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 翌朝、妙に肌寒いと感じながら目を覚ますと、冷房をつけっぱなしにしていたことに気が付いた。鹿島がいる間はと思ってつけていたのだが、隣で浅原の体をくるむように抱いていたその姿が見当たらない。道理で寒いわけだと納得した。  丸テーブルに目を向けると、「先に行く。鍵はポストに入れておくよ」という置き手紙が置かれていた。走り書きなのだろうが、妙に癖のある字だ。  その手紙を捨てようと手を伸ばし、丸めてしまおうとしたところで、昨夜の出来事が頭を過る。鹿島の声は隣人のそれとは違って、決して浅原を煽るほどのものではない。だが、なんとなく振り払おうとしても振り払えないものがあり、この何の意味もないメモを捨てることができなかった。  クリアファイルに挟んで作業机の引き出しにしまうと、時計を見ながら出勤の準備を始める。普段から朝食はしっかり食べる方ではないが、なぜか今日は空腹を覚えたので冷蔵庫を覗く。買い置きしていた食パンとスライスチーズがあった。マーガリンはない。よって、チーズをのせて焼いて食べることにした。  するとちょうどいい時間になったので、鏡の前で服装をチェックして外に出る。  扉を開けた音が二重に聞こえた気がして、隣に目を向けると。 「あ」 「どうも」  噂の隣人とどうやら同じタイミングでドアを開けたらしかった。頭を下げると、隣人は何やらじろじろと不躾なまでに浅原を見て、にやにやしている。 「あの?」 「昨日聞こえてましたよ」 「え、昨日って……あ」  指摘されたことに気が付くと、かっと顔に血が上った。 「す、すみませ……」 「何やってるんだ」  浅原の謝ろうとした声に被せるようにして、隣人(舘宮)の後ろから別の声が聞こえてきた。低く甘やかな声色に、ドキリと胸が高鳴る。  床を踏みしめる足音が隣人の部屋から聞こえてきて、その姿がついに浅原の前に現れた。 「え……」 「あれ、浅原?」  短く刈りあげられた頭に、髭が似合うワイルドな風貌を見て、懐かしい記憶が痛みを伴って呼び覚まされる。あの頃は髭も生えていなくて、当然ながらもっと若かったのだが、見間違え ようがない。 「もしかして、禅宮時先輩ですか?」 「ああ。そうだ」  禅宮時もどう反応すべきか困惑しているようで、「久しぶり」という言葉は出て来ずに沈黙が横たわる。 「何?浅原さんと知り合い?でもって、ワケありな感じ?」  舘宮が興味深げに割って入ってくる。 「……まあ、知り合い、と言えばそうなのか」 「ええ、まあ」  浅原も禅宮時も等しく歯切れ悪く答える。 「ふうん。じゃあ、浅原さん。仕事から帰ってきたらうちに寄ってください。今日は俺、そんなに帰り遅くないんで。禅宮時も来るよね?」 「俺は……」 「あ、すみません。仕事に遅れそうなんで、行きますね」  わざとではない。仕事に遅れそうなのは事実だ。だが、返事も聞かずにそそくさと立ち去る浅原の姿は逃げているように見えただろう。  角を曲がったところで、いつの間にか息を詰めていたらしく、大きく吐き出した。暑さとは別の汗も噴き出していた。  禅宮時つかさと知り合ったのは、かれこれ十何年も前の学生時代に遡る。  大学2年の時、浅原は社会勉強のためにと親に言われて実家の近くのコンビニでバイトを始めたのだが、そこで先に働いていたのが禅宮時だった。  若い時は今とは違ってそれなりに流行を追いかけ、見た目も気を遣っていたため、友人もわりといた方だった。中身も今ほど内にこもっていなかったと記憶しているので、我ながら過去の自分は別人のようだ。  そして禅宮時のことは先輩と呼んで慕っていた。それはバイト先の先輩というだけでなく、同じ大学の先輩でもあると知ったからだ。  禅宮時は浅原にとって、見た目も中身も憧れそのものだった。今思えば、あれは思慕に近い感情だったのかもしれず、何よりも彼の声にはあの時から性的なものを感じていたように思う。  しかし、純粋に懐いていた浅原のことを禅宮時は疎ましく思っていたのかもしれない。そうでなければ、浅原の当時の恋人を横から掻っ攫ったりした理由に説明がつかない。  そして、その恋人だった相手と共謀し、浅原の恥ずかしい写真や動画を携帯に収めていたのは、何故なのか。考えるまでもないだろうと自嘲を漏らす。  あの後、大学内でそれらが出回って笑いものにされたのだ。あれは禅宮時による嫌がらせ以外の何ものでもなかったのだと知ると、浅原の中で何かが音を立てて崩れ落ちた。  