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第15話<トラ×ウタウ>

シシとトオルは周到な用意をして去っていったらしい。 二人がいなくなってすぐ、城に一通の手紙が届いた。遠く離れた国に住む豹の獣人からの文で、人間の言葉と獣の言葉で慰めと労いが書かれていた。すぐに会える距離ではないけれど、有事の際には手を貸すとあった。そして自分にもつがいの不死者がいること、ウタウのことを気にかけていると結んであった。 二人が使っていた部屋の机の上には、獣人の言葉と人間の言葉の対照表と学習の手引きが置いてあり、暗にウタウからトラへ言葉を教える必要性を説いていた。 「トラ、お肉食べて? 持ってくるよ」 「……ウタウ、ウタウ、行かないで」 「だめ。ひとりで歩けるもん」 「うう……」 100年育ててくれた親のような存在を失くしたトラは部屋に籠るようになった。ウタウが誘ってもあまり外に出ないので、ウタウは木靴を履いて城を闊歩する。二人っきりのこの大きな巣箱は、抱えられて通り過ぎていた間は知る由もなかった場所がたくさんあって楽しい。貯蔵部屋にはこの先しばらくは困らないほどの食料がある。おそらくシシの不在を里から荷物を運んでくる人間はまだ知らない。だから食料も二人分届くから、少しくらいトラが落ち込んで外交ができなくても問題はないのだ。 (……俺はきっと、) トオルのような不死者になるのだろう、と感じている。運命の何もかもをきっと容易に受け入れて、自分の欲しいものだけを貪欲に守る。 二人が去ったことは寂しいし悲しいけれど、そこまで大きな衝撃を受けていない。そうなるのが彼らにとっての自然で、獣人と不死者にとっての摂理だったと納得してしまったからだ。自分はいまトラが元気になってくれればそれが一番で、二人に戻って来てもらうことなんて向こう何百年もできないのだから、できることをやるしかない。食事をとらせて、眠らせて、少しの運動と、読み書きの練習。 (それに……きっとずっと先の話だ) ただ質量を持って胎に宿っている何かを撫でる。トオルがいないと産むのは心配だけどすぐの話ではない。いまのトラが命を失うまであと何百年もあるだろう。それまでにたくさん歌を歌って、二人だけの思い出を作るのだ。 肉の塊を持って、鼻歌を歌いながらウタウは部屋に戻った。 *** 昼間に起きることなので表現としては正しくないが、トラは夜泣きするようになった。二人がいなくなってから生活の様式をトラに合わせるようにすると、昼に眠って夜活動する完全な夜行性動物としての特徴が強く表れ始めた。朝一緒の寝台でトラの胸に顔をうずめて眠ると、そのうち大きな獣の鳴き声が聞こえてくる。遠吠えをする獣ではないはずだから、単純に感情の行き場所を失っているのだろう。眠い目を擦りながら、強くぎゅっと抱きしめてやる。そして、そのまま行為にもつれ込むことも多かった。 「……ウタウ、だっこ」 「うん、おいで、おなかで抱っこしてあげる」 トラは最近ほとんど人間のものを模した服を着ないので、ウタウがゆるい寝間着をほどいてしまうとすぐに二人は裸になる。小さい手でトラのものを扱きあげると、ゆっくりと反応して硬くなる。 「うたう、だいじょうぶ……?」 「うん、嬉しいくらい」 不死者としての自分の性質をまざまざと見せつけられている。後ろの穴はすこし爪の先でくじられるだけで緩んで、つがいの肉の根を取り込もうとする。 「おいで……」 ぐ、ぐ、と入ってくる。熱くて太い感覚に酔いしれていると、トラが顔や首を甘く噛む。 「うたう、うたう」 「大丈夫、一緒だよ。一緒にいるからね」 「ありがとう……」 トラは一定の間隔でゆっくりと腰を動かして忘我の境地に入りこむ。ウタウはそれを胎の奥底でずん、ずん、と感じて蕩ける。気持ちいいのがゆっくり長く続くこの交わりは至高だ。発情より自分の精神が安定しているし、なにより甘えるトラが可愛い。 「かわいい、かわいい俺のトラ、大丈夫、一緒だよ……」 ウタウは思う存分、トラを甘やかした。 *** 「トラ、雪が降ってる」 「ほんとうだね」 「雪見るの初めて」 「そうなの?」 「うん、俺がいたところでは雪降らなかった。ここは山に近いからかな……寒くなるから、ちゃんと服を着てね」 「うん!」 