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第2話

 ドーナツの紙袋を下げて、高田馬場にある二人の住むアパートまで戻るのに十五分とはかからなかった。錆びた鉄の階段を二人で上がって、カケルはドアの上下に仕掛けた印を確認してから鍵を開ける。誰かが侵入した形跡はない。  ツヨシは部屋へ乱暴に入ると、キッチンの向こうにある自室のベッドへ向けてその身体を投げ出した。緊張の糸が一気に緩んだせいで疲れが出たのだろう。カケルの部屋は本来隣にあるのだが、ドーナツを一緒に食べるためツヨシの部屋へと続いて入る。 「なあ、カケル……俺たちこれだけ苦労して、こんな金しか貰えねぇのって不公平だよな……」 「そうかな。僕は、あの施設に比べたら2DKのアパートだって天国とまでは言わないまでも、そこそこ楽しいよ。それに、ツヨシさんだっているし」 「カケル……服を脱いでくれ」 「突然なに?」 「いいから早く!」  ベッドに座ったツヨシからの強い視線が、何かの儀式のためにあたかもそれが必要であるかの如き神妙な空気を作っていて、カケルから抗う意思を削いでいく。  カケルはネクタイに指をかけてスルスルと引き抜いて床に垂らしたあと、ワイシャツとスラックスを脱いでハンガーに掛けた。次に下着を脱いだ時には、カケルの引き締まった身体を余すことなく観察することができるようになっていた。 「これでいいの? ツヨシさん」 「ああ、それでいい」  ツヨシは自室の小さなテーブルの上に置かれていたドーナツの紙袋をガサガサ開いて、ケーキボックスからシナモンシュガーを取り出した。  そして——それを全裸でいるカケルの棒に通した。 「なっ!! ツヨシさん、何を?」 「俺たちが出会ってからもう三年か」  ツヨシはそう言いながら、さらにオールドファッションを棒に通す。 「……!!」 「俺たちは、今まで死ぬ思いをして頑張ってきた……そうだろ?」  そして、ポン・デ・リングを棒に追加した。  カケルは何故だか動くことができなかった。これはツヨシの言葉の魔力にかかっているのか、それとも自らの意思によってそうしているのか、突然のことで頭の芯が痺れたように正常な思考が働かない。 「俺は、カケルと出会ってから変わっちまったのかも知れないな」  ツヨシはフレンチクルーラーをさらに棒に通した。 「俺は、カケルのことが好きだ……」  さらにフレンチクルーラーを棒に通す。ちなみにドーナツは二人で食べる用に買ってあったので、それぞれの種類が二つずつある。  そして、ポン・デ・リングを、つまりツヨシは、フレンチクルーラーから折り返して棒に追加しようとしているのだ。 「ぼ、僕は……」  カケルは耳まで赤くなってしまい、それ以上何かを言うことはできなかった。勿論ツヨシに対しては全面的に信頼しているし、今までそういった予感が無かったと言えば嘘になる。しかし、あまりに唐突過ぎる告白とドーナツによって拘束されているに等しいこの状況では、ただ必死になって恥ずかしさを耐えているしかなかった 。  そうして、オールドファッションとシナモンシュガーをカケルの棒に通すと、ツヨシは確かにこう言った。 「俺と組織を抜けて逃げないか?」  カケルの背筋がビクンと跳ねてドーナツが床に落ちてしまう。組織で受けた悍ましい教育はカケルの脳髄の奥深くまで恐怖を刻みつけていた。組織は裏切り者を絶対に許さない。世界中どこにも逃げ場など無いのだ。 「そんなの無理だよ! 絶対に逃げ切ることなんか出来ない。そんなのツヨシさんだって知ってるだろ! 現に僕達で何人も始末してきたじゃないか!」  ツヨシはベッドまで転がったポン・デ・リングを拾ってかぶりつく。 「……そうだな。すまん。まだ薬のせいで脳が興奮してるのかも知んねえ。忘れてくれ」 「ああ、そうだね。きっと……きっと疲れてるんだ。ゆっくり休んだ方がいいよ。今度の休みに温泉でも行こう?」 「ああ、ありがとう。ちょっと寝るわ」  ツヨシが寂しそうに横になり布団をかぶる姿を見て、カケルは胸が締め付けられる思いがした。  カケルは床に散らばるドーナツをケーキボックスに集めたあと、スーツと下着を抱えて隣の部屋へと移動した。  確かに組織のやり方は非人道的ではある。しかし、孤児である自分の面倒を見てくれ、生きるための方法を教え、生きる理由と居場所を作ってくれたことも、また事実なのだ。  恐ろしい掟は、枷であると同時に自分たちを守るための最期の砦でもある。人の命を奪うことで糧を得るような最底辺に蠢く獣たちが、唯一信じられるものは同じ泥を啜る仲間だけであるし、またそうでなければならない。もし強固な結束に少しでも綻びがあれば、とっくに仲間割れを起こして組織は解体されていたに違いない。  カケルは自室のベッドの上で、まんじりともせずに夜がふけていくのを待つのみだった。  ふと銃の手入れでもしようと思い立って、ドーナツの油がついた銃身をティッシュペーパーで擦り始める。カケルは頭の中の思考を追い払うかのように無心になって擦った。   * * *

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