1 / 4

第1話

『平穏な日常』というものは。 まるで砂の城のようなもので、ある日突然に崩れ落ちてしまうものだ。 小さなきっかけ一つで、何もかもが変わる。 それを思い知る事になるその日も、朝はいつも通りはじまった。 まるで、まだ昨日と変わらぬ、平和な毎日が続いているかのように。 「お父さん、行ってくるね」 「おう。行ってらっしゃいミカ」 真新しい制服に身を包み、娘のミカが軽やかな足取りで玄関から飛び出していく。 マンションの5階だというのに、エレベーターを待つのももどかしいのか。開けっ放しにされた扉から、階段を駆け下りる足音が飛び込んできた。 窓から見てみると、少し離れたバス停に一人の少年が立っている。 ミカと同じ高校の制服だ。 ミカが彼に駆け寄っていき、はにかんだ笑みを浮かべる。少年はそんなミカを優しい目で見つめていた。 「ったく。最近の高校生は」 ひとりごちて、恵一は咥えていた煙草を灰皿に押し付ける。 高校に上がったばかりの娘に、彼氏ができた。 妻が男を作って出て行ってから、男手一つで育ててきた大事な娘だ。 ショックではあったが、恋する気持ちは止められない。それに、どうやら年上らしい彼は、とても優しい男のようだ。 ああして、わざわざ遠回りして毎朝迎えに来て、帰りは送ってくれる。 だから、静観しようと決めていた。 ミカ達がバスに乗り込むのを見送り、恵一は窓から離れて仕事道具であるパソコンの前へと戻った。 恵一は、在宅でプログラマーの仕事をしている。 妻がいた時は体育教師をしていて、柔道部の顧問も務めていた。恵一自身も学生時代からずっと柔道をしていて、柔道が好きだった。だから、生徒たちに指導するのは楽しかったのだ。 だが、とてもではないが、子育てをしながらできる仕事ではない。 教師の仕事も、教え子達も大事だった。特に柔道部員達は、大事な大会を控えていたのに。 それでも辞めて、畑違いの仕事を選んだのは、少しでもミカの側にいてやる為だった。 はじめの頃は生活するのがやっとだったが、最近は余裕も出てきた。 ミカを連れて、旅行にでも行ってもいいかもしれない。 そんなことを考えながら、仕事に精を出す。 娘のことが、恵一の全てのモチベーションの糧となっていた。 小一時間ほど集中して作業し、コーヒーでも淹れるかと立ち上がりかけた時。デスクの上に置いていた、恵一のスマホが鳴りはじめた。 クライアントからの電話かと思って手に取ると、ミカからの着信だった。 こんな時間に珍しい。少し、胸がざわついた。 「どうした?ミカ」 電話に出て、声をかける。 しかし、電話の向こうは無言だ。だが、かすかな息遣いで、スマホの向こういるのはミカだとわかった。 「ミカ?」 もう一度呼びかけると、ミカはふうっと息を吐いた。そして、震えた声で話しはじめる。 『お、お父さん。私……私、どうしよう』 「何か、あったのか……?」 『その、わ、私、今彼氏がいて』 「ああ、知ってる」 『でも、その。うちの学校、男女交際禁止で』 「ええ!?」 それは初耳だった。 今時そんな校則があるのかとも思いつつ、彼氏が毎日迎えに来た理由も分かった。学校では一緒に居られないから、少しでも二人の時間をふやしたくてそうしていたのだろう。 「で……先生に見つかったのか?」 『うっ、ふぐっ』 「泣いてても、わからないだろ?お父さんは怒らないから言ってみなさい」 『……た……退学だってぇ……うわああん!』 思わずスマホを取り落としそうになる。 いきなり退学だって? そんなのは、あり得ない。いくらなんでも、厳しすぎる。たかが男女交際で。せいぜい、別れさせて停学くらいなら理解できるが。犯罪を犯したわけでもないのに、いきなり退学とは。 驚愕と、それ以上の怒りが湧いてきた。 「ミカ、今からお父さん学校行くから」 『うん、うんっ、ぐすっ、先生も、親呼べっ、てっ、うう』 「ああ。すぐに行くからな、ミカ」 通話を切ると、急いでスーツに着替える。在宅仕事ではあるが、打ち合わせなどでクライアントに会う事もある。スーツは良いものをしつらえていた。 今でもジムに通って鍛えている体で、かっちりしたスーツを着ると、我ながら中々威圧感があった。 絶対に退学だけは撤回させてやる。モンスターペアレントだと言われようが、学校側に理不尽があるのだ。徹底抗戦してやる。そう意気込んで、恵一は家を出た。

ともだちにシェアしよう!