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リコス国編(本編続編)~彼が靴を作り始めた理由:26

 王太子の名で神殿から呼び出しを受け、ジェルタはいつになく気合を入れて身なりを整えた。流れの神と、神子の行方――それらについて話し合いがもたれるのだろうが、自分の感触からいえば、王太子には与することができそうだ。こちらの思ったように動いてくれれば、頭でっかちな神官長たちを罷免し、第三騎士団を――ジェルタの地位を向上させられる。多少は自分の責任を問われるかもしれないが、流れの神が現れ、神子が連れ去られたことになっているはずの今、神殿側により重い責任があるだろう。  優雅な午餐を平らげ、神殿に向かうといつもなら神官たちしか立ち入ることのない、リコス神の間に通される。オオカミの像が数多く配置された、祈りの間だ。常ならば神官や王族以外は立ち入ることを許されない場所である。自分の処遇が大きく変わる予感に、ジェルタは笑いを隠すのに必死だった。 「呼び出してすまないな」 「いいえ、殿下。殿下におかれましては、エデュカより早々のご帰還、お疲れのことでしょう」  昨夜のことを暗に示唆しながらジェルタが口上を述べる。王太子は、上座にある椅子に腰かけていた。王太子が今座っている場所の後ろには更に段があり、上段に神子が座ることになる。更に、その上――最上段にはオオカミのモチーフが見事な大椅子があるが、それはリコス神のためのものであり、常に空席である。  ジェルタは恭しく頭を下げてから、王太子の前で片膝をつく。視線の先――王太子の足元には、真っ白なオオカミが伏せていた。ジェルタが見ていることに気づいたのか、頭を持ち上げて琥珀色の瞳で睨んでくる。今にも飛びかかってきそうだが、オオカミの首には滑稽なことに首輪が付けられていた。その前足には、布がかけられている。 (獣になった神子に、首輪か。面白い見せ物だ)  また笑いそうになり、必死に床を見つめることで何とか我慢する。やがて王太子が神官長らを鋭く呼ぶ声がした。 「それでは、貴公らの言い分を、改めて申すと良い」 「……はい、殿下」  神官服の正装に身を包んだ神官長が頭を下げると、補佐官ら高位の神官たちが一斉に頭を下げる。リコス神とその神子に仕える彼らが王太子に――いや、自分に頭を下げているような錯覚に、ジェルタは気を良くしていた。 「改めて申しますと、アシュリー卿が流れの神と思わしき者に接触していた疑いがございます。そして、神子を連れ去ったところを見た者もいると報告を受けております」 「なにを……!」  思わず立ち上がりかけたジェルタだったが、「静粛に」と厳しさを増した王太子の声に、慌てて姿勢を戻す。王太子は己よりもずっと年下なのに、随分気迫がある。 「それでは、アシュリーの申していることと齟齬が多いではないか。卿は、私に申したことに嘘偽りはないと昨夜申していた。そうだな?」 「……は、勿論です」  少なくとも、神子を連れ去る時に過ちはおかしていないはずだ。密かに笑いながら、ジェルタは「申し上げます」と王太子に一礼して立ち上がった。 「我々第三騎士団は、常に危険と隣り合わせです。貴殿ら神官たちが中々のんびりとしている故、代わりに流れの神討伐のために動いていた。結果、何度も間近まで追い詰めたこともある――それが接触と言われるのか。神子についても、このジェルタが連れ去ったと? 何を根拠に申されているのだ。私は嘘偽り申していない。リコス神に誓って」  ――その神とやらは、どこにもいないのだが。  王太子からは見えない位置で、神官長たちに向かってほくそ笑んだ。神官長たちの顔が、ますます険しくなっている。もう少ししたら、ここにいる神官たちの頭はすべからく、すげ代わっているかもしれない。 「これらに関して、証人がいる。呼べ」  低いのだが、通る王太子の声がリコス神の間に響く。少しして、神官見習いの服を着た少年が現れた。神子と偽っていたのに、神子が庇っていたあの少年だ。 (なんと好都合な)  ここまで来れば、ジェルタの勝ちが決まったようなものだ。少年は両膝をつくと、王太子自らに詰問されて、自分と神子の前に木を象った流れの神らしき化け物が現れた話をした。ちら、と神官長たちを見やるとそれぞれ苦し気に目を伏せている。  さて、何と切り出そうか――そう悩み始めたジェルタの耳に、不思議な音が聞こえてきた。  何かを引きずるような、不気味な音だ。 「殿下、流れの神です!」  その一言で後ろを振り返ったジェルタは、思わず後退っていた。  神官たちも動揺し、「剣を……殿下をお守りしろ!」と騒ぎ始める。