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番外編:神の目覚め

遠い、過去の話。 「やあ、お誕生おめでとう」    にこやかな声に話しかけられて、彼は虚ろな蒼の眼差しを向けた。その視線の先には、何もいない。ただ、声だけがした。 「ああ、まだ目が見えないのかな? そのうちまあ、見えるようになるから安心してね。君はリコスから力を受け継いで、新しい神となった。新しい神を祝福するのが、私の務めでね」  時折、リコスという名の神狼と共に彼が訪れていた草原の中に、彼はいるのだという。 「……リコスは、どこに……」 「リコスの肉体なら、まだそこにあるよ。そのうち、地へと溶け込んでこの辺りの土地を潤すだろう。しっかし、これで神狼の一族はすべて滅んでしまったねえ」  一体なにが、と彼は呟いていた。何が起こったというのか。  かつて、彼が滅ぼした国の王子だった男に急襲を受けた。ほとんど護衛が付かない、禊の時を狙われたために、愛剣でもって戦うことすらできなかった。最後に、争うことなど苦手なのだろう、いつものんびりとしていたあの小さな白い神狼が己を守ろうと飛び出してきて――その小さな体を抱きしめて、絶命したはずだったのに。 「神は、自分の命――まあ、神としての力のことだけれど――を分けた相手を、神にすることができる。あの子はもう、息も絶え絶えだったから、君を生かすことしかできなかったのだろう」  何も見えない。  けれど、花に囲まれているのか、良い香りがした。ひょこりとあの琥珀色の瞳をした小柄なオオカミが現れそうな気がして、彼は必死に手探りで横たわっているはずのそれを、探した。  そうして、やがて彼の指がふわっとしたそれに、触れた。必死に抱き寄せると、やはり血ではなく花の香りがする。その柔らかな毛並みはまだ、温もりを残している気がした。 「……私が受け取った力とやらを、リコスに戻せばリコスは蘇るのか?!」 「もう、魂が離れてしまったからそれは無理。第一、できるとしてもそうしたら君がまたフツーの人間に戻って死んじゃうよ。あの子が何のために、君を生かしたと思う?」  いつでもふわふわとしていた。  あの柔らかな視線に込められていた、穏やかな感情。 「――どうして、私を……」  何も見えないのに、目蓋が熱くなり、自分の頬を涙が伝っていくのは分かった。  神は、殺されない限り永遠を生きるという。今、己を知る者たちは年を取らない己の傍を通り抜け、やがて誰ひとり己を知る者もいない世界を、この先ずっと生き続けるのだ。  その世界に、優しい琥珀色の眼差しをした神狼の姿は、ない。 「うーん。はっきりとしたことは言えないから、黙っておこうかなって思っていたんだけど……神だった者の魂も、いつかは生まれ変わるよ。この世界なのか、それとも我々の手が届かぬほど遠い異界でなのか、それは分からないけれど。そうだなあ、ざっくり千年単位はかかるだろうね」    少しずつ、涙で曇るままだが視界が明るくなってきた。   「リコスには時間がなさ過ぎて、君に渡すはずの力のうち、花神としての力を渡しそびれている。神は最低でも二つの性質を持つものなのに……まあ、もう一つは君自身が追々どうにかするとして。リコスが生まれ変わる時がきたら、少しは花神の力が残っているかもね。それなら、君はすぐ見つけられるんじゃないのかな」  ようやく開けた視界。思った通り、真っ白なオオカミが目を伏せて眠っていた。  その身体は、消えてしまうという。だが、もう一度――出会えるのなら。 「そうそう! 君、もう泣いているから、言ってもいいよね? その子、最後の言葉を訊いた私に、なんて言ったと思う? 君と、君の子孫がずっと幸せでありますように、だってさ。消える間際に言うことじゃないよねえ。自分のことなんかより、君の幸せを願っちゃって……自分の幸せと、引き換えになってしまったのに」  もう、琥珀色の瞳が彼を見ることはない。  その口許は――薄っすらと、笑っているようだった。 「最後に、神というのは二つ以上の性質と、二つ以上の姿を持つ。君は、どんな姿が良い?」 「――オオカミに、なれるだろうか。いつかリコスが生まれ変わって……オオカミのままだったら、寂しくないように」  了解、と声の主は笑いながら返した。 Fin. 

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