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第1話
これは、暁 が十五歳から十八歳までの四年間を過ごした場所での出来事だ。そこは暁が住んでいた東京から遠く離れた田舎にあって、正確な市町村名を彼は知らない。ただ四季があるということしか、ほかのどの地域との共通点もないところだった。高校受験をする前に父親から、田舎に帰って静かな環境で暮らしたいと言われた。友達と離れるのは寂しかったし、なにも娯楽がないだろう田舎に引っ越すのは嫌だったが、男手一つで自分を育ててくれた父親の疲れ切った顔を一番近くで見ていたのは自分だ。暁はその意向に従った。ちゃんと高校もあるらしいし、自活できるようになればまた東京に戻ってくればいい。父親とはそう話した。卒業式で後輩の女の子に告白されて、嬉しい気はしたが断った。いまでもその子のアドレスだけは、ちゃんと携帯に登録している強かさだけは持ち合わせていたが。
引っ越し当日に空港まで迎えに来てくれたのは、父親と幼馴染みだと言う武 というおじさんだった。しっかり者の熊みたいな、工事現場とかによくいそうな風体で、父親と並ぶと対照的だ。
「元 ! よく帰ってきたな!」
「ただいま。ほら、暁」
「はじめまして…」
「おおおーよく似てるな! ってそりゃそうだよな!」
武は豪快に笑って、乗ってきた軽トラックに二人を乗せた。暁は初めて軽トラの定員が二人と知った。
「暁は荷台な」
「まじかよ」
「危ないからちゃんと座ってろよ。あと寒いからこれまいとけ」
初対面のはずなのに、しかも親戚でもないはずなのに武からの粗雑な扱いに暁は面喰ってしまった。田舎ってこんなもんか? 渡された毛布はけばだっていて、堆肥の匂いがした。電化製品や大きな家具は既にこれから住む家に届いているらしく、もともと積んであったなにに使うのか分からない農具みたいなもののなかに、暁はちょこんと座りこんだ。振り返るとガラス越しに父親が手を振っていた。手を振り返して、ガタガタ揺れる荷台で足をつっぱって踏ん張る。暁は複雑な気持ちになった。父さんには地元の友達がきっとたくさんいるんだろうけど、俺は一から友達を作らなきゃいけない。話の合う奴がいればいいんだけどな。
雪こそ降っていなかったが、底冷えする三月に、ずっと畑ばかりの風景を見つめていると頭がおかしくなりそうだ。助けを求めたくて運転席を覗くと、父親と武が楽しそうに話している。父さんは東京に似合わない人だった。五分前行動とか、満員電車とか、ごみごみした汚さとか、華やかさとか、全く向いていなかった。ここに帰ってきてまだ一時間も経っていないけれど暁にはそれが分かってしまった。
「暁! ここから山道だからしっかりつかまってろよ!」
「はいはい!」
運転席から顔を出して、武が大声でがなる。
「お前も運転するんだからな、覚えとけよー」
「えっなにそれ聞いてなっ」
暁は人生で初めて舌を噛むかもしれない恐怖を味わった。ここからは急な斜面だ。林業と農業が盛んな地域と聞いていたので、つまり畑ゾーンは終了し、ここから山ゾーンが始まるわけだ。テレビの旅番組でしか見たことのない、鬱蒼とした山道を軽トラは進む。ドナドナの歌がこだました。
どれくらい山道を進んだか分からない。あたりはすっかり暗くなっていた。空港に着いたのは三時ごろだったはずなので、森だから暗いのではなく本当に日が暮れているのだろう。つまりものすごく寒い。臭い毛布でぎゅっと体を包み込む。父親が、引っ越す前に大型スーパーで五本指靴下や帽子や耳当てをたくさん買ってくれたことを思い出した。いや、もっと早く言えよ。荷台に敷かれていた茣蓙みたいな藁みたいなものから、冷気が伝わってきてお腹が痛くなってくる。寒い、暗い、そして静かだ。新しい家に着く前に、前の家に帰りたい。あんまり寒いので、農具を覆っていたビニールシートを拝借して尻に敷いた。本当にこんなところで自分は暮らしていけるのだろうか。空港からここまで、コンビニは三つ以上なかった。数えたことを後悔した。途中で全く知らない地名の農協の看板や、打ち捨てられた馬小屋なんだか牛小屋なんだかよくわからない小屋をいくつも見た。泣きたい。
「…武…絵子 の次は哉子 なのか…」
「…それ以外ないだろ。哉子のあとはまたぱったりだよ。だからお前、暁連れて帰ってきたんだろ…」
