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第1話

お前と俺だけの歌を作ろう 100年前、小さな両足が温かい大地に触れた瞬間に気付いた。自分は生まれてくる場所を間違えてしまったと。 この世界の温かさや優しさはこんな冷たい命のためにあるものではなく、生の輝きとは真反対の場所で暮らすはずの自分が、こんなところにやってきてしまった。その純然たる事実はすぐに産みの親とされる存在にも察せられ、名付けられないままその「少年」は「鬼の子」として森の中の社に祀られることとなった。 長い年月を経てもその体が人間のように老いていかないことが何よりの証明になる。瞬きの内に移り変わっていく世話焼きな人間たちから聞く物語だけが少年の世界の全てだった。 曰く、自分は獣を宿す器になるのだと。 一度は栄華を誇った「人間」だが、現在は衰退し管理された数のみで生きているらしい。そんな中で自分は、特別に長命で獣の頭を持った「獣人」の子どもを宿せる種類の「生き物」らしいのだ。 「…生き物じゃないと思う」 世話人が帰った社の中で、天井を眺めながら呟く。自分は全く生きていない。おそらく死んでいるのだと思う。だからこんなにも体が冷たくて、成長しないし腹も空かない。そんなものがどうやって子どもを宿すというのだろう? それに、獣の頭を持った人間なんて見たことない。だからきっとこれは自分を外に出さないための方便で、ただ疎まれて隠されただけの存在なんだと思う。 「…でも、そうじゃなかったら」 着替える時に見た鏡を思い出す。常時部屋に置いておくと発狂する心配があるので、この社には鏡がない。自殺を防止するため食器もないし高いところには手が届かないようになっている。鏡に映った自分はいつも通りの死んだような目をして、血色を隠すために目尻と唇に少しばかりの化粧を施され、茶色く長い髪を適当に結んでいた。 「本当に俺を孕ませたい獣がいるんだとしたら?」 だとしたら、それは少し面白いことだと思った。そう望むものがこの見目を気に入ってくれたらいい。この体を愛してくれたらいい、さもなくば殺してくれたらいい。人間でも獣でもなんでもいいから、伝聞ではなく直接自分に齎される刺激がほしい。でもダメだ、そんなことはできない。少年は何度も繰り返し中途半端な夢想を描いては、途中でそれを自分で壊した。 100年なにもなかったんだから、これから100年きっとなにもない。生きてないし、死ねない。誰も愛さないし、誰からも愛されない。ただ伝え聞く「物語」と「役割」だけが、自分を形作るものだった。 「迎えに来たよ! えーっと、えーっと…」 だから、寝ていたところを突然起こされて、半壊した社で自分を抱きしめる獣の姿を見たとき、とても嬉しくなってしまった。 「…俺を孕ませる獣の人?」 竜巻というものが直撃したならこうなるのだろうか? 屋根は吹き飛び、床板は剥がれ地面が剥きだしだ。寝ていた場所だけ奇跡的に残っている。ふわふわの動物の毛が頬や腕に触れる。多分この生き物は、猫科だ。暗くてよく見えないがかなり大型だろう。抱き起こされているので、二足で歩ける種類かつ、人間の言葉が話せるものだ。つまり、世話人の話は嘘ではなかった。獣人とはこの生き物のことなのだ。 「可愛い、小さい……ぎゅってしていいですか?」 少年の問いかけには答えず、その獣は嬉しそうに囁く。ひょっとしてまだ子どもなのかもしれない。獣の老若は分からないが、自分より精神年齢の低そうな話し方だった。ただ低く甘い声は、脳を甘く揺さぶった。 「いいよ」 もとより抵抗する気などないので、言われるがままにすると全身を強く抱きしめられた。獣の匂いが胸一杯に入り込んでくる。 「…っ、」 あまりに濃厚な「生き物」の気配に溺れそうになる。こんなに近くで誰かが自分に触れたことなど一度もない。しかもこんな、苛烈さで。 「可愛い、可愛い、小さいね…小さい……」 ごろごろと喉が鳴る音がする。頭部がぐりぐり、頭や首筋に擦り付けられる。どうして夜に来たのだろう? 顔が見えないのが残念だ。 「オレの、不死者なんだね、かわいいね…」 初めて聞く言葉だ。獣の側では自分のような存在をそう呼ぶのだろうか? 世話人は「鬼の子」と呼んだものだが。頬ずりが止んだと思ったら、今度は体中の匂いを嗅がれる。 「っ、」 やめろともいいとも言えない。状況がまだ分からないからだ。 「いい匂い、すてきな匂い…あれ?」 