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第1話
『平穏な日常』というものは。
まるで砂の城のようなもので、ある日突然に崩れ落ちてしまうものだ。
小さなきっかけ一つで、何もかもが変わる。
それを思い知る事になるその日も、朝はいつも通りはじまった。
まるで、まだ昨日と変わらぬ、平和な毎日が続いているかのように。
「お父さん、行ってくるね」
「おう。行ってらっしゃいミカ」
真新しい制服に身を包み、娘のミカが軽やかな足取りで玄関から飛び出していく。
マンションの5階だというのに、エレベーターを待つのももどかしいのか。開けっ放しにされた扉から、階段を駆け下りる足音が飛び込んできた。
窓から見てみると、少し離れたバス停に一人の少年が立っている。
ミカと同じ高校の制服だ。
ミカが彼に駆け寄っていき、はにかんだ笑みを浮かべる。少年はそんなミカを優しい目で見つめていた。
「ったく。最近の高校生は」
ひとりごちて、恵一は咥えていた煙草を灰皿に押し付ける。
高校に上がったばかりの娘に、彼氏ができた。
妻が男を作って出て行ってから、男手一つで育ててきた大事な娘だ。
ショックではあったが、恋する気持ちは止められない。それに、どうやら年上らしい彼は、とても優しい男のようだ。
ああして、わざわざ遠回りして毎朝迎えに来て、帰りは送ってくれる。
だから、静観しようと決めていた。
ミカ達がバスに乗り込むのを見送り、恵一は窓から離れて仕事道具であるパソコンの前へと戻った。
恵一は、在宅でプログラマーの仕事をしている。
妻がいた時は体育教師をしていて、柔道部の顧問も務めていた。恵一自身も学生時代からずっと柔道をしていて、柔道が好きだった。だから、生徒たちに指導するのは楽しかったのだ。
だが、とてもではないが、子育てをしながらできる仕事ではない。
教師の仕事も、教え子達も大事だった。特に柔道部員達は、大事な大会を控えていたのに。
それでも辞めて、畑違いの仕事を選んだのは、少しでもミカの側にいてやる為だった。
はじめの頃は生活するのがやっとだったが、最近は余裕も出てきた。
ミカを連れて、旅行にでも行ってもいいかもしれない。
そんなことを考えながら、仕事に精を出す。
娘のことが、恵一の全てのモチベーションの糧となっていた。
小一時間ほど集中して作業し、コーヒーでも淹れるかと立ち上がりかけた時。デスクの上に置いていた、恵一のスマホが鳴りはじめた。
クライアントからの電話かと思って手に取ると、ミカからの着信だった。
こんな時間に珍しい。少し、胸がざわついた。
「どうした?ミカ」
電話に出て、声をかける。
しかし、電話の向こうは無言だ。だが、かすかな息遣いで、スマホの向こういるのはミカだとわかった。
「ミカ?」
もう一度呼びかけると、ミカはふうっと息を吐いた。そして、震えた声で話しはじめる。
『お、お父さん。私……私、どうしよう』
「何か、あったのか……?」
『その、わ、私、今彼氏がいて』
「ああ、知ってる」
『でも、その。うちの学校、男女交際禁止で』
「ええ!?」
それは初耳だった。
今時そんな校則があるのかとも思いつつ、彼氏が毎日迎えに来た理由も分かった。学校では一緒に居られないから、少しでも二人の時間をふやしたくてそうしていたのだろう。
「で……先生に見つかったのか?」
『うっ、ふぐっ』
「泣いてても、わからないだろ?お父さんは怒らないから言ってみなさい」
『……た……退学だってぇ……うわああん!』
思わずスマホを取り落としそうになる。
いきなり退学だって?
そんなのは、あり得ない。いくらなんでも、厳しすぎる。たかが男女交際で。せいぜい、別れさせて停学くらいなら理解できるが。犯罪を犯したわけでもないのに、いきなり退学とは。
驚愕と、それ以上の怒りが湧いてきた。
「ミカ、今からお父さん学校行くから」
『うん、うんっ、ぐすっ、先生も、親呼べっ、てっ、うう』
「ああ。すぐに行くからな、ミカ」
通話を切ると、急いでスーツに着替える。在宅仕事ではあるが、打ち合わせなどでクライアントに会う事もある。スーツは良いものをしつらえていた。
今でもジムに通って鍛えている体で、かっちりしたスーツを着ると、我ながら中々威圧感があった。
絶対に退学だけは撤回させてやる。モンスターペアレントだと言われようが、学校側に理不尽があるのだ。徹底抗戦してやる。そう意気込んで、恵一は家を出た。
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