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リコス国編(本編続編)~彼が靴を作り始めた理由:27*

「きっ、消えた?!」  思わず素っ頓狂な声を出した蓮だったが、わざとらしく蓮を抱きかかえていたリコス神――ジンジャーは蓮を膝から降ろすと立ち上がった。今のジンジャーはふっくらとした子ども姿の時と違い、体つきもしっかりとした長身で、端整な顔つきをしている。騎士然とした雄々しい立ち姿なのだが、声は蓮がよく知る子ども姿の時と同じ、可愛らしい声のままなので、そのちぐはぐさを笑われると思っていたらしい。  そして、白銀の神だけが、唯一剣を自由に持ち込むことが許される。長剣を無駄のない動作で構えると、蓮を背後に庇いながら階下に向かっていった。  神官たちが、預かっていた長剣をウルたちに急いで渡しに走る。そんな混乱の中、蓮はハッキリと見た。 「あっ、あれは……!」  美しく磨かれたリコス神の間。その床に不釣り合いな、不衛生な場所によく発生しがちな……害虫の姿を。ジェルタが飲んだのは蓮が飲まされたのと同じ薬のようではあったが、効果が出るのは随分早かった。その分、強力だったのだろうが――ジェルタが持つ本性――真実の姿が、害虫だったというのは大層な皮肉に思える。だが、喰らいつくす、という点についてはあながち間違いではないかもしれない。 「ウルっ、ジンジャー! ああああっ、あそこ! あの床のところ!!」 『……なんだ、あの醜悪な生き物は』  気味が悪い、とジンジャーが嫌がる声がする。ジンジャーと並び立ったウルは無言で相手の動きを見計らっていたが、とうとう醜悪な生き物――ジェルタが大きく跳躍し、よりにもよって蓮のところへと真っすぐに突っ込んできた。 「ぎゃあああああ!!!」  いくら運も悪ければ間も悪い蓮でも、これは絶叫するのを許してほしいと思うくらい、酷い。慌ててジンジャーとウルを盾にして隠れようとした蓮を救ったのは、黒い影だった。 「猫……?」  それは、大きな黒猫だった。どこから現れたのか分からないが、見事にジェルタが変じた害虫を足で仕留め、両の前足で抑え込んでいる。その黒猫にも見覚えがあって、蓮は二人の間から顔を覗かせながら、目を瞬かせた。マリナたちと街へ出かけた時、流れの神だという蛇に会う直前に、蓮の焼き魚を銜えて逃げていったあの猫ではないだろうか。 「……まさか――あの時の、泥棒ネコ……?」 『泥棒とは失礼な。しかし、猫とは恩義に報いる生き物。まあ、我は神だがな。これで借りは十分に返したぞ、……リコス』  黒猫はそう言ってニヤリと笑むと、じたばたと暴れている害虫を銜え直し、身軽にリコス神の間から駆け去っていった。 「もしかして、俺って夢でも見ている? ほら、猫がニヤリって笑うの、ファンタジーじゃないか」  頭を抱えた蓮の背を支えたのは、ウルだった。 「落ち着け、レン。とにかく、あの男の行方は総力を挙げて探すが……ひとまず、この場は下がっても良いだろう」 「この場はお任せください、殿下。神子殿も、大変頑張りました。先程の黒い猫は、我々のところに首飾りを届けに来た猫だ――もしかしたら、あれも流れの神だったのかもしれませんね。神子殿は、流れの神すらも味方につけられるようだ」  神官長たちに優しく声をかけられ、不覚にも泣きそうになる。  そうして、神官たちは一斉に青年の姿をしたリコス神へと両膝をついて、額づいた。それを一瞥したものの、リコス神は声をかけることなく青い光を放って消える――蓮の中へと。それを見ていた数人が感嘆の声を上げるのだった。 ***  数日間、密やかにではあるが、神殿や王太子宮は慌ただしかった。特に忙しかったのはジェルタが起こした騒動に関わる後始末を片付けることになったウルだが、神官たちもジェルタの捜索を行う人員を割いたりと動き回っていた。  そうして、人に戻れたハルノアの兄たちの様子を神殿まで見舞った帰り。蓮はマリナたちに声をかけてから、王太子宮の後庭に向かった。日が傾き始めて、空の色が今日の終わりのために一層賑やかになる刻限を迎えている。  ハルノアの兄は長い間木の魔人に姿を変えられていたが、ハルノアや神官たちに囲まれて、少しずつではあるが日常を取り戻してきている。唯一神子の間に残ったキャニスの木を見せると、号泣しながら喜んでくれた。ハルノアの弟妹たちも加わり、神殿は以前よりも賑やかになった気がする。  蛇の姿をした流れの神は、ウルの命令で第三騎士団長・ジェルタに成りすましている。見事な成りすましようで、最初の数日こそ性格が変わったようだと周囲がざわついていたが、やがて『今のジェルタ』を周囲は受け入れた。もしかしたら、それがジェルタへの最大の罰なのかも、と蓮は肩を竦める。