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第80話

 約一年前のあの日。  ストーカーに家を特定され、駅でストーカーから受けた気味が悪い贈り物、そして但馬先輩からの告白、暴力、強姦と今までに経験したことのない衝撃が俺を襲った。  但馬先輩が「じゃあな」と言って出て行った後、七瀬さんとお互いに気持ちを確認して、安心して一緒に朝まで眠ったーーはずだったのに。 「うわぁああ!」  朝目で覚めて七瀬さんに抱き締められていた俺は、目の前の人が七瀬さんとは認知できず叫んで突き飛ばしてしまったのだ。  俺の叫び声と突き飛ばされたことによって目が覚めた七瀬さんは、唖然と俺を見ていた。俺は七瀬さんを見ながらカチカチと歯を音を鳴らし、身体を震わす。  ストーカーからの執拗な接し方、但馬先輩からの暴力的な好意。  俺は七瀬さんと認識する前に、七瀬さんの胸板の硬さ、筋肉質な腕、角ばった男性の身体に、ストーカーと但馬先輩を重ね、頭の中がパニックになり、身体が言うことをきかなくなっていた。  ベッドから落ちようが気にせず後ろ向きに動いて七瀬さんから距離を取り、背中に壁が当たるまで下がり、それ以上距離が取れないことに恐怖し、ブルブルと震える。  そんな様子をずっと見ていた七瀬さんは何も言葉を発さず、身体も動かさずに表情だけを変えた。目尻を下げ、口角を少し上げて、俺が怖がらないように優しく微笑んでくれる。 「七瀬だよ。……大丈夫、何もしないから」  七瀬さんが動かずに柔らかい表情を作ってくれたことで、時間をかけて気持ちが落ち着き、震えが止まっていく。震えが止まると今度は七瀬さんにすごく悪いことをしたと後悔の波が押し寄せて泣きながら沢山謝った。 「ごめんなさい、ごめんなさい……っ」  謝っても、俺の身体は七瀬さんの元へは行こうとせず、距離をとったまま動くことができなかった。 「風間君、俺に悪いとかは気にしないで。まず傷の手当てをしてあげたいんだけど……俺が近づいても大丈夫?それとも風間君が俺のところに来れるかな?」  七瀬さんは俺のペースで距離を縮めれるように提案してくれた。自分から距離を取ったので、俺から行かないのは悪いと思い、時間をかけて七瀬さんの元へ行く。  すると七瀬さんのいるベッドの近くに、シーツが剥がされてベ丸めて置いてあった。そのシーツに点々と血が付いているのが見えて目が離せず、さらに足が動かなくなる。その後は動けなくなった俺に気付いてくれた七瀬さんが確認をとりながら俺に近づき、なるべく俺に触らないように傷の手当てをしてくれた。  大好きな、大切な七瀬さんに触れられるのも、身体をかまえていても震えてしまい、怖くなっていることに、俺は自分の身体なのに訳がわからなくて、悲しくて、どうしようもできなかった。  それから俺の生活は一変する。  まず自分の部屋で過ごすのが怖くなった。家にいるとチャイムが鳴ってストーカーが来るかもしれない、但馬先輩が来るかもしれないという不安が常に襲ってきて家が安心できる場所ではなくなってしまった。  部屋を意識しないようにベッドで寝ても、ベッドは襲われた場所。  ベッドを捨てて新しいベッドに変えても思い出したくない行為が走馬灯のように頭に蘇ってしまい不眠が続く日々。  七瀬さんを怖がったことと、さらに秋鷹に会ったときでさえも構えてしまったことで、俺は男の人が近くにいるのは精神的によくないだろうと七瀬さんと秋鷹が提案した。  一番安全な実家に帰ったがいいと二人から言われるが、実家にも男の人である父さんがいる。万が一父さんを怖がった時、どう言い訳をしたらよいかわからないし、万が一家族にこのことを知られたら俺はその方が耐えれなかった。  なので七瀬さんと秋鷹は、俺を一人にするよりはいいだろうと苦渋の結論を出して、七瀬さんの部屋に同居するということになる。  でもこの同居は幸せには程遠かった。  あの事件の後から見るようになった悪夢。  悪夢を見た時は、絞るような悲鳴を上げながら目覚めて、隣に寝ている七瀬さんを起こしてしまう。  目が覚めた後も身体が震えて、首を絞められる感触や身体を触られる感覚が甦り、消えずに気持ち悪くなって、お風呂場にいって感覚が消えるまでタオルで赤くなる程擦った。  そんな奇異な行動をしている俺を七瀬さんは気持ち悪がったりせずに、側で支えてくれて。  悪夢で叫んだ時は俺が怖がらないようにゆっくりと距離をつめて抱きしめ、タオルで擦りすぎて血が出た時は痛かったねって軟膏を塗ってくれる優しさを見せてくれた。  俺の身体の変化はそれだけじゃない。  再び味覚障害で味がわからなくなったし、男の人だけではなく何故か女の人も怖くなり、対人恐怖症で外出もできなくなった。  そのため仕事もできなくなって、コンビニバイトも電話で辞めるという不誠実をしてしまう状態。  何もかもができなくなり、好きな人すらも怖がる。  重荷にしかならない自分への不甲斐なさで何度も自分を責めた。  追い詰められすぎて、無理になって、七瀬さんが不憫で、自分がいらない存在だと思えて、命を投げ出そうともした。  でも……そんな俺を支えてくれたのは他でもない七瀬さんだった。  七瀬さんは自分のお店も大変なのに、必ず家に帰ってきて、俺とご飯を食べて、そして離れた布団で眠って、夜飛び起きたら俺が怖がらない範囲で支えてくれる。  命を絶とうとした日も、何か異変を感じたんだろう。 急遽店を休みにすると言って、ずっと俺と一緒に部屋にいれくれた。  