腋の下や尻の匂いを嗅いでいた獣が、不意に鋭い爪を持つ掌でがっしりと手首を掴む。 「…体が、冷たい…、具合悪い?」 心底悲しそうな声を出すので少し笑ってしまった。自分はこの獣にとってどれだけ価値がある存在だというのだろう? 体が冷たいのは元からだと言おうとして、声に出す前に抱きかかえられた。舌を噛むところだった。 「すぐに診てもらおう! 心配しないでいいからね!」 獣は少年を担いで、百年閉じ込められた社からいとも簡単に飛び出してしまった。 「…ああ」 「すぐ着くからね、ぎゅっとしててね」 いつかこんな日が来たらいいと思っていた。同じくらい、来ないと思っていた。こんな冷たい体を抱きしめてくれる存在なんていないと思っていた。でも、同じくらいいてほしいと思っていた。 この獣の子を産めと言われたら、それに従おう。だってこんなに願いを叶えてくれたから。少年はそっと目を閉じて、毛皮にしっかりとしがみついた。 「トオル! 診て! 体がとっても冷たい!」 「不死者は冷たいものだよ」 「えっそうなの!?」 連れてこられたのはとても大きな城だった。獣は大きな門をくぐってたくさんの階段を上った。城の中の明かりでだんだん輪郭がはっきりして、少年はその獣が虎であることを知った。 どうやら目的地らしい部屋で二人の生き物が虎と少年を待ち構えていた。 「はじめまして」 トオルと呼ばれた水色の髪の男に声をかけられる。その後ろには獅子の獣人がいる。獅子は警戒しているのか、水色から身を離そうとせず声も発しない。 「…はじめまして…」 虎に抱きかかえられた状態で挨拶をするのも憚られると気づき、ちょんちょんと爪先で蹴る。 「あ、あの…おろして」 「え、やだ…」 「トラ、なにか説明してあげた…?」 「してない」 「この子の名前は?」 「わかんない…」 「そう…」 水色がふうと軽く溜息をつく。すると後ろから獅子が手を伸ばし、抱きかかえるように椅子に座った。 「ありがとう。トラもその子と座りなさい」 「はい!」 応接室として使われているのだろうか、獣が座ってもびくともしない大きな椅子が何個か置いてあり、暖炉もある。今まで書物や世話人からの伝聞でしか知りえなかった物が現実として目の前にある。少年の胸は高鳴った。 「急なことで…驚いていると思うんだけど、いまお前が知っていることを俺に教えてくれる?」 突然「お前」と呼ばれて面食らったが、どこか物憂げな水色の仕草は魅了されるなにかがあった。少年はぽつりぽつりと状況を伝える。 「…俺は、鬼の子と呼ばれていて」 虎は少年の全ての言葉を漏らさないよう、必死に耳を傾けていた。 「100年くらい、社の中で暮らしてた。俺は人間じゃなくて、特別に長命で獣の頭を持った『獣人』の子どもを宿せる種類の『生き物』なんだって、まわりの人が言っていた…でも、そんなの嘘だろうって思ってたら…今さっき社が壊れて、この虎が俺を抱きしめてて…分かるのはそれだけ…」 よく言えました、とばかりに虎が体中を撫でて頭を擦りつけてくる。くすぐったいからやめてほしい。 「ううん…半分くらい間違ってる…」 水色は額に手を当てたがそれほど困ってはいないようだ。笑ってすらいる。 「トオル」 獅子が膝の上の水色の首を後ろから甘く噛む。突然見せつけられた行動の真意が分からず、少年は体を強張らせた。噛み殺すとでも言いたいのだろうか? 「心配しないでいいよ、シシはトオルと仲良しだから」 虎が気配を察したのか、笑いかけてくる。もしかしてこの生き物たちは「獅子」だから「シシ」、「虎」だから「トラ」と呼んでいるのか? 疑問符ばかりで何も解決しない。 後ろ手で獅子のたてがみを撫でている水色の目を見る。自分と同じような化粧をしていた。 「…俺と、同じ『生き物』なの?」 「そうだよ。俺とお前は同じ『不死者』。獣の子どもを宿せるんじゃなくて、獣それ自体を宿すことができる存在だ」 「…?」 「トオルは俺を妊娠している」 獅子が初めて少年に明確に語りかけた。なにがなんだかさっぱり分からない。 「俺の名前はトオル。お前に仮で名前をつけるよ。不死者の子どもはだいたいこの名前だから。今日からお前の名前は『ウタウ』だよ」 「ウタウ! オレの不死者! ウタウ!」 ぎゅうぎゅうと虎に抱きしめられて、ウタウは呆然とするしかなかった。

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