
一見普段と変わらないように見えてはいても、蒲生はまだ十七歳で、高校生のガキにすぎなかった。本人も気づかないうちに、内心では深く傷ついていた蒲生に救いの手を差し伸べてくれたのは、向島に住む父方の祖父母だった。
祖父は昔気質の職人で、愛想のかけらもなかったが、休みには近所の爺さん連中と将棋を指すのが好きだった。祖母はそんな祖父の後を三歩下がってついていきながらも、芯はしっかりと持っている人だった。向島の暮らしの中で、蒲生の傷ついた心はゆっくりと癒されていった。
夏の暑さのせいかしらねえと、体調を崩した祖母に癌が見つかったのは、蒲生が向島の家で暮らし始めて三年目の夏だ。祖母が亡くなったとき、蒲生は泣いた。実の両親、弟にまで見放された蒲生のことを、誰よりも心配し、愛情を与えてくれた人だった。もともと蒲生がマッサージに興味を持ったのは、そんな祖母の影響があった。歳のせいか疲れが取れないと漏らす祖母の身体を、少しでも楽にしたいと思ったからだ。
祖母の死後、蒲生は祖父の家を出て、一人暮らしを始めた。国家資格である「あん摩マッサージ指圧師免許」を取得後、しばらく国内のサロンで働いていたが、自分がやりたいこととのズレを感じていた。迷っていた蒲生の背中を押してくれたのは、これまで孫のことなど無関心で、家へ招き入れてくれたのも義務にすぎないのだろうと思っていた祖父だった。蒲生は国際的に認知されているアロマテラピーの資格を取るため、イギリスに渡ることを決意した。
日本に戻って独立したのは二十七歳のとき。口コミから評判を読んで、予約が取れないほどの人気店にのぼりつめた。ちなみに祖父はいまでも健在で、向島の一軒家に一人暮らしをしている。
柏木希の第一印象は最悪だった。最初、蒲生は希のことをゲイフォビアだと思った。嫌なら最初から近づかなければいいのに、わざわざ他人のテリトリーに土足で踏み込むような真似をする暇なやつらがいる。希もその類だと思った。酔ってオカマだ何だと騒ぐ希は正直不快だったし、腹も立った。蒲生はもともと親切なたちではない。そのまま痛い目をみても自業自得だと思うのに、助けの手を差し伸べるように自宅まで連れ帰ってしまったのはなぜだったのだろうーー。
コーヒーの芳ばしい匂いが、朝の光に包まれた部屋を満たす。休日の午前十時。窓の外は眩しいほどの青空が覗き、まだ七月だというのに、連日真夏のような暑さだった。蒲生は冷房が効いた快適な室内でコーヒーを淹れている。
冷蔵庫を開け、卵をふたつ取り出すと、熱したフライパンの上に落とした。ジュワッと美味しそうな音がして、卵の端がフリルのようにこんがりと色づくのを待つ。白身はふっくらと、黄身はほどよく半熟がいい。ホテルなどで出される目玉焼きとは違う、焼くというよりかは揚げるに近い。前に希に出してやったところ、端がカリカリになったところが気に入ったらしく、夢中になって食べているのを見て、それからときどき作ってやるようになった。
鼻歌を口ずさみながら、サラダを作る。冷蔵庫にゆでエビが残っていたので、それも足した。カリカリのベーコンと、完熟トマトの甘み。アクセントに加えたキヌアの触感が食欲を誘う、ボリューム満点サラダだ。朝だからビタミンCがたっぷり摂れたほうがいいだろうと、オレンジを絞って生ジュースを作った。トーストは最近贔屓にしている隣町のパン屋のものだ。これも、希のお気に入りと知ってわざわざ足を運んだ。そろそろ恋人が起きるころだろうと蒲生が思ったとき、
「おはよ……うあ、すげー、超うまそう! めちゃくちゃうまそう! え、何、これ全部お前が作ってくれたの!?」
寝室から出てきた希は蒲生が作った朝食を見ると、驚いたように目をまるくした。何か手伝うかと訊ねる希に、蒲生はチュッと口づけた。
「おはよう。もうすぐ出来上がるから、ゆっくりしてな」
夕べ蒲生が散々啼かせたせいで、希の目の縁はうっすらと赤くなっている。食むように恋人のキスを味わっていると、とろんと色っぽく瞼が落ち掛けたその瞳が、次の瞬間、ぱっと見開いた。
「お、俺、先に顔洗ってくるな!」
逃げるように洗面所へ消える希の後ろ姿を、蒲生はぽかんとした顔で見送った。希はときどき蒲生が思いもよらないタイミングで照れる。いったいいまの何が希のツボだったのかわからずに、そんな状況を楽しんでいる自分に蒲生は気づいた。
昔の俺だったら間違いなくウザいと思っていたな。
決して誇れることではないが、蒲生はこれまで寝る相手に苦労をしたことがない。身体だけの関係を好み、相手が本気になる前に距離を置いた。誰か特定の相手に執着したこともなく、特にノンケだけはごめんだと思っていた。
ーーあのさ、汚点だなんて思わないよ!