七瀬さんに頼りっぱなしで数ヶ月が経つと、少しずつ悪夢が減ってきて、味覚異常もなくなった。  精神的にも安定してきたと感じて、俺は今の状況を打破しようとラーメン屋さんの皿洗いの仕事を一日単発でやってみることにした。  早く元の自分に戻りた、七瀬さんに頼りきりの自分を変えたかったのだが、無残な結果となってしまう。  ラーメン屋さんという場所は男の人が多かった。  皿洗いなら表に出ないし、人が近づくことはほぼないと思っていたが、スタッフは近く、「いらっしゃいませ〜!」という男の人の大声が絶え間なく聞こえている状態。  ただの挨拶だとわかっているのに、大声が聞こえる度に手が震えた。  触れられてもいないのに徐々に手の震えから動悸が始まり、うまく呼吸が吸えなくなると立ち続けることが困難になり座り込むことも何度もしてしまう。  どんぶりを五個割った時には、バイト時間が終わっていないにも関わらず、もう帰っていいよと冷たくお店の人に言われる始末となった。  それから数週間は立ち直れなくて、また七瀬さんに迷惑をかけて。  そんな俺を見兼ねてか、七瀬さんが皿洗いなら俺の店でしてよ、客が増えて大変なんだって軽い調子で言ってくれた。  七瀬さんは俺の考えを尊重してくれていて、俺がすでに七瀬さんを頼りすぎていることに負い目があることを理解していた。  だから俺が皿洗いの単発バイトをしたいって言ったときも不安げな顔をして応援してるって背中を押してくれていたのだ。  自分でやるって言って、結果失敗して、八方塞がりになった不甲斐ない俺にも優しく手を差し伸べてくれるのは七瀬さん。  七瀬さんに対しては尊敬や敬愛や愛情、罪悪感、焦燥感、劣等感、自己嫌悪……もう色んな感情が渦巻いていた。 「もうこんな自分が嫌だ!」   何もうまくいかなくて、俺は初めて八つ当たりというものを七瀬さんにした。  七瀬さんは怒ったりも不機嫌になったりもせずに困った表情で俺の負の感情をそのまま受けてくれる。  この時七瀬さんは俺のことを保護者のような立場で見ていたと思う。情欲をわかすことも出来ず、混乱する俺の相手をして。  怒ったり、泣いたりする俺をただ受け入れてくれて。  こんな俺に呆れて七瀬さんが離れていくかと思いすらも見越してか、七瀬さんは俺に「いつでも側にいるから安心していいよ」と言ってくれて。  七瀬さんは、もう人として出来すぎていた。それが救いでもあり、自分との格の差を目の当たりなって落ち込んでしまう原因にもなって。今思い出すだけでもこの時は毛糸がぐちゃぐちゃに絡まったように七瀬さんに対する感情も愛だけではなく、ぐちゃぐちゃだった。  そして。俺は結局七瀬さんに甘えて、七瀬さんの店で働くことに決めた。  まずは一時間厨房の端で皿洗い。  耐えれたら二時間に延長。日によって八時間できるときと二時間しかできないときとムラがあった。できない日は男のお客さんで大声を出して笑う人や但馬先輩に似た背格好の人を見かけることが原因のことが殆どだった。  そして八時間しっかり働けるようになったのは皿洗いを初めて二ヶ月程経ってから。  皿洗いの次は厨房から出て片付けをすることにした。  店に出ることでお客さんとの距離がグッと近くなり、不意に席を立つ人にも驚きと怖さで腰を何度も抜かす。腰を抜かしたら七瀬さんがフォローしてくれた。  体調によって出来る日と出来ない日が変化するため、皿洗いと併用しながら少しずつフロアに出る時間を増やしていく。  次に片付けができるようになったら女の人の会計、注文を行った。  たかが注文。けれど最初の頃は声がうまく出せなかった。顔から汗をかき、震える手で伝票を書き、おぼつかない足で対応していた。  そしてどもりながらもな何とかできるようになると今度は男の人の会計。  男の人の会計が何とか出来るようになったのは、働いて半年後だった。  会計の時に直接手が触れるのは震えてしまうので、必ずトレイに入れて受け取ってもらうようにして、俺はなな食堂で働くことができるようになったのである。   「よ、来たぜ」 「秋鷹!いらっしゃい。何食べる?」  秋鷹はなな食堂によく来るようになった。  いつも愛妻弁当を作ってもらっているけれど、一週間に一回は「家事休憩日」を設けたらしく、弁当を作ってもらわない日に来ている。 家事休憩日は育児も頑張っていて、いいお父さんをやっているみたいだ。  親友の秋鷹は俺が暴行される日の朝、俺からの電話に出れなかったことをずっと悔いていた。  秋鷹からハヤナコーポレーションで働いている人の因縁も考えていたのに、結局何もできずに俺を傷つける結果になってしまったことを謝ってもらったときも俺はそれどころじゃなくて、秋鷹のことは気にかけることができなかった。  俺が追い詰められていたとき、秋鷹も追い詰められてた顔をしていたって笑い話のように秋鷹の奥さん言われて申し訳なくなった。  俺が少しずつ元気になって、秋鷹にもやっと気にしないでって笑顔で言えるようになって、ぎこちないながらも軽口を言えるようになってきている。  ここまで約一年。  長い時間をかけた。  まだなな食堂以外では但馬先輩やストーカーとすれ違う可能性を考えると未だに足はすくむし、スーパーに行くのがやっと。  元の生活には程遠い。  でも七瀬さんに守られた空間で、自分の出来ることがあるのは少しだけでも自分を取り戻せた気がした。

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