神官たちはみな口が堅い上に、第三騎士団の面々も一様に表情が明るくなったとなると、本物のジェルタが戻れる隙間など、もうないだろう。第三騎士団に関する引継ぎなどが終わったら、爽やかにジェルタは王都から姿を消すというシナリオまで出来ているところが怖い。ウルを怒らせると怖いな、と少し思った。 『レン、げんきない?』  ぴったりとついてきたジンジャーに声をかけられ、花に覆われた庭の東屋の椅子に座り込むと、蓮はずるずると脱力した。それから、椅子に前足をかけたジンジャーの大きな体を、思いっきりもふっと抱きしめる。  ジンジャーが麗しい顔の青年の姿になった、そのことには意外と驚きはなかった。リコス神の間に飾られている像が思った以上に似ていたのもあったからなのかは分からないけれど。青年姿だと神々しさが一気に増すのだが、声は子どものままというのが一生懸命背伸びしている感が出ていて、当人には言えないが可愛いなと密かに思っている。とにかく、ジンジャーがこの世界で蓮の大事な友人であり、良い話し相手なのは変わらない。 「なんかさあ。自分でも、なんでこんなに落ち込んでいるんだろうって思うんだけどね。あのジェルタって人、俺の元上司にそっくりでさあ。雰囲気とか、行動とか。もう会わなくていいんだろうって思うのに……無理やり迫られたのが、気持ち悪かった。俺は男だし、大したことじゃないだろうって思っているのに。納得いかないことで怒鳴られたことも、悔しいって今更思ったりして。何かなあ、いっぱい、いろんな感情でごちゃごちゃ。あ、でも蹴り飛ばせたのはちょっとだけスッキリした、って言ったら怒られるかな? 神子なのに」  ジンジャーは口を挟まず、じっと蓮の話を聞いている。 「なるほど。元気がなかったのは、そういう理由か」  急に後ろから声をかけられ、蓮は座ったまま飛び上がりかけた。ジンジャーを抱きしめたまま頭を動かすと、執務で忙しいはずのウルがいる。ジンジャーが身動ぎ、蓮が慌てて力を緩めると、ジンジャーは蓮の頬に己の頭をそっと摺り寄せると、その場から立ち去っていった。  まさか先ほどのぼやきを聞かれてから、ウルと二人きりになるとは思っていなかった。蓮は見事に固まったが、背後から抱きしめられて口づけを求められると、つい流されていく。段々と蓮の息が上がってきたところで解放されたが、気まずさは依然としてある。やがて蓮が座っている長椅子に座ると、ウルが蓮の伸びかけの髪に触れてきた。 「私に、最初に話してくれても良かったのだが」  それから、ぽつりとウルがぼやくのを聞いて、蓮は困り顔になった。 「……忙しいのに煩わせたくなかったんだ。それに……なんか、格好悪くて。好きな相手に、格好悪いところなんて見せられないだろう?」  そう蓮が返すとは思っていなかったのか、ウルが驚いた顔をした。照れながら蓮は俯く。返ってきたのは優しい口づけだった。 「格好悪くなどないよ」  それから、たった一言。    思わずウルにしがみつくと、大きな手のひらが自分の背にあてられる感触に、何故か泣きそうになる。それから何度も口づけを交わしているうちに、ウルの寝室へと場所が移っていた。  無言のまま始まった交わりは獣のように荒々しく、あっという間に蓮の理性を奪い去っていく。最初は優しかったウルの口づけも、貪るような深いものへと変わり、神殿に行くためにと着せられていた服も腰紐を解かれてしまえばあっという間に服として用を成さなくなった。 「――ッ、あ……っ」  離れていた間は、昂ることもなかったはずなのに、ウルの熱量を感じて蓮は身を震わせる。仰向けに押し倒されながら、きつく抱きしめられ。何度も口づけされながら繋がる場所を暴かれ――喘ぎ声が漏れる。 「ウ……ル、……もう、」  まだ己の手の先はグルグルと布に撒かれていて、器用に動かすこともできない。ただ名前を呼んだだけで、与えられた衝動を必死に抱き返すことで迎え入れる。日数にしたら大して離れていたわけではないのに、ひたすら離れがたくて、泣きたい気持ちになる。 「――レン、泣いているのか?」 「ふ……、うっ」  優しいウルの声音が耳元で聞こえて、目許にも口づけが降ってくる。   「ウル、きもち……いい」  与えられる口づけのくすぐったさと、一度目よりも穏やかな律動。眦に涙をためたまま、少しだけ顔を離した伴侶に笑いかけると、蓮の中に入り込んでいる男のものが大きくなった気がして、蓮は慌てる。 「……本当に愛しくて、仕方がなくなる」  それからまた激しく求められて――お互いの身体を離したのは、だいぶ後のこととなった。

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