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第2話
「…ククッ」
結局あの後さんざん犯されて、自分の軽率な言動をしたたか後悔したんだったな。
思わず喉を鳴らして下を向くと、男と目が合った。
「…おい、いいかげん足が痺れた。下りろ」
男は私の膝を枕にしたまま大きな欠伸をひとつした。
わかっているのかいないのか。目を潤ませたまま満足そうに息を吐き、仰向けのままで私を見る。伸びをした手を無遠慮に腰にまわされると、大猫に太い尻尾を巻き付けられているかのようだ。
「…いつまでそこにいるんだ。猫にでもなった気か」
男は黙って笑っている。
*********
私がここに住み着いてしばらくした頃、ちょっとした騒動が起こった。
一艘の釣り舟が急な引き潮にさらわれ、一気に沖へと流されたのだ。
小さな釣り舟には幼い兄弟が乗っていて、どうやら親の言いつけを守らずに出来心で舟に乗り、そのうち別の子供がもやい綱を遊びで解いてしまったらしい。空は晴れていた。
兄弟の尋常ではない泣き声が聞こえたので門を出て高台から湾を見下ろすと、小さな舟が波に揺られながら沖へ進むのが確かに見えた。
大人たちは成すすべもなく海岸からおろおろと海を見ている。
すると妙なことが起きた。
沖へ流されていた舟がいったん進むのをやめ、潮の流れに直角となりゆっくりと横へ進み始めたのだ。兄弟は船べりにしがみついているだけなのに。
いったん横へと進んでいた小舟は、やがて、波に乗るようにして今度は海岸のほうへ近づいて行く。
兄弟は身を乗り出して下を覗きはじめた。鰐 でもいるのではと肝が冷えたが、どうやら下には人が居る。
そのうち舟は岸に着き、大人たちがこぞってそちらへ向かっていった。兄弟が舟から拾われて、舟の下にいた男も岸に立った。
―― あの男は…――!
男の風体を見て、私は居ても立ってもおられずに海岸へ走った。
岸に着くと、男がまた海に戻ろうとしているのを大人たちが必死に引き留めているところだった。
大人たちは男のいでたちにも驚いていた。衣服はボロボロで髭も伸び放題、髪もぼさぼさだった。だが、岸にいるどの大人よりも上背があり、その体はまるで荒れ狂う海に何年も住んでいたかのような精悍な筋肉を兼ね備えていた。村の竜神が祀られた、海岸浦の洞穴に住み着いていたようだ。おおかた生魚でも掴まえて食を繋いでいたのだろう。しかしはたしてそれが本当なのか、そして、いつからそうしていたのかも定かではない。男が口をきかないから。
髭を剃り、与えられた服に着替える前から、私はその男が誰なのかを知っていた。
だが言わなかった。
その男が私を覚えていなかったから。
身寄りがないのならうちの屋敷で面倒をみる。男を囲んだ宴席で私がした提案に、皆賛同してくれた。呼び名もそのとき、私が決めた。
*********
「…自分で飯が捕まえられるぶん、お前は私よりマシのようだな」
そう言いながら黒髪を撫でると、男は相変わらずすべてを見透かしたような澄んだ瞳で、「ふふっ」と、今度は少し声を出してわらった。
…本当に口がきけないのか。覚えていないのか。…忘れたふりをしているだけなのか。
門を叩く音がする。
男の頭を膝から落として門を開けると、源次 さんが立っていた。
「夜分にすみません。六太 んとこのマー坊が、今朝から鼻血が止まらないって弱ってまして。なにかいいものはないですか、斎東 さん」
「そうですね、オオバコの葉を乾かしているので、それを煎じて飲ませるといいかもしれません」
「そいつはありがたい。…あの、よければ斎東さん自ら足を運んでやってはもらえないですか。斎東さんが煎じてくれるのが一番効くようで…」
「ふふ…何度も言うようですが、私には神通力などありませんよ」
「ははっ。とはいえ『病は気から』って言いますからね。斎東さんが煎じてくれた方がマー坊も、六太の女房も安心するんで…」
「源次さん、病は気からというのは気持ちのことではないんです。『気』を病むから病気になるという意味です」
「ああ、斎東さんにはまったく敵わないな。いや、実のところはね、今日は形のいい鯛がたくさん捕れたんで、集落の女たちが宴会の準備をしてまして…うちのやつが、斎東さんたちにもふるまいたいって息巻いてるんです。斎東さんは宴席が苦手だから、マー坊に鼻血を吹いてもらおうって、ははは!」
「六太さんのところの件は嘘だったのですか?」
「あー、こうでも言わなきゃ斎東さんは来てくれないからって…うちのやつの思い付きですよ。どうでしょう、ぜひ、カイさんも一緒に…フジツボ取りで舟を吊り上げるのを手伝ってくれて、どんなに助かってるか…もう、私らは斎東さんとカイさんに、礼をしたくてたまらんのです」
…やれやれ。
まったくお人好しで、…善い人たちだ。
それにしても、幼少時代に納屋に引き籠って読み漁っていた本から取ったわずかばかりの知識が、こんなところで役に立つとは。
…暇つぶしに私の眼を治療したあのヨボヨボの老医者のところへ話をしに行っていたことも、今となっては無駄ではなかったのかもな。
「…夕餉 はもう、簡単に済ませたのですが…」
「私らはこれからなんですよ。なにしろ大漁で、さばいたりなんだりするのに時間がかかってしまって。ありがたいことです。斎東さんが来てくれたからだという輩もいるんですよ。まあ、酒と肴くらいなら斎東さんも入るんじゃないですか。朝餉 用に土産も持たせるし、それに、カイさんは体が大きいから…あっ、カイさん!」
源次さんの声に振り向こうとして頭を鷲掴みにされる。そのすぐあとで、ポンポン、と、あやされるように叩かれた。
背中を押される。
「よかった!手ぶらで帰るとうちのやつになんて言われるかわかったもんじゃない。見栄えのするお二人が来てくれたら女たちも喜びます。さあ、今日は月も明るいんで夜道も怖くない。いい酒もあります。行きましょう」
源治さんの提灯の明かりに釣られるように、男が歩きはじめた。
…まったく…。宴席は苦手なのに。なにしろ酔えばあの男の…
「…真の名前を、呼んでしまいそうだ」
呟いて、月明かりの道を歩く二人をゆっくりと追う。
石段の終わりで提灯の明かりが左に折れた。と、男がひょこりと戻ってくる。歩みが進まない私の背中を嬉しそうに押してきた。
「なんだ。源治さんの家の場所ならわかっている。先に行け」
「どうだかな。『猫』は気まぐれだからな」
―― え?
「ちゃんと来いよ、『斎東さん』」
それだけを確かに言うと、一笑した顔の残像を残して男はまた石段の下へと駆けていった。
「………」
やはり喋れたのか。
いろんな感情がないまぜになり思わず夜道に立ち尽くした私は、次に、なんだか無償に可笑しくなった。
「…ふふっ」
男を真似て笑ってみると、目頭があたたかくなった。
手拭いで軽く顔を拭い、私もまた月明かりが照らす道を歩き始めた。集落の明かりへと向かって。
―― 黄泉の国へ旅立とうとしていた花筏 。
あいつは寝相が悪いか何かで、そこから海へと転げ落ちてしまったのだろう。
カイを残して。
殺しても死ぬような男ではないと知っていた。
だが、浜で男の姿を見た時、私は確かに喜んだのだ。
男の存在が、まだこの世にあったことを。
【了】
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