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第2話
鍋を食べた部屋―やはり居間にあたる部屋だったらしい―のすぐ隣に、暁と元は寝ていた。ちゃんとそれぞれの部屋も用意してあるようだが、引越し当日で疲れているだろうし、面倒くさいだろうからということで滋が布団を敷いてくれていた。武と滋は二階の客間に布団を敷いているらしい。洗面所とトイレの場所(水洗だったことだけが救いだ)だけを案内され、布団に入ったのは夜中の一時をまわっていた。
(…いま、何時だろう…)
ふと目が覚めて、暁は枕元の携帯を探る。午前四時だった。まだ日は昇らないし、凍えそうなくらい寒い。そして案の定、ここは圏外だった。延長コードもまだ段ボールから出していないため、携帯の充電も心許ない。布団をぎゅっと体に巻きつけて、一日の出来事を反芻する。空港からここまで、永遠みたいな田舎の景色が続いた。寒くて、怖くて、暗い道を通って、突然目の前に現れた新しい家と、その新しい家にいた滋という先輩になる人。誰かの親戚なのかとか、本当はどこに住んでいるのかとか、なんの説明もなかった。悪い人じゃないんだろうけど、正体が分からない人は怖い。正体が分からないと言えば、元もそうだった。東京でずっと一緒にいたのに、ここに来たら全然違う人みたいに見えた。ただの冴えない、痩せ型で、不細工じゃないけどかっこよくもない、醤油顔の典型みたいな父親だったのが、ここに来たら急に若さを取り戻して、ちょっとかっこよく見えてしまったのが不思議だった。生き生きしているように思えた。それは暁にとって、新鮮で、寂しいことだ。父さんは俺と一緒にいるだけじゃ、つまんなかったんだね。俺は二人でも、そこそこ楽しい生活を送っていたよ。
ふと、トイレに行きたくなって、寝る前に与えられた半纏と靴下とスリッパを寒さで悪戦苦闘しながら身につけて、廊下に出た。凍えそうなくらい寒かった。元は起きなかった。用を足してから布団の敷いてある部屋に戻ろうと思ったけれど、暗くて道が分からなくなってしまった。目を細めて電気を探そうと思うのに、手が悴んで動かない。
(…詰んだ…)
これは、全てのドアを開けて覗くしかない。そう思った。
カタン
「ふへっ!?」
どこかから音が聞こえた。誰かが起きているんだろうか?
ガタッ、カタッ…
どうやら音は、外から聞こえるようだ。音のするほうへ、手探りに進んでいくと、ガラスの向こうに外が見える場所に出た。つまり、縁側だ。蔵に明かりがついていて、音はそこから聞こえてくるようだった。
(泥棒?)
暗闇に目が慣れてきて、いま自分がいる場所が、寝ている場所の反対側の縁側だということが理解できた。すぐに振り返って襖をあける。やはりそこには父親が寝ていた。
「…お父さん、おとうさん」
「……どうしたの」
「蔵に誰かいる」
元はぼんやりしたまま、こう答えた。
「…武と滋じゃないかな」
「え?」
「明日の朝、説明するから…寒いでしょ、こっちおいで」
「はあ…?」
促されるまま元の布団に潜り込んで、暁は混乱のまま眠った。武と滋があの蔵で、なにをしているというんだろう?
寒すぎて目が覚めた。携帯で時間を確認するまでもなく、朝日は昇りきって、バタバタと歩きまわる音がする。隣を見ると、布団すらない。自分は父親の布団に入ったままのようだ。寝ぼけていたとはいえ、この歳になって大の男が二人で同じ布団に入っていたのかと思うとぞっとする。
「…父さん」
「おはようー朝ごはんできてるよ」
居間と仕切られている襖を開けて、声をかけてきたのは滋だった。
「おはようございます」
「元さんと武さん、朝から大物の家具とか家電とかやっつけちゃってるから、暁はご飯食べたら段ボールから服出したり食器片付けたりするのやってって、元さんが言ってたよ」
「はい…」
「朝ごはん、用意していい?」
「あ、お願いします」
「敬語じゃなくていいよ」
「…うん…」
「寝ぼけてるでしょ」
半纏を羽織って、暁がもぞもぞと動き出すのを確認すると、滋は笑って台所へ向かった。滋は誰かの親戚なんだろうか。昨日は夕飯を作ってくれて、今日は朝ごはんの準備までしてくれるなんて、ただの地元の知り合いにしては手厚すぎる。これが田舎の人間の感覚というものなのか?