暖炉のある部屋で生活した方が温度が一定になるだろうと、二人は応接室に寝台を運び込んだ。他に誰も来ないと思うと、どこでどんなことをしても恥ずかしくないし、思う通りに生きられてウタウは気が楽だ。暖炉の前で暖めていた膝かけを取って椅子に座り直すと、トラが膝に縋りついてきた。 「ねえ、ウタウのお腹……」 「ああ、うん……だよね」 温度は感じないし胎動もないのだが、どんどん胎が膨れていく。最初は少し気になる程度だったが、今では普通の下穿きが入らないし両手で抱えられるくらいの大きさになってきた。行為を控えても日に日に大きくなっていく『これ』を、ウタウとトラは持て余していた。 「なにが入っているのかな……」 「なんだろうね。でも、なんでもいいような気がしてるんだ」 心配げなトラの声は嬉しいが、本当にそれでいいとウタウは思っている。 「俺は死なないから、心配しなくて大丈夫だよ。それにね、俺はトラとしか契っていないし、トラにしか愛されていないから、この中のものが絶対にトラに関わるなにかだって信じてる。それならもう、なんだっていいんだよ。鬼でも、トラでも、化け物でも、不死者でも、命じゃなくてもいい」 うう、うう、とトラは鳴いて腹に頭を擦りつけてきた。なんだっていいし、なんだって受け入れられるような気がしていた。 「本を持ってきて。お勉強しよう」 「うん……」 雪が降っている。春はきっとまだずっとずっと先だ。 *** ウタウはその日、いつもと違う夢を見た。 ウタウの世界はトラと、少しだけの「この世の中」と呼ばれるものの知識と、窓の外から眺める森の景色で出来ている。見る夢も、たまに荒唐無稽な場所やモノが出てくることもあったけれど、基本的に内側に堆積している記憶や記録が一定で変化がないので、不思議な夢を見る経験はそんなに多くなかった。夢の中で未来を見るような能力もなければ、占えるような根拠もない。 夢の中でウタウは誰かと手を繋いでいた。誰だかはどうしても分からない。温かいかも冷たいかも分からない。毛が生えていればトラだけれど、感触も分からない。 ただ、この手を離してはいけないとずっと思っていた。この手を離したらきっとたいへんなことが起こって、今までの全部が壊れてしまうんだと思っていた。だから、もしかしたら化け物の手だったのかもしれない。どうかここから離れていかないように、ずっとここにいてくれるようにウタウは願っていた。 でも夢の中でウタウは、その手を離そうとしている。客観的にそれを見ている別の視点のウタウはそれを止めたいが、指先が一本ずつ『それ』から離れていくのをただ黙って見ていることしかできない。 とても不安だ。 これからどうなるのだろう。『これ』は自分とトラになにを齎すのだろう? 最後の指一本が離れる瞬間、ウタウは声を聞いた。 「だいじょうぶだよ」 トラの声だったような気もするし、自分の声だったような気もするし、全く別のなにかの声のようにも聞こえた。 *** 目が覚めた瞬間、唐突に理解した。 「トラ」 「ん……?」 まだ日は登りきっていない。正午の鐘も鳴る前だ。 「たぶん、血がたくさん出る気がする」 「ん!? どうしたの!?」 不穏なウタウの発言に、がばりとトラが身を起こす。 「お腹が痛いというか、出てくる気がする……違和感があって、出てくる感じ」 「……わかった」 トラは冷静だった。獣の性がそうするのだろうか。狙われやすく、命を失いやすい瞬間が訪れることを二人は予感していた。 「……お願いトラ、死なないで」 「え?」 ぎゅっと、ウタウはトラの手を握った。 「もしこれがトラなんだとしたら、一つの時代にトラが二人もいるのはきっとおかしい。お願い、生きて」 「……うん、生きるよ。ウタウとずっと、生きるよ」 寂しそうに微笑んだ獣に、誓いの口づけをねだった。 疑問はたくさんある。けれどひとつひとつに適切な回答を与えられる時間的余裕もなければ、根拠もなく、助けてくれる他人もいない。ただ自分の体が求めるように動くしかない。 *** ウタウの胎から狭い道を通って降りてきて、丸いぶよぶよとした膜に覆われて出てきた血だらけの塊の、臍の緒らしきものをトラが噛んで切った。 部屋中、血の匂いで溢れている。ウタウのまわりに敷いた布は体液と血と汗で元の色が分からない。どんなにきれいにしても二度と使うことはできないだろう。 