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雨-1
※注意書き※
一人の少年の一生を描いたお話となっております。
年齢が上がっていきますが、それでもボーイズがラブしてたりメンズがラブしてたりします。
ぶっちゃけ、おじ様とかおじい様とかが出てきます。
大丈夫な方だけご覧下さい。
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雨が降りだしたのは、帰りの会が始まってすぐだった。
さっきまでは晴れていたのに、急に空が暗くなったと思ったら、ざっと大粒の雨が降り出した。担任の先生が窓の外を見て、困ったように教室内を見回した。
「みんな傘持ってきてる?持ってない子はお母さんが迎えに来てくれるかもしれないから、放課後少し教室で待ってても良いですよ」
その言葉を聞くなり、教室はざわざわと騒がしくなった。わざわざ立ち上がり、窓辺まで雨を見に行く生徒までいる。
「俺は傘持ってるよ!」
「うちはきっとママが来てくれると思う!」
「うち学校のそばだから、傘貸してあげるよ!」
そのお喋りを聞きながら、橘 湊斗 は子供らしくない溜息をついた。
「はい、静かにして!それじゃあ日直!帰りの挨拶をしましょう!」
日直の号令で挨拶をして、そのまま湊斗は席を立った。
「湊斗、お母さん待たないのか?」
「うん、どうせ待ってても来ないし」
湊斗の両親は共働きだ。
だが、仮にどちらかが家にいたとしても、こんな時に傘を持って迎えに来るような親ではないことを、湊斗はよく知っている。十一年も生きていれば、自分の両親が子供に興味がないことなど、さすがに理解できるだろう。
学校から家までは歩いて十五分。ちょっと坂はあるけど、走れば十分で着くはずだ。
それに、もしかしたら……。
「橘君、帰るの?」
先生が少しだけ心配そうに、湊斗と空に視線を巡らせた。ゲリラ豪雨というほどの雨量ではないが、梅雨時の雨というには雨脚が強い。
「橘君!待って!」
みんなから離れて一人下校しようとする湊斗を、先生は下駄箱まで追いかけてきた。それから、辺りに他の生徒がいないかを確認する。
「忘れ物の傘、持ってく?」
みんなには内緒だよ、と先生は小さく首を傾げた。彼女は両親共に一度も保護者会に来たことのない湊斗のことを、前から気に掛けていたのだ。
「大丈夫。走ればすぐだから」
そう言って、湊斗はぺこりと頭を下げ、下履きに履き替えた。
昇降口から外に出るときは、一瞬だけ躊躇 した。ランドセルの中の教科書やプリントが濡れないかと心配したが、躊躇 ったのは一瞬だけだった。
ぱしゃぱしゃと三歩も歩けば靴の中に水が入ってきて、なんだか気持ち悪い。まぁ、どうせすぐ馴れて、気にならなくなるだろう。
だが、その予想はすぐに別の意味で当たることとなる。校門から一歩足を踏み出すと、すっと頭上に傘が差し伸べられたのだ。
「お帰り、湊斗。傘、持ってないだろうと思って迎えに来たよ」
「アディ……」
目の前に立っているのは、もちろん湊斗の父親でも母親でもない。隣の家に住んでいる、背の高いお兄さんだ。
白い肌。漆黒の髪。きちんとスーツを着て、今は地味な紺色の傘を差している。はっとするほど美しい顔は日本人の物ではないが、ではどこの国の人間かと言われると、それがよく分からない。湊斗の目から見るとあまりにも美しくていつも見とれてしまうのだが、他人の目には印象が茫洋とするらしく、不思議と人の注目を集めたことはなかった。
この捉えどころのない男は『アディ』。本名はもっと長いが、赤ん坊の頃からの付き合いなので、湊斗は彼を『アディ』と呼んでいる。
「迎えに来てくれたの?」
「湊斗が風邪を引くと困るからね」
そう言って、アディはにっこりと笑った。美しい笑顔。こんな時間にこんな所にいて、仕事は大丈夫なのか、などということを、湊斗は考えない。