「あ!」
寝ぼけていた暁は覚醒した。そもそも昨日の夜、武と滋はあんな夜中に蔵でなにをしていたというのだ? それを元に説明してもらう約束だったのに。もたもたしながら体を起して、隣の掘り炬燵へ入りこむ。
「滋さん」
「なに? ちょっと待って…あ、ご飯どのくらい食べるか自分でやってくれる?」
「あ、すいません」
茶碗を受け取って炊飯器からよそう。だいぶ減っているので、もう三人は食べたのだろう。
「昨日、夜中に蔵にいた?」
「…うん、うるさかったかな、起こしちゃった?」
滋は細い目を開けて、首をかしげんばかりにきょとんとしている。
「うん、なにしてたの?」
「え? あ…そうか…暁は知らないんだね…ああ…どうしようかな…」
味噌汁を温めていたのであろうコンロの火を止めて、滋は廊下に出た。
「ねえはじめさーん! 昨日俺が武さんと身代わりしてたってどうやって説明したらいいー!?」
「え?」
いま滋は「ミガワリシテタ」と言ったのだ。身代わりは、するという動詞になるのか? 意味が分からない。
「あー、ごめん、あとで説明しにいくからー!」
上のほうから元の声がする。
「あとで元さんが説明してくれるって。とりあえずご飯食べよ」
「うん…」
滋は手際よく朝食の準備をして、暁を炬燵に戻してしまった。自分も茶を淹れて、隣に座る。昨日は消えていたテレビがついていた。流れていたのは国営放送で、大河ドラマの次回予告をやっている。
「おいしい…」
「ありがとう」
朝ごはんは、大根とひき肉の煮ものと、目玉焼きと、漬物と、味噌汁と、納豆だった。こんな日本食の鑑みたいな朝食を自分と父親は食べたことがない。朝は買ったパンとヨーグルト、暁は部活の朝練に行く途中にコンビニで朝ごはんを追加して食べていた。
「ときどき作りに来てあげるよ。元さんもこっちで仕事あるだろうし、この家、二人で住むにはちょっと大きいもんね」
「滋さんは、どこに住んでるの」
「ここからちょっと登ったとこ。あとでこの辺一緒に散歩しよっか」
「うん。寒い?」
「昨日からそれしか言ってない、都会っ子だな」
滋は頬づえをついて、嬉しそうに笑った。馬鹿にされたのか、からかわれたのか、急に照れくさくなって炬燵の上に視線を走らせる。
「かえてもいい?」
「え?」
目にしたリモコンでチャンネルを変えようと思ったが、できなかった。
「あれ?」
どの数字に合わせても、画面は真っ暗だ。
「この辺、NHKとNHK教育しか映らないよ」
「嘘!?」
「ほんとう」
滋は朗らかだった。
「え、滋さんずっとここに住んでるの」
「うん」
「じゃあ他のテレビ見たことないの」
「うん。でもリモコンにたくさん数字があるから、他にもチャンネルがあることは分かってるよ」
「うそだろ…うそだ…」
確かに、リモコンの1と3の数字だけ、印字がかすれるほどになっている。他の数字のボタンは、綺麗なままだ。
「困らないの」
「だって、元からないものだし…暁はつまんないかもしれないけど…でも映らないもんはしょうがないからなあ」
そんな地域があるなんて知らなかった。人生の選択肢が一気に減ったような途方もない絶望を感じた。テレビが大好きというわけではないけれど、今まで当たり前のように見ていた民放が見られないなんてそんなことは聞いていない。暁が黙ってしまうと、滋は申し訳なさそうに続けた。
「たぶん、他にも、暁にとって不便だなって思うこととか、変だなって思うことはたくさんあると思うんだけど、あんまり元さんを責めないでね。事情があって、こっちに戻ってきてもらったんだから」
「そんなこと、滋さんに言われなくても分かってるよ」
自分を十五年間男手一つで育ててくれた父親が、どんなに大変だったかは自分が一番よく分かっている。出会って一日も経っていない人に、そんな風に父親のことを言われるのは純粋に、腹が立った。
「…ごめん」
「ううん、滋さんは悪くないから」