骨盤が完全に開いて、ほぼ外れて脱臼状態になったウタウは腰から下を動かすことができない。声も出ず、ただ震えて息を繰り返した。 トラは獣の習性で、つがいの産んだなにかの膜を噛んで口に含む。口移しでウタウに与えたかったが、ものを食べない相手には無理な話で、そのまま飲み込んだ。長い舌と鋭い歯で血だまりの中から必死になにかを探す。 「ぴぃ」 「……とら、」 小さな、しかし確かな鳴き声がした。 「ぴぃ、ぃい、ぃぃ」 「とら、みせて、それ、なに……?」 「……ふつうの、繁殖だ」 「え……?」 トラがゆっくりとウタウの顔のそばに赤いかたまりを持ってくる。 「みて、ウタウ……はんぶんずつ」 「あ……うそ……」 顔はくちゃくちゃの、小さいサルのようで。少し高い位置にある耳は、虎の丸い耳で。小さな手には小さな爪が生えていて、尻から短い尻尾が生えていた。短い足が二本、目が二つ、鼻が一つ…… 「ああ、ああ、よかった……」 ウタウはそれをぎゅっと抱きしめた。 「オレとウタウの子どもだ! ふつうの繁殖だ!」 ありえない願いだ。でも分かった。この体はトラの願いを叶えたくて、少しずつ変わったのだ。髪も伸びた、自分で歩けるようにもなった。すべては、トラの最初の願いを叶えるために。 「トラ、ねえ、家族だよ。会ったことないでしょ……? 初めてでしょう…?」 ―ううん、俺はお父さんとお母さんがいるよ ―……あのね、オレ、お父さんとお母さんがいるって言ったけど ―見たことないの。いるって言われてるだけなの ―オレ……足りないから…… 「ありがとう、ウタウ、ありがとう、ありがとう……」 自分を探して見つけ出してくれた、初めて愛してくれた獣にずっとあげたいものがあった。そのために自分は生まれてきたんだと思えるくらい、大事なものだ。 *** 「これ、なに食べるんだろう…」 最初にウタウが持った疑問はそれだ。性質が自分に似ているなら水だし、トラなら乳が必要なのだろうか? トラが汚れた布を処分して、ウタウの外れた股関節をなんとかして元に戻してくれた。かなり痛かったが可動域が広がってだいぶ楽になったので助かった。 沸かした湯を冷まして、出てきた生き物を洗ってやると気持ち良さそうな顔をした。まだ目は明かないらしい。 とりあえず置いておく場所もないので、ウタウが抱えている。泣き叫んだりするかと内心怯えていたが、ときどきぴぃぴぃ言うだけで、それは穏やかだった。 「……どうしよう、ウタウ、どうしたらいい?」 最初は落ち着いていたトラのほうが戸惑って、さっきから尻尾で床を叩いている。ウタウは笑った。 「ねえ、もしこれが本当に、半分トラで半分俺だったとしたら」 「うん…」 「最強じゃない? 死ななくて、体が強いってとてもすごいこと。獣だからこんなに体が強いんだ…なにもあげてないのに、震えてもいない、あったかい……」 「あったかい?」 「うん。おいで、抱っこして」 トラは爪を隠して、そっとその生き物を抱いた。嬉しいんだか悲しいんだか、複雑な顔をしている。きっと大丈夫だ。やっていける。きっとなんとかなる。 「……死なないかは分からないけど、自分がなんなのか分からないまま生きるのはもどかしいから、ちゃんと伝えていこうね」 「……オレみたいに、足りなくても愛してくれる?」 「当たり前でしょ、命だから。大事だから」 ふにゅふにゅと、それは鳴いた。トラも泣いて、そっと顔を擦りつけた。 「シシでもトオルでもない、俺とトラの家族を作ろう。永遠じゃない家族を」 ぎゅっと、二人でその生き物を抱きしめた。なんだか分からない、もしかしたら一生かけてもその謎が解けることはないのかもしれない、大事な二人だけの生き物。命がここから始まる。 「このあとトラがどうやって死んでしまうのか分からないし、俺がどうなっていくのかも分からないけど、これに少しでも獣の血や、不死者の血が流れているならきっとなんとかなる。そうじゃなくても、なんとかしよう」 「ウタウ、あいしてる、この子も、あいしてる」 「俺も愛してる」 大丈夫だよ、大丈夫。 歌を歌おう、オレたちの家族の歌を歌おう。 二人の歌に、一つの小さな小さな声が重なった。

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