「……なに?」
急に自分の名前を出されて、暁は目を覚ました。「寝ると死ぬぞ」は本当だったらしい。寒すぎて眠くなるということを初めて知った。
「ほら、ついたぞ。新しい家だ」
「えっ!」
軽トラは一軒家の庭らしきところに停まっているようだった。すぐに体を動かそうとしたけれど、寒くてかじかんでいて動けない。おたおたしていると武が脇に手を突っ込んでひょいっと荷台から降ろした。
「…でっけ!」
目に飛び込んできたのは、テレビでしか見たことのないザ・古民家だった。
「屋根が三角だ! 瓦だ! 縁側ある! でっけ!」
「新鮮な反応」
「電気ついてるけど誰かいるの? これ父さんの実家なの?」
「滋 が夕飯作ってるって言ってたぞ」
「あ、そうなんだ、あとでお礼を言っとかないと…」
興奮する暁を無視して、大人はざくざくと砂利を鳴らして家に進む。
「ねえ蔵あるんだけど!」
「暁、また明日にしよう。お前も使うんだから」
「蔵を?」
「うん。ほら、寒いから入ろう」
ガラガラ、と引き戸を開けて元が呼ぶ。
「これ鍵どこについてんの?」
「鍵? あるけどあんまりかける習慣ないよ」
「田舎だ!」
「だから田舎だって言ってんだろー。おーい、滋! 連れてきたぞ!」
武に後ろから背中をどんどん押されて、あわてて靴を脱ぐ。かじかんだ指のせいで靴ひもが上手くほどけない。
「おかえりー」
冷たそうな木の床板が続く先、暖簾の向こうから声が聞こえる。また元の友達かと、暁は少し身構えたが、出てきたのは自分と同じ年くらいの男だった。
「滋ひさしぶり、いろいろとありがとう」
「元さん老けましたね! あ、暁だ!」
「…はじめまして」
「あ、そうか俺のこと覚えていないか…滋です」
日本人形みたいに目が細い。おかっぱみたいに丸い頭で、和服を着せたら絵巻物に出てきそうだ。滋は暁の目をじっとみつめると、にっこり笑った。
「寒かっただろ、鍋にしたからみんなで食べよう」
「おっ何鍋?」
「武さんも食べるの? 余分に作ってないよ」
「暁も結構食べるよー、こう見えて運動してたし」
「元さんに似なかったんだね」
父親が、田舎に里帰りした日なんて、自分が物心ついてから一度もないはずなのに、この打ち解けようはなんなんだ? 暁は寂しさ以前に疑問を抱く。こいつら、仲良すぎだろうと。間取りも分からないうちに居間に通され、掘りごたつに放り込まれる。本物の炭が燃えている。
「…あったかい…」
じわり、と涙が瞳を潤すのを感じた。やっとちゃんとしたところに座れて、温かくて、明るい。
「お鍋持ってくよー」
「はーい」
いままで元と二人っきりで、冬になってもわざわざ鍋をテーブルまで持ってくることはなかった。それが今日は、初対面の二人の男と、四人で炬燵を囲んでいる。
「暁、なにとる?」
「あ、適当に…」
隣に座って鍋を仕切っているらしい滋に問われても、どう返したらいいのか分からない。
「武飲むでしょ、布団あったかな」
「昨日干しといた」
「ありがとう」
「助かる」
このこけしのような滋という人は、実は暁と同じ歳くらいではないのかもしれない。もし自分だったら、布団を干すことはおろか鍋だってまともに作れないんじゃなかろうか。二人暮らしとはいっても、子どもの面倒はちゃんと見てくれる家庭的な父親だった。暁は部活が忙しいということで、風呂掃除とトイレ掃除以外の家事を免除されていたのだ。
「暁、四月から高校?」
「うん、一応…」
「滋と同じところなんじゃねえの」
「そうだよ」
「そうなの?」
初めて聞いた。滋は声を弾ませる。
「やった、この辺で歳が近いのいなかったから、登下校つまんなくってさ」
「なんもねえぞー、ほんとに、山登りと山下りの連続」
「二年間孤独だったから、仲間ができてよかった」
「滋さん、三年生?」
「うん、でもいいよ敬語とか学校でもしなくて」
「…ハイ…」
地元の人が学校に一人でもいてくれてよかった。暗い森と寒い夜となにもない畑の連続しかまだ見ていない暁に少しの希望の光が宿った。
向かいの元とその隣の武は、楽しそうにビールを酌み交わしている。父さん、楽しそうだな。ぐつぐつと煮える鍋の湯気で、父親の像がゆらぐ。なんだか、変な気分だ。父さんもちゃんと人間だったんだと思うなんて。
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