「来たばっかりで、不安だもんね」
「まあね…」
黙々と、箸を進める。ご飯の味は変わらずに、美味しかった。
食器を片づけると、滋と二人で外へ出た。冬の澄んだ冷たい空気が、突き刺すみたいで身にしみる。家の門を出て、滋は坂を登りはじめた。
「この辺さ、坂の途中に人の家がある感じのところなんだ。分かるかな、こう…階段の踊り場に人の家がある、みたいな」
「ああ、うん」
舗装の甘い大きな道を、二人で歩く。道からそれると、林に入って戻ってこれないような気がした。
「暁の家の、三つ下の家からが俺たちの住んでる所なんだ」
「どれくらい人が住んでるの?」
「そうだね…三十人、いるか、いないかだな」
「うそ!」
「ほんとう」
「限界集落じゃん」
「ああ、本当にそうだね」
疑問が次々と湧いてくる。なぜ父親は自分を連れてこんなところに帰ってきたのだろう? 家に祖父母がいたわけではない。そもそも暁には祖父も祖母もいない。こんな山と畑だらけのところに、新しい仕事があるようにも思えない。男手を増やしたって―
「この辺って、女の人いないの?」
自分がここで結婚して人数を増やすために戻されたのかなんて推測して、そういえばここに来てから一度も女の人、女の子、おばあさんを見たことがないことに気づく。そもそも引越しの受け入れの荷物を運んだりするのは武で納得できたのだが、食事の支度などは普通、誰かのおばさんとかがやってくれるものなんじゃないだろうか。なぜ主婦のような仕事を全て滋がやってくれたのだろう? 滋は振り返った。
「ねえ…暁には、おかあさんってい」
「いない」
保育園でも小学校でも中学校でもずっと繰り返した、ほぼ反射のような自分の返答。こう聞かれたら、必ず、こう返すしかない。だって自分には母親がいないんだから。
「そういうことだよ」
「どういうこと…」
滋は、朗らかに続けた。
「これからこの山をずっと登って、人の家を一軒一軒まわって挨拶をしても、暁は女の人に会えない」
「なんで」
「ここには女の人は一人しかいないんだ、基本的にね」
澄んだ空気のなか、冬の太陽の光を浴びて、山のなかでそう教えてくれた滋は、もはやこの世の人間ではなかった。
「…滋さ」
「暁か!?」
驚いて振り返ると、二人が登ってきた坂の下に四十代くらいのがっしりしたおじさんがいた。暁を見つめて、目が飛び出さんばかりにそのおじさんも驚いていた。
「…はい」
「よくかえってきたなあ!」
おじさんは驚異的なスピードで坂を登り、暁の肩をばしばしと叩いた。暁は滋が自分の歩幅に合わせて歩いてくれていたことを悟った。
「あ、いやあの、父親は…帰ってきたんですけど」
自分は帰ってきたわけではないと暗に伝えたかったのだが、おじさんは無視して話し続ける。
「これでかなこさがしは暁に軍配が上がるってことだな。元もちゃんとここの男としての役割を果たしてくれるわけだ」
「え?」
「孝 さん、暁はあんまりここのこと覚えてないみたいで、あんまり急にいろいろ言うと疲れちゃうからまた今度にしようよ」
滋がこけしのように目を細めて、孝のがっしりした腕を暁から奪う。
「俺、しばらく孝さんのところに行ってないね。大丈夫?」
「もう歳だなー、そんな気になれないんだよ。滋はいままでで一番可愛いと思うんだがな」
「必要だったら呼んでくださいね。暁のことも、またみんなで集まって話そう。なにせ、暁は昨日来たばっかりで、身代わりのことも知らないから」
「そうなのか!?」
孝は急に語気を荒げた。
「これだから東京行ったやつは、せっかくここで命を授かったのに全部なかったことにしようとするんだ。だいたいな、元が出ていったときだって俺は―」
「孝さん、暁はなんにも知らないから。俺がいろいろ教えてあげるから大丈夫だよ。高校も一緒なんだ。第一高校。だから心配いらないよ。ほら、また血圧上がっちゃうから、今日は帰ろう。家まで送りますよ」
