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第1話
高層ビルが建ち並ぶ都市のとある屋上から、ツヨシは空を見上げている。
深く澄んだ青は頭上にどこまでも広がっていて、遥か上空を横切る飛行機からの轟音が小さく遅れて耳に届く。地上を走っているであろう車が出す喧騒も、彼のいる屋上までは届いてこない。
揃いの黒いスーツのズボンから片手を出して、咥えていた煙草をコンクリートの床に投げ捨てると、ふっと口もとを緩めて視線を落とした。その先には、相棒の美琴 カケルの姿がある。
「準備はできたか?」
グレーのスーツにブルーのネクタイを品良く着こなした金髪の青年は、下半身を露出した状態で立ち上がった。
「うん、ツヨシさん。いつでも大丈夫だよ」
二人は屋上の端に向かって歩き、少し手前でツヨシだけが先に立って片膝をついた。両手は肩のところで固定され、何かを担ぐような姿勢を保っている。
「いいぜ、来いよ」
うながされたカケルは、ツヨシの身体をまたがるように移動して、兵器の位置を彼の両手の上に合わせた。
二人はこれから、3○○m離れたビルの中にいる標的を殺す。どのような理由があってそれは殺されるのか、誰によって決められたのかさえ二人は知らない。どうでも良かった。これは身寄りのない孤児だった二人が、生きていくために身につけた唯一の術 なのだ。
カケルは下半身を露出したまま、いつもの通り双眼鏡を覗き込んで、標的の状況をツヨシへと伝達する。彼の首元で風にはためくブルーのネクタイ。ツヨシはそれを確認し、深呼吸して、カケルの棒を左の手で握りしめた。
煙草に含まれていた交感神経を抑制するためのβ遮断薬は、その直後から急速に脳内へ取り込まれ、指先の震えが止まり精密機械のような静寂を提供する。
精密射撃に必要な能力は、計算と予測だ。ツヨシは生まれつきそのどちらにも恵まれていた。この仕事を始めてから仕留め損なったことは一度も無い。今まで生きてきて、誇れるものがもしあったなら、恐らくそのことくらいだろう。
カケルの棒に固定されたスコープの中央に標的の頭部をとらえてから、風の方向と、角度と、距離による落下を計算して位置をずらす。カケルは無表情で双眼鏡を覗いたまま耳を澄ませている。
ツヨシはその時を待った。周囲から全ての音が消え、自分の呼吸の音だけがやけに大きく聞こえた。
標的の呼吸をも自分の物とし、次の行動を予測しながら、ツヨシはカケルのきゃんたまを右手の小指から静かに握っていき。そして——静寂は突然の終わりを告げる。
「うっ」カケルが軽いうめき声を発した。
ツヨシがきゃんたまを強く握りしめたその刹那、カケルの棒からは鋭い弾丸が打ち出された。銃声はない。それこそが組織をして、彼らが一流と呼ばれる由縁だ。
空気を切り裂く一瞬の余韻のみ周囲に残して、弾丸が標的の頭部へ一直線に向かう。その行く手を阻む窓ガラスがスローモーションのように砕け散る様子を、ツヨシはスコープ越しに眺めていた。
「グッジョブ! ツヨシさん!」
カケルは双眼鏡を構えたまま、ツヨシを賞賛する。だが、ここで気を緩めてしまうようでは所詮素人。二人は選りすぐりのプロであり、証拠を残さず退却するまでが組織からも求められる仕事の範囲なのである。
剣道には、敵を倒した後にまで集中を途切らせない「残心」と呼ばれる概念がある。それを習ったことがないはずの彼らにも、人を殺す業を磨く中で共通する習慣を得ていたことは、原始的な本能によって命を奪い合う性が求める必然であったのだろう。
カケルはスラックスのベルトをとめながらツヨシに目で頷き、非常階段へと走った。監視カメラの無いエリアまでエレベーターを使うわけには行かない。二人が山猫のように階段を駆け下りていく途中で、救急車両の出すサイレンの音が遠くから聴こえた。
地上に降りて呼吸を整えながら、ファストフード店の前まで来る頃にはようやく二人の表情からも緊張が消え、そっと笑いあった。
駅に向かって肩を並べて歩いていると、都会の雑踏が二匹の獣をただの二人へと戻してくれる。それでも黒髪でスラっとした長身のツヨシと、金髪サラサラヘアーでどことなくハーフを思わせる容姿のカケルたちは、この辺りだとホストのコンビに間違われる程度には目立っている。現に二人が通り過ぎた後を振り返る女の子達は後を絶たなかった。
「腹減っただろカケル。何か買って帰るか?」
「うーん、ドーナツかなあ。でも、それより早く部屋へ帰らないと」
「わかってるよ。相変わらずカケルは真面目だな。ドーナツだけならいいだろ?」
カケルはツヨシの言うことには逆らえない。この屈託のない笑顔で言われたら、どんなこともつい許してしまうのだった。仕事の後は人の目につかないよう速やかにアジトまで帰るのが鉄則だと言うのに。
「仕方ないな。ツヨシさんは……。じゃ、早く買ってきて」
嬉しそうな顔で走り出すツヨシを見て、カケルは思わず顔がほころんでいた。
この時はまだ、二人のこんな関係がずっと続くものと思い込んでいたのだ。
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