アディから手渡された傘を差し、二人で並んで歩く。アディがすっと湊斗の背中を撫でると、湊斗の服も靴も、一瞬で乾いてしまった。
「アディ」
咎めるように男を見上げると、アディはもう一度、優雅に笑った。
「湊斗が風邪を引くと困るからね」
そう言われてしまえば、それ以上湊斗は何も言えなかった。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
それから二人はそのまま並んで家に帰った。
湊斗の家は新興住宅地の中にある。見渡す限り、同じ時期に同じ建設会社に建てられた同じような建売住宅が並んでいる。どの家も、見た目もそっくりなら、間取りもそっくり。アディの家は湊斗の家の隣で、扉の色が少し違うが、ほぼ同じ家だ。
「湊斗、うちに寄ってくだろう?」
アディが笑顔で訊いてくる。毎日毎日、湊斗がアディの家に寄らなかったことなど無いのに、律儀にそう尋ねるのだ。
「うん、行くよ。良い?」
「もちろん。私が招待したのだからね」
そう言って、アディは玄関のドアを開けた。
「……わぁ」
何度見ても、それは不思議な光景だ。
自分の家と同じような見た目の家だけれど、家の中は全く違う。
玄関のドアを開けると、まず飛び込んでくるのはキラキラと輝く光の乱反射だ。美しい音楽が耳に流れ込み、目の前にはテレビでしか見たことがない、ベルサイユ宮殿のなんとかいう広間のような空間が広がっている。なんという名前だったか。そう、鏡の間。
誰が思いつくだろう。二十五坪の建て売り住宅の玄関の向こうに、百メートル位ありそうな長い廊下が続いているなんて。
玄関を入って、左側はガラス張りのサンルーフで、右側は鏡張りの壁だ。その鏡張りの壁の中に、隠れるようにいくつものドアが取り付けられている。
湊斗は、その全てのドアを開けたことはない。別に禁じられている訳では無いけど、開けても開けてもきりがないくらいたくさんのドアが続いているのだから、開けようという気にもならないのだ。
横を見れば、アディの姿も変わっている。さっきまではスーツを着て、一度も染めたことのないような真っ黒い髪がきちんと短く整えられていたのに、今は銀色に藍の混じった髪を首元で縛り、その髪は腰の辺りまで伸びている。瞳の色は宇宙のような藍色だ。ゲームに出てくる魔法使いのような、黒くて長いローブを床に引きずり、そしてなんと言っても特筆すべきは額の上に生えた一本の長い角だろう。アディの額の上には、透明で、オパールのように様々な色が移ろって輝く、綺麗な角が生えていた。
顔だって、さっきと同じでやっぱりすごく綺麗だけれど、でもなんだかキラキラしている。今のアディが表に出れば、角なんか生えていなくたって、きっとみんなが驚いて振り返るだろう。
「湊斗、今日は少し早いから、リビングでお茶にしながら宿題を済ませてしまおうか」
「うん」
いくつあるのか分からないドアの中から、アディが一つのドアに手をかけた。玄関から五つめのドア。これは分かる。ここは、リビングだ。
リビングの壁は紺色に金泥で彩色されていて、レリーフを施された漆喰 の柱がアクセントになっている。床には綺麗に組み合わせられた木製の床材が、幾何学模様を描いている。部屋の広さは五十畳ほどだろうか。
この部屋が、アディの家の『リビング』だ。
部屋の真ん中には長くて大きなテーブルがあって、椅子が十脚並んでいる。そこから少し離れた場所には、ビロードが張られた猫足のソファセット。ソファセットのローテーブルには寄木細工 が施されているし、壁にしつらえられた飾り棚には古伊万里の大皿や壺が飾られていて、どこかオリエンタルな雰囲気を醸し出している。
湊斗はその美しいローテーブルにランドセルを置いて、庭に続くガラス張りの壁に身を寄せた。そこから隣りの……本当だったら、自分の家が見えるはずの方向に目をこらす。
だがそこから見える景色は、どこまでも続く広い庭園だ。
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