迷いのないまっすぐな目で自分を見つめ、汚点なんて思わないと言い切る希の言葉を聞いたとき、蒲生はとっさにまずいと思った。なにがまずいと思ったのかは、正直自分でもわからない。ただ無性に希の存在が、その言動が蒲生の中の何かを刺激した。
キスをしたのは、希を傷つけたかったからだ。投げつけたような蒲生の言葉に、希がショックを受けたのがはっきりと見てとれた。
ーー……本当にすみませんでした。
その結果を望んだのは自分なのに、しょんぼりと肩を落とした希をそれ以上見ていられず、蒲生はイライラと席を立った。バスルームに入り、服を着たままシャワーの蛇口を捻る。そうしている間に、希が大人しく部屋を出ていくことを願った。けれど実際に玄関の扉が閉まる音がしたとき、気がつけば蒲生はバスルームを飛び出していた。自分以外誰もいなくなった室内を見て、蒲生はこれでよかったのだと言い聞かせた。
偶然サロンで再会したとき、内心激しく動揺しながらも、態度にはそれほど表れていなかったように思う。ようやく施術が終わってほっとする蒲生に、希は少しの躊躇いもなく頭を下げた。自分の言動を心から悔い、助けてくれてありがとうと告げる希に、蒲生はうろたえ、逃げるようにその場から立ち去った。
なぜ自分がこれほど動揺しているのかわからなかった。ずば抜けて器量が良いわけでもなく(悪いとは言っていない)、そこらへんにいくらでもいそうなごく普通の男の何が自分の調子を狂わせるのか。突き詰めて考えたら決定的な何かが変わってしまいそうで、蒲生は恐れ、そして逃げた。
これ以上こいつに関わらなければいい。
普段と変わらない日常が戻ってきたことに安堵して、そのくせ自分が何かとてつもない大きなミスをしてしまったような不安にかられた。
希が再び蒲生のサロンに訪れたのはそんなときだった。これまでの態度を真摯に詫びる希の顔には、もう二度と蒲生には関わらないという清々しいほどの決意が滲んでいた。
これを逃したらもう二度と会えない。もう一度偶然が訪れることなんてないーー。
とっさに後を追いかけ、その手を掴んだのはほぼ無意識の行動だった。呆気にとられたような希の顔から、照れくさそうな笑顔が零れたとき、蒲生の中でこれまで固まっていたものがほろりと崩れ落ち、あたたかな何かに包み込まれるのを感じた。蒲生は、ようやく自分が間違っていなかったことに気がつき、安堵した。
「それでどうするんだ?」
食後、新しくコーヒーを淹れ直した蒲生は希に訊ねた。きのう会ったときからなんだか希のようすがおかしいと思ったら、弟とケンカをしたという。
これまでいったいどうやって生きてきたのだろうと不安になるくらい、希は考えていることがすべて顔に出る。気持ちがまっすぐで、情に厚く、心根がやさしい。そんな兄の愛情を一身に浴びて育った希の弟ーー明は、以前一度会ったことがあるが、蒲生に言わせればかなりのブラコンだ。兄がいざというとき、蒲生でなく自分を選ぶであろうことを頭で考えるまでもなく理解している(もちろんいまの状況に蒲生が納得しているわけではない。希が明の保護者という立場でなくなったら、そのときは遠慮しないつもりだ)。
ーーのぞちゃんのこと、泣かせたら承知しないから。
にっこりと笑ったその目は決して笑ってはおらず、兄の見ていないところでしっかりと蒲生に釘を刺してくるあたり、大したタマと言えるだろう。
詳しい理由を希は話したがらなかったが、それでもようやく蒲生が聞き出したところ、明が恋人(希の弟はゲイで、相手はひとつ上の先輩という話だ)と一緒に夏休みの旅行の計画を立てているのだという。
ーー明はまだ高校生だぞ! 付き合っている相手と旅行なんて早くないか!?
