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第2話

 ひりひりと痛む頬を抑えながら、俺はとぼとぼと私室に戻る。俺と拓海の家は徒歩1分の距離だ。私室も隣り合っているため窓を開ければ会話もできるが、当然今は締め切ったままである。  溜息を吐きながら、鞄の中から資料を取り出す。 『男性妊娠のススメ』  我ながら酷いタイトルだと思うが、どうやらこれを作った時は頭が麻痺していたらしい。全部で十枚にわたるこの資料は、全て拓海に俺の子供を産んでもらいたいが為に作ったものだ。しかし、今となってはただの紙切れである。  目の前がぼやけ、慌てて目を擦ると腕に水が付いた。ようやく自分が泣いていることに気付いた。 「ああ、そうか……。俺、フラれたのか……」  ずっと隠していた。誰と付き合っても、拓海のことが忘れられなかった。あきらめきれなかった。友人としてならずっと隣にいられると思っていた。  それなのに、もう壊れてしまった。自分で壊してしまったのだ。  俺は両手で紙切れを持ち、一気に破ろうとする。しかしその瞬間――バンッ、と窓の外から音がした。振り返ると、隣の家の窓を拓海が叩いていた。 「は!? え、拓海?」  拓海が、なぜか酷く怒った顔でこちらを睨んでいた。慌てて窓を開けると、同じく窓を開けた拓海に怒鳴られる。 「おいふざけんなよお前!」 「え……。あ、ごめん。さっきは変なこと言って」 「違う! 謝るな!」    拓海はそう言うと、窓枠に足をかける。そして、止める間もなく俺の部屋の窓に飛び移った。 「えぇええ!?」  思わず変な声が出てしまう。家と家の間は一メートル程度のため高校生くらいまではこうやって行き来することもあったが、まさか二十代後半になってまたその光景が見れるとは思わなかった。  ここは二階だ。無駄にガタイの良い俺には恐怖心でできないことを、身軽な拓海はいつも簡単にやってのけていた。当時のことを思い出して少しだけ懐かしくなるが、今はそんな状況じゃない。  俺は慌てて散らばっていた紙屑を拾おうとするが、先に拓海に拾われてしまった。 『自然妊娠するには』 『妊娠中の注意事項』    そんな目次が目に入りかなり居た堪れない。それなのに、なぜか拓海は「他も読ませろ」と全て目を通そうとする。 「いや、もう必要ないし……」  控えめにそう告げると、拓海に思い切り睨まれる。そして、紙束で頭をぺしんと叩かれてしまった。 「あのさ、夜中にこそこそプレゼンの練習してたの聞こえてたから」 「は!?」 「めちゃくちゃ気になって、お前のせいで寝不足なの」 「えええええ!?」  なんということだ。壁が薄いことは分かっていたが、そんなに大きい声で話していた覚えはない。まさか窓が開けっ放しだったのか。 「お前の声よく通るんだよね。言うと気にするだろうからずっと秘密にしてたけど」 「そういうことは早く言えよ!」  他にも何か変な独り言を言ってなかっただろうかとパニックに陥る。恋人をこの部屋に連れ込んだことはないが、オナニーはちょくちょくしていたためもしかしてそれも聞こえていたのかと気が気ではない。  けれど拓海は人の気も知らず、不遜な笑みを浮かべているだけだった。 「そんなことより、お前、俺がどうして怒ってんのか分かってないだろ」  そう言われ、胸に痛みが走る。もしかして拓海は傷口に塩を塗りにきたのだろうか。 「ごめん。やっぱり産みたくなんてないよな……、身体にも負担かかるし」  俯きながらまた謝ると、拓海に「アホか」とまた頭を叩かれた。予想外のことに、思わずぽかんとしてしまう。 「そういうことじゃねぇよ。他に何か言うことないの?」 「他に?」  はて何のことだろう、と首を傾げた。すると拓海はあからさまに溜息を吐いた。 「あのさぁ、物事には順番という物があるだろ。つーか俺、男と付き合ったことないし。自然妊娠のこととか書いてあるけど、要するにお前とセックスするってことだろ?」 「う…、うん」  今更ながらに冷や汗が流れる。そして、重大なことに思い至って頭が真っ白になった。  俺はまだ、拓海の気持ちを何も聞いていない。一方的に俺の想いを押し付けているだけなのだ。  どうして今になるまでそのことに気付かなかったのか、自分の馬鹿さ加減にあきれてしまう。   「おいヘタレ。こんな資料用意する前に、もっと大事なことをさっさと言えって言ってんの」  拓海のセリフにハッと目が覚める。そして、一呼吸置いてから口を開いた。 「俺、拓海が好きだ」 「うん」  拓海が頷くのを見て、心臓がどくんと跳ねる。怖れていたような否定の言葉は出ずに、まるで「他には?」とでも言いたそうな表情だ。だから俺は、言葉を続けた。 「拓海と結婚したい」 「うん」 「セックスもしたい!」 「うん」 「拓海と俺の子供が欲しい!」 「うん」  拓海は俺の言葉に静かに頷いてくれる。  言いたいことを全て言い終え、流石にもうないだろうというところでようやく拓海は満足したようだった。 「それで全部?」  その言葉に俺が頷くと、拓海はにこりと笑う。そして近付いてくると、また頭をぽんと叩いた。先ほどよりも優しい手つきで、髪をわしゃわしゃと撫でてくれる。俺のほうが身長は高いが、昔からよく拓海に頭を撫でてもらっていた。俺はそれがすごく好きだった。  久しぶりの手のひらの感触に、胸が温かくなる。 「つーか、お前が俺のこと好きだなんてずっと前から知ってたけどな」 「え、嘘っ」 「はは、俺が彼女作るとお前、対抗するみたいに彼氏作ってたし。しかもみんなよく似たタイプでさあ。俺に紹介した時の相手の顔ちゃんと見てた? 無意識にしてもちょっと可哀そうだったよ」 「マジか……」  当時の恋人は一応自分なりに愛していたつもりだった。しかし思い返してみれば、確かに拓海によく似ていた。 「まあ、俺も人のこと言えないんだけどさ」 「どういう意味?」  そう尋ねると、拓海はにこりと微笑む。 「ようやく言ってくれたヘタレ君に、俺も教えてあげるよ」  拓海は俺の頭を引き寄せ、耳元で囁いた。 「俺もお前のこと、好きだよ」  その瞬間、ぶわりと体温が上がったような気がした。顔が火照り、自分が真っ赤になっていることが分かる。 「え、ほ、本当に……?」 「もちろん。だから、しょうがないからお前の子供産んでやるよ」  拓海が不敵な笑みを浮かべる。  あまりの嬉しさに、俺は拓海の身体を抱きしめた。拓海も「苦しい」と言いながらも拒絶することはなく、そのことでさらに嬉しさが膨らんでいく。 「好きだ。好き、拓海」  何度も何度も好きと伝える。今までずっと隠していた思いが、堰を切ったように溢れ出した。  家族になりたいし、恋人にもなりたい。手を繋ぎたいし、キスもしたい。  次から次へとやりたいことが思い浮かび、それを伝えると拓海は照れながらも頷いてくれた。  これから二人でゆっくりと進んでいこう。まだまだ人生は長いのだから。

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