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第1話

 いい月の夜だ。  さざ波の()。そこから運ばれてくる潮の()。  縁側から足を投げ出し、後ろに手を突いて、ただ静かに月を見上げている。  長閑で静穏な、海辺の集落。  ここの住人たちは皆働き者で信心深い。  日中は耕作や漁で互いに声を掛け合いながら汗を流し、日が暮れれば互いを労いながら個々の家々に帰り、休む。  人の暮らしとは、本来こういうものなのだろう。真面目で、そして善人だ。 (…ここへきて間もなく二年か。)  突然現れ、当時は幽霊屋敷とさえ呼ばれていた武家屋敷に住み着いた私のような薄気味の悪い人間を、今さらながらよく受け入れてくれたものだと思う。  どうやらこの『眼』のおかげらしい。互い違いの色をした眼を持つ私を、神の遣いか何かだと勘違いしてしまっているようなのだ。たまに祈祷ごとを頼まれる有様で、私にそんな力はないからと断るのに、患部に触れただけで「楽になった」「治った」などと言われる始末。  この地に受け入れてくれたばかりか、汚れた畳を葺き替え、伸び放題だった庭も整備して、そのうえ生活に必要な品々をことあるごとに置いていってくれる。  素朴で実直で、お人好し。 …あの美しい男が生まれ育った場所だけある。  ふと、すっとした涼やかな香りが鼻をかすめた。  さきほどから私のひざを枕にし、のんびりと同じ光を見上げているふうなこの男。こいつが昔つけていた、練り香の香りだ。  私はこの香りに気づくことが少なくなった。まとっているのが自分だからだ。今夜も今ごろになって海からの潮風に混じり揺られてきた自分の香にようやく気づいた。 …膝の上にいるこの男にも付けてやりたいのだが、なぜかこの男はくすぐったがってすぐに手を払う。  なぜか。  理由を聞きたいものだ。  この男の『言葉』を、私は静かに待っている。   *************  月夜の晩が好きで、厠の手前の廊下で立ち止まってはよく月を見上げた。  白く濁った世界が一変し、空の蒼さや、森の漆黒が浮き出る様や、天井の粉を吹いたような星空が眼の中にとめどなく流れ込む。  白昼の光はまだ眩し過ぎて、その頃はまだ日中よりも夜の世界の美しさに見惚れることのほうが多かった。  あの夜も私は、部屋から張り出た縁側に腰掛けて脚を投げ出し、下から吹き上げる谷風に足裏をくすぐられながら月を見ていた。  気配を感じ、ふと振り返るとあの男がいる。  障子の前に立ち、じっと私を見ていた。  そのさまがなにやらおもしろいと思った私は、ふざけて首をかしげ、微笑んでみせた。  男は何も言わない代わりに、障子から離れて私のほうへ向かって来た。  隣にあぐらをかいて、私の顔をすぐ目の前からじっと見る。  この男は遠慮というものを知らない。見られることは苦手だと何度言っても聞き分けがない。…とはいえ、ここへ来る以前は見世物小屋にいたのだ。自分を見物させる商売をしていたくせに、見られるのが苦手というのもおかしな話だ。  だがこの男の眼はどうにも落ち着かない。輪郭のはっきりとした黒目で射抜かれるように見られているうちに、魂ごと男の中へ吸い込まれていきそうな、そんな馬鹿げた心地になる。  しかし、このまま目をそらせば負けを認めたようにも思われて、私のほうも負けじと男を睨み返してみることにする。  すると、男は微笑んで右腕を動かした。  指先で頰を触られる。触れられることへの動揺を少しでも見せれば何故かまた負ける気がするので、今日は黙って受け入れてやる。  そういえば触られることも苦手になった。嫌だと手を払うこともできるが、今夜は見世物小屋にいたころの自分と違うことに、手を払う自由があることに、少しだけ誇らしい気分になっている。  親指の腹で目の下あたりを何度か柔らかくさすられた。こちらの感情を探られているようで気に食わない。舌打ちすると、男はまた軽く笑い、腕をさらに伸ばして私の髪を撫ぜる。  この状況。まるで… 「お前の猫にでもなったようだ」 「猫の方がマシだろう。猫なら自分で飯を摂る。お前は、ちゃんと食わせてやらないとすぐに自分を刻みだすからな」  男の体つきは私を拾った頃よりますます精悍になり、声は岩のように低く響いて私の耳をくすぐった。 「…知ったふうなことを」  手が頭の後ろにまわり、力が込められたのがわかった。  今日は気分が悪くないので黙ってその力に従うと、男が顔を近づけて来る。  月明かりに浮かび上がる澄んだ黒い瞳に自分が映る。  吐息が鼻の先をくすぐると、男の体からはすっとした香木のような匂いがした。  月明かりで、左右の目を代わるがわるじっくりと覗き込まれていると、あの夜の日々を思い出す。 …私はあの頃の私ではない。 …自分の意思で選択することも、出来る。今なら。 「……。…私が欲しいか?」  男はまたゆっくりと笑った。 「ふ。お前はすでに俺のものだ」 …そんなことはわかっている。…そういう、意味では… 「落ちるぞ」  男はいきなり私の背中に腕を回すと、両足をすくい取り、易々と立ち上がった。  谷からの風になぶられていた両足を縁側から持ち上げられ、視界が突然高くなると、谷の底が見えた気がして薄ら寒い。慌てて男の首にしがみつくと、男はまた少しだけ笑った。 *********

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