それから、禅宮時が浅原に何度も何かを言おうとしてきたが、徹底的に避け、大学は単位をぎりぎり取得しただけでほとんど休んだ。  以来、浅原は内に籠るようになって、見た目にも気を遣わなくなった。そんなことを、何故今までろくに思い出さずにいられたのか。必死で封印してきたからだ。  それなのに、どうしてよりによって今さら。どうしてあの男の声に変わらず縛られないといけないのか。 「浅原さん、浅原さん」  耳元で呼びかける声が強引に意識を現実に引き戻した。  我に返ると、浅原は会議室の隅の方に腰掛けており、周囲から視線を集めていた。隣から鹿島が耳打ちしてくる。 「浅原さんが用意した会議の資料、間違えてる。これ昨年度のやつ」 「えっ」  慌てて確認すると、確かに日付こそ間違えてはいないのだが、どう見ても年度を間違えていた。 「すみません。すぐに取り換えて……」 「浅原君、君ってやつは!」  上司が怒り心頭に叱責しようとした時、それを制するように鹿島が声を上げた。 「お待ちください。会議のデータはこのUSBに入っているので、直ちにスクリーンに出します。浅原さん、手伝って」 「う、うん」  いつの間にそんなものを用意していたか分からないが、鹿島が浅原に指示を出してくれたおかげで、てきぱきとプレゼンの準備を整えられた。 「ありがとう」  こっそり礼を言うと、鹿島はぽんと肩を叩いてきた。 「浅原君、鹿島君の機転を見習ったらどうだね」 「はい、精進します」 「会議が終わったらちょっと話があるから」 「はい」 恐らくお叱りを受けることは間違いないが、上司は鹿島のおかげで幾分態度を軟化させていた。 不幸中の幸いか、それ以上に大きな失敗をすることなく会議を終えることができたが、残業を言い渡された。帰宅したら禅宮時と話す羽目になると思えば、むしろこれで良かったように思う。いっそ会社に泊まり込んでまで帰りたくないくらいだった。 「浅原さん、大丈夫だった?」 自分のデスクに戻ると、鹿島が気遣わしげに聞いてきた。 「くびは飛んでないから平気」 「浅原さんが辞めたら、俺追いかけていくよ」 冗談とも本気とも取れない顔つきと声でそんなことを言われ、曖昧に笑って流した。 「浅原さん、仕事終わったらまた行っていい?」  そう言われて、禅宮時のことがあって忘れかけていた記憶が蘇る。それは単に家に来る以上の意味合いを含んでいるのだろうか。  その思考が顔に出ていたのか、鹿島は急いで否定した。 「あ、もちろん今日は何もしないから」 「ごめん。今日はたぶん残業なんだ」 「残業?あ、もしかしてさっきので、また何か雑用でも押し付けられたとか」 「まあ、そんなとこかな」  苦笑いを浮かべると、鹿島は考え込む素振りをした後。 「それ、俺も手伝おうか」 「いや、それは駄目だろう」 「だって、仕事のペースは人それぞれなのに、正直いつも浅原さんがこなせる仕事以上のことをやらされてるよね。ちょっと日下課長の裁量を疑うというか」 「しぃっ。そんなこと言ったら、今度は鹿島君の立場が危なくなるよ」 「浅原さん。上司に苦言を言っただけで飛ばされるくらいなら、そんな会社は俺の方から辞める。それに、当然のことを言うんだから。ちょっと言ってくるよ」 「えっ、ちょっと待って。それは駄目だって。私が自分で……」  引き留めようと鹿島の腕を掴んだ瞬間だった。まるで電流でも走ったように、鹿島は体をびくつかせ、瞬時に浅原の手は振り払われる。  驚いて目を見開くと、鹿島はすぐに謝ってきた。 「あ、ごめん」 「いや……こっちこそいきなり掴んでごめん」  微妙な間ができた後、鹿島は声を裏返らせながら捲(まく)し立てた。 「ていうか、浅原さんの言う通りだね。俺、ちょっと出しゃばってた。こういうのは自分で言わないと意味ないんだ。ごめん。俺、今日のところは先に帰るよ。でもまた行ってもいいよね?」 「うん。それは構わないけど」 「良かった。じゃあ」  そして一方的に話を終わらせると、急ぎ足でいなくなった。残された浅原は、数秒間ぽかんと見送っていた。 浅原がああいう態度になることはしばしばあるような気がするが、鹿島がそうなるのは珍しい。はっきり言って変だ。そんなに触れられたくなかったのだろうか。 自分の手のひらを見下ろして、握り込む。心なしか隙間風のようなものを感じた。

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