思い切って、ここで成敗してしまえばより自分が有利になるか。そう考えたジェルタだったが、己の長剣は神殿の入口で取り上げられてしまっている。 「静粛に。それも、証人の一人だ」  人々の騒ぎを静めたのは、王太子のその一言だった。 「ハルノアと言ったな。お前が見たのは、あの木のような者で間違いはないか? 近くに行って、よく見てみて欲しい」  少年は膝をついたまま王太子に頭を下げると、屈強な神官たちに付き添われて立ち上がった。  「いや、危険だ! 今すぐ、討伐しなければ!」  ジェルタが大声を上げる中、少年はまっすぐに木の化け物へと向かって行く。やがてぴたりと化け物の前に立つと、ぞぞ、と後退ろうとする化け物に触れていた。 「――ニスト兄さん、なのか?」  小さく、少年が呼びかける声。枝が絡みついたような手を少年がとり、額を押し当てる。そうすると、すぐに木の化け物は消え失せ、代わりに熊のような体格の男が一人、立っていた。急いで神官たちが布を被せる中、大男は少年と共に王太子に向かって膝をつく。ジェルタは思わず舌打ちしかけたが、大男が話し出す様子はない。キャニスの木が失われた際、たっぷりと追い詰めた時にはすでに謝罪の言葉以外、何も話せなくなっていたのだ。もしかしたら言葉を失ったのかもしれない。 (それなら好都合)  まだ己の運が落ちていないことに力を得て、「殿下、あの者がすべての元凶ですぞ!」とここぞとばかりに大声を上げた。 「卿は落ち着いてくれ。さて、これで最後だ。――神子」  下座にある扉を見やったジェルタだったが、思っていたのと違うところの扉が開かれ、慌てて視線を動かす。それは、神子の間という神子だけが許される場所だ。開かれた扉から現れたのは、昨日ジェルタに襲い掛かってきた巨躯のオオカミと、それに跨る清廉な衣装を纏った麗人だった。  巨躯のオオカミが王太子の前まで歩み出たところで、その姿が人のものへと変わり、ジェルタは目を見開いた。白銀の髪をした長身の男は、危なげなく背に乗せていたはずの麗人を抱きかかえると、ヴェールで覆われていた麗人の容貌を明らかにする。そのまま王太子の脇を通り過ぎ、最上段の大椅子へと腰かけた。  そのことに、この場にいる誰もが異議を唱えない。 「ば……馬鹿な……」  全員が跪き、王太子すら椅子から下りると段上の相手に頭を下げる。王太子が頭を下げる相手など、限られるのもいいところだ。  ただ一人立ち尽くしていたジェルタは、最上段の大きな椅子に腰かける男の顔をまじまじと見た。その端正な容貌は、このリコス神の間に飾られている像に似ている。貴人の証でもある額冠をつけた麗人を難なく抱きかかえて悠然と座る様は――まさしく、神だ。  立っていられなくなり、ジェルタは無意識のうちに膝をついていた。 「……俺が、リコス神の言葉を代弁します」  緊張しているのが分かる青年の声。昨日、追い込んだはずの神子と、同一のものである。慌てて王太子のいるあたりを見やったが、そこから白いオオカミの姿は消え失せていた。 「あ、ジェルタさん。昨日はよくも俺に言いがかりをつけて、変な薬を飲ませてくれましたね。いや、同意した俺も悪いですけど……お蔭で、貴重な体験することになっちゃいました。その件で、リコス神が大層お怒りです」  まさか、そんなストレートに神子が言い出すとは思っていなかったジェルタは口をあんぐりと開いていた。 「あと、王太子を失脚させる気満々でしたよね。神殿の皆さんも巻き込んで。それから、木の魔人……じゃないや、ハルノアのお兄さんにも変な薬を飲ませた。……そうですね?」  神子が呼びかけたのは、ジェルタの背後にいる大男たちだ。今の今まで一言も発さなかったのに、神子が声をかけた途端、「はい」と二ストが大きな声で返した。 (も……戻れないはずでは、なかったのか?!)  怪しい噂のある薬師から手に入れた、キャニスの木から作り出されたという薬。どうして彼らが元に戻れたのか、ジェルタにはさっぱり分からないが、まるで金色にも見える神子の両眼がまっすぐにジェルタを見ている。 「ふん……かくなる上は……! 神も神子も、王も王太子も! まとめて葬ってくれる!! この国を喰らいつくしてやるわッ!!」  叫びながらジェルタは、上着の内側から小瓶を取り出した。周囲が唖然とする中、神子たちに飲ませたものよりも濃く精製されたそれを飲み干す。  己が抱えている本性が、この国のすべてを喰らいつくす――ジェルタはとうとう声を出して笑おうとしたが、想定されたリコス神の間に響き渡る程の笑い声が、出てこない。そうして、ジェルタの世界は急変したのだった。

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