まだ暁に物言いたげな孝の腕を引いて、滋が坂を登り始める。
「暁は家に戻ってて。戻れるよね? 一本道だから」
「うん…」
「早く!」
逃げ出すように暁は走った。孝というおじさんも怖かったし、自分が知らない人間がみんな自分のことを知っているという事実も怖かった。そして、滋の瞳と、孝を諌めたその細腕が、得体の知れない妖怪のようで恐ろしかった。
坂を転がりそうになりながら進む。かなこさがしってなんだ、みがわりってなんだ、どうしてこの森の人はみんな自分のことを知っているんだ。滋ってなんなんだ、昨日の夜、蔵でなにをしていたっていうんだ。はあはあと息をつきながら、二日では全く見慣れない自分の家の前に立つ。みんながここを新しい暁の家だと言う。でも、この家の扉を開けてもいままで通りの父親はいない。自分の知っている家はここじゃない。
「…家に帰りたい」
暁は門の前で座り込んだ。寒いし不安で、家のなかに入らないとまた知らない人に声をかけられるかもしれない。でも家に入って、知らない父親に会うのが怖い。一人になりたいのに、一人になりたくない。ズボンのポケットから、充電があと十%も残っていない携帯を取り出す。
【大槻 春奈】
卒業式で告白してきた後輩の連絡先。圏外だから繋がらないのは分かっている。祈るように、ただぎゅっと端末を握り締める。
「暁?」
家の扉が開いて、武が顔を覗かせた。
「っ!」
驚いてバランスを崩した暁が尻もちをつく。
「お、悪い悪い、驚かせて。それよりお前具合悪いのか? すごい顔色悪いぞ?」
「だ、だいじょうぶ…です」
駆け寄った武に支えられて、なんとか立ちあがる。
「…彼女か?」
「え? 違います…けど…」
携帯を拾った武の表情が硬い。
「あんまり、いい名前じゃないな。ここじゃ、やってけない名前だ」
「え?」
「元が、お前を連れてここを出ていった理由は、元本人から話すしかないとしても、滋や俺たちがなにしてるのかは知らないと、やってけないよな。…滋はどうした?」
「あ、孝さんっていうおじさんを家まで送るって」
「…おお、そうか。孝さんなあ…じゃあ滋がいないうちのほうがいいかもな」
武は唸りながら、暁の肩を押した。最初に会った時よりも、孝よりも、温かみのある腕だった。
「お前は特別だから、なんでも早いうちに知っておく必要がある」
「…それは、この辺の人がみんな俺のこと知ってるのと、関係あるんですか」
「みんなお前と元を待ってたんだ。俺が言えるのはそれだけだ」
「…知るかよ」
促されるまま門をくぐり、慣れない家に戻る。聞きたいことはたくさんあるが、聞きたくないことのほうが多いような気がした。
滋が戻ってくるのを待たずに、居間で元と武と三人、炬燵にあたる。朝淹れた緑茶の出がらしで、暁は両手を温める。
「この辺には、女の人が少ないっていうのは薄々分かってるだろう」
元が口火を切った。
「…滋さんがさっき、この辺には基本的に女の人は一人しかいないって」
「うん、そうなんだ。だから、その女の人は、代々とても大切に育てられていて、普通の日は皆の前に姿を現さないし、お目にかかれたとしても、限られた人しか話したりすることはできないんだ」
「ここ、現代日本だよね」
「うん」
「他の場所からお嫁さんをもらえばいいんじゃないの…?」
「…そうだね、本当にそうだ」
慈しむように見つめられて、自分はそんなにいいことを言ったのかと錯覚する。
「ただ、この辺にはいろいろと、普通の地域とは違う風習があるから、それをあんまり他の人に知られたくなくて、お嫁さんはもらわないようになってるんだ」
「爺どもは血を混ぜるなってよく言ってるな」
二時間ドラマの舞台か、昔の伝奇小説の中に迷い込んだような気がして目眩すら起こしそうだ。
「でも、みんな男だから、ずっと男ばっかりで女の人がいないっていう状況で、なにも起きないはずがないっていうのは…暁ももう分かるよな」
「ああ、まあ…」