内心そんなことはないんじゃないかと思ったが、もちろん顔に出すようなことはしない。
希は、まるで蒲生が明の相手だというかのように憤慨すると、表情にわずかな困惑を滲ませた。
「……どうするって、別に」
もごもごと口ごもりながら、
「それよりもこの豆、まじでうまいのな。蒲生の淹れ方がうまいからかな」
よほどその話を続けたくないのか、コーヒーに気を取られたふりをする。
「ーー奎吾」
「え?」
「蒲生じゃなくて、奎吾」
蒲生はテーブルの上にマグカップをコトリと置くと、ぎょっとしたように大きく目を見開く希の頬に触れた。
「名前で呼ぶって約束しただろ?」
その目をじっと見つめたまま指先でするりと頬を撫でれば、じわりと目元を染めた希が気まずげに視線をそらした。
「けけけけ……奎吾」
鶏のように必死なようすで名前を呼ぶから、蒲生は思わず吹き出してしまった。
「笑うなよ!」
「悪い。なんでそんなに難しいのかわからなくて……」
一度笑いのツボに入ったものはなかなか止められず、クツクツと腹を抱える蒲生に、希はついにへそを曲げてしまった。
「改めて呼ぶのは恥ずかしいんだよ! 呼べっていうから呼んだのに、笑われるならもう二度と呼ばない!」
慌てたのは蒲生だった。
「笑ってない。これっぽっちも笑ってないぞ」
真剣な顔で詰め寄る蒲生に、希は今度こそ呆れた表情を浮かべた。
「蒲生こそ、なんでそんなに名前を呼ばせたいんだよ。お前ってそういうタイプだったか?」
「なんでって……」
蒲生は戸惑うように口ごもった。確かに希の言うように、これまでの蒲生だったら名前なんてどう呼ばれたって構わない。構わないというか、どうでもよかったというのが本音だ。特に蒲生が希に会う前に出入りしていた場所では、よけいな面倒を避けるという意味もあって、皆名前で呼び合うのが普通だった。
それでも嫌なのだ。どうでもいいヤツラが自分のことを名前で呼んで、肝心の恋人が他人行儀に名字で呼ぶことに、何とも言えない座りの悪い気持ちになる。ーー正直言えば、希に名前で呼んでほしい。
「……呼んでほしいの?」
じっと見つめられ、思いがけない自らの本音に気づかされた蒲生は動揺した。
「……誰が!」
つい思ってもいない憎まれ口をたたいてしまい、しまったと思ってももう遅い。蒲生はふいっと顔を背けると、気まずげに席を立った。
「蒲生……ーー奎吾」
背後から躊躇うような恋人の声が聞こえ、蒲生の胸は震えた。
希の手がそっと蒲生の髪に触れ、愛おしむようにやさしく撫でる。
「お前ってさ、ときどき子どもみたいになるのな」
照れくさそうに、その瞳がやわらかく笑みのかたちをつくるのを、蒲生は呼吸を詰め、胸が締め付けられるような思いでじっと眺める。髪を撫でていた希の手を掴み、自分のほうに引き寄せると、希がはっと呼吸を飲むのがわかった。
「ーー子どもみたいな俺は嫌か?」
ようやく発することができた言葉は自分でも嫌になるほど不安げで、希が驚いたように目を見開く。次の瞬間、花がほころぶように恋人の口から笑みが零れた。
「ばーか。嫌なわけあるかよ」
胸がぎゅっと苦しくなる。悲しいことなど何ひとつないのに、わけもなく泣きたいような気持ちになった。蒲生は希の後頭部に手を添えると、その唇にキスをした。
「……奎吾」
蒲生と同じものを期待するように、希の瞳が色っぽく潤む。蒲生は恋人の身体を抱き上げると、寝室へと向かった。
その後、蒲生の予想した通り、明は兄の許可を得て、恋人との旅行に出かけたらしい。「これ、お前に土産だってさ」と首を傾げた希から手渡されたものは今時どこに売っているのかと疑問に思うような時代遅れの木彫りのキーホルダーで、これは新手の嫌がらせか何かだろうかと蒲生は頭を悩ませた。
END
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