「たった一人しかいない大切な女の人に、何人も男が群がって傷つけてはいけない。そうならないように、この辺にはいつも必ず、『彦奈』っていう役割の男の人がいるんだ」
「ひこな?」
元は努めて、感情を表さないようにしているように見えた。
「女の人の代わりに―身代わりになって、夜一緒に寝たり、慰めたり、そういうことをする男の人なんだ」
「男とエッチするってこと?」
「……そう、いうことだ」
「それが滋なんだよ。いまはな。昨日俺が蔵でうるさくしてたのも、滋と寝てたからだ」
「……は、はあ……」
二の句が継げなかった。気持ち悪いとか怖いとかそんなの変だとかいろいろな感情が、暁の脳裏をかけずりまわっている。
「だから、暁も、いずれは滋とそういうことをする日が来るかもしれないし、滋じゃない人が彦奈になったときはその人とそういうことをする、ことになる」
「本当にそうしなきゃいけないの? 絶対?」
「ここには女が一人しかいないって、さっき言ったろ。でもその女に子どもを産んでもらわなきゃここは終わっちまうんだから、誰かと必ず子作りしなくちゃいけない。そのときに、童貞じゃ困るんだよ。だから、まあ、練習みたいなもんだ」
「滋さんはそれでいいの?」
「え?」
もごもごと各々そっぽを向いていた元と武が、虚を突かれたように振り返る。
「滋さんは自分がそうやっていろんな…男の人とエッチしなくちゃいけなくて、嫌じゃないの? しかもそれ、練習台っていうか性欲処理っていうか、人間じゃないじゃんもうそれ尊厳とかないじゃん、しかも拒めないんでしょ」
二人は押し黙った。さっきの孝のように、すぐに反論されると思っていたので暁も言葉を失う。
「…そういう、習慣だからっていうことで、俺たちは納得しているんだ。滋はどういう風に思っているか分からないんだけど、彦奈に選ばれるっていうことは、ここでは名誉なことだと思っている人も多い」
「そんな…ことあるの」
「暁、ここはもうお前の住んでた東京じゃなくて、むしろ違う国だって思ったほうがいいぞ。文化が違うんだよ。俺も外に仕入れに行ったり物を売りに行ったりするときは、結構戸惑うことも多いし、帰ってきた元を見て、変わったなって思ったからな」
「なんでお父さんはここから出ていったの」
「それは、今は言えない」
はっきりと、元が暁の目を見る。目をそらさずに、元は続けた。
「お前はここで生まれた。俺はお前をここで育てることができなかった。だから連れて逃げ出した。でもお前が高校生になったら、戻ってこようと思っていたんだ。ここを出た理由も、戻ってきた理由も、今はまだ言えないけど、いつか絶対に説明する。お前にはここで俺と一緒に暮らしてほしい。頼む」
元が頭を下げた。
「やめて、なにしてんだよ、俺はまだ全然、お父さんになんにもしてあげられないし自立もできないし、お父さんがどれだけ苦労してきたか、分かってるつもりだから…だからここが変な習慣ばっかりで全然馴染めなくても、お父さんの役に立てるまでここにいるから…だからやめて」
俯いて、声がどんどん小さくなっていく。例えこの場所が昔話に出てくる恐ろしい化物の村であったとしても、元がいるなら自分はここにいるしかないし、ここにいたいと思うのだ。親孝行とか恩返しとか、そういう言葉にしてしまうのは簡単だけれど、そうではない。それが自然だからそうするのだ。
「でも、俺は自分が嫌だって思うことは、きっとしない」
「滋と寝ないってことか」
武が口を挟む。
「だって無理だよそんなの気持ち悪い」
「まあ、そりゃそうだよな。普通はな。でも、滋が可愛く見えてきたら、お前もここの人間になったってことだ」
「だから、そういう言い方が気持ち悪いんだって!」
「やー、でも俺もな、急に元が可愛く見えるようになったぞ、ちょうどお前くらいのとき」
「え?」
「昔の話はいまはしない。滋が戻ってきたら、食器片付けの続きを一緒にやること。武はまだ二階と水回り手伝ってもらうからな」
元が湯呑を片付けて立ちあがる。
「また今度な」
こっそり耳打ちした武の、屈託のない笑い顔にほっとした。けれどすぐにその気持ちを打ち消した。こんな変な場所の変な習慣に、惑わされてたまるものか。
暁は炬燵の天板に額を押し付けた。溜息しか出ない。聞きたかったことの半分くらいは聞けたけれど、自分の聞きたい言葉ではなかった。滋はさっき、この辺には三十人くらいの男が住んでいると言っていたのだ。滋はその男の夜の相手をしなくてはならない役割の人間で、実際武とも寝ていたというし孝とも寝ているのだろうし、元とも寝たことがあるのかもしれない。自分もいつかは滋と寝ないといけない日が来るらしい。
「ありえねえだろ…」
女がいないから男で代用するなんて、男子校じゃあるまいし、車を走らせれば市街地はあるのに、いったいなにを守って、なにを隠そうとしているのだろう。そして、単純に、気持ちが悪かった。優しくしてくれるし、これからご近所さんとして仲良くしていかないといけないし、高校も一緒なのに、どんな顔をして滋と会えばいいのか分からない。さっきまではなにも分からない怖さだったが、いまは知ってしまった怖さのほうが大きいことに暁は気づいた。
カラカラカラ、と引き戸が鳴る。玄関で靴を脱いで、静かに滋が入ってきた。暁は炬燵から顔を上げられない。テレビを背にしているので、顔を上げればすぐに、滋と目が合ってしまう。
「…元さんから、聞いたよね」
「…うん」
「気持ち悪い?」
「………」
「そうだよね。俺はまだ、高校に行ってるから、ちゃんと普通の人の生活が身近に見えているから、この辺でもその感覚は分かるほう…だと思ってたんだけど、やっぱりちょっと、くるものがあるね」
「あ、え、あごめんなさい」
「優しいね、俺のこと見ちゃった」
「あ、いや…その…」
思わず顔を上げてしまった。悲しそうな、こけしの笑顔だった。こけしは、夜見ると怖いけれど、日中見る分には、ちゃんと温かみのある人形なのだ。
「俺も、誰彼かまわず襲うって訳じゃない。孝さんだって、縁側でお茶して今日は帰ってきたよ。信じられないかもしれないけど…」
「襲うなんて言ってない、逆でしょ、身代わりをさせられてるんでしょ」
きょとん、と目を丸くした。
「彦奈は、させられるものじゃないんだ。自発的にするものともちょっと違うんだけど…ううん、選ばれるっていうのが一番適切かな。嫌々やっている人はきっといままでもいなかったんじゃないかな。俺も嫌じゃないし」
「嫌じゃないの?」
「うん。みんな優しいし、みんなのためになるし、そりゃ毎日身代わりやってたらお尻も腰も痛いけど、気持ち悪いわけじゃないしむしろ……あ、ごめん」
見ていられなくて、暁は俯く。
「…片付けようか」
頷いて、隅に置かれた段ボールの前に座る。炬燵から抜けるととても寒い。
「…もしよかったら、見る?」
「はあ?」
「見ないよね。ごめんごめん。ただいきなり俺と寝るってよりは、ハードルが低いかなって思ってさ」
「俺は滋さんとエッチしないよ」
「でも童貞でしょ」
「そ、うですけど」
「だったら、いつか必ず彦奈とは寝なきゃ。かなこを傷つける前に」
「ねえその、かなことかかなこさがしとかってなんなの?」
「ここにたった一人だけいる女の人の名前だよ。みんなかなこに自分の子供を産んでもらうことだけ考えて生きてる。そのための練習が俺なんだ。暁もいずれ俺と練習しなきゃいけない」
「…きもちわるい」
「暁は、たぶん一番期待されているんだと思う。暁とだったら、かなこも女の子を産んでくれるんじゃないかってみんなそう思ってるはずだよ」
「やめろよ気持ち悪い」
「…ごめん」
二人は、武が昼食を催促するまで口を開かなかった。
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