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第14話

冷たい雨が続いていた。 このまま長い冬が来るのではないかと、ふかふかのトラの胸元にぎゅっと抱きついて過ごしている。トオルの話を聞いてから半月ほど経ったが体調に変化はない。想像妊娠の線は消えたということだ。 「……んー? どうしたの」 毛皮に人差し指をずぶずぶと埋めていく。地肌の部分に触れると滑らかですべすべしている。トラは文字が読めないので、最近はウタウが百年の間で目にした本の中で絵が多いものを里から取り寄せてもらって、それを眺めている。シシは文字が読めたらしいから、個体差なのだろう。雨の日は外に出られないので、二人は本を眺めたり手芸をしたりして過ごす。それも、少し飽きてきた。 「トラ、は……」 「ん?」 「したくならない? 俺が体調悪いからって我慢してる?」 「んー……あのね」 トラは本をそっと寝台の上に置いた。しっかりと抱きしめられて、甘くて優しい声が降ってくる。 「オレとウタウがつながってるのは、楽しいけど、違いがあんまりないと思う」 「どういう意味?」 「えっと……」 トラは少し考え込んで、言葉を探した。 「えっと、オレの体の一部がウタウの体に刺さってるか、刺さってないかしか違いがないの」 「……うん」 「ウタウがいればうれしいから、刺さってても刺さってなくてもいい」 「そっか……」 無条件の愛に報える自分でいたいと思うのに、返せるものは肉欲しかない。それも絶対に必要なものではないと言う。どうしたらトラが幸せになれるのかウタウはずっと考えている。トラの幸せは、きっと今までの生活の中でなにか手がかりになるものがあるはずなのだ。トラ自身が言語化できないだけで、答えはどこかに転がっている。 「……大きな、風が吹いて、社はめちゃくちゃに壊れて……」 「ちっちゃい、髪の長い、可愛い不死者が寝てた」 二人で作っている、出会ってから今までの歌だ。音程も拍子も歌詞もいつも違うから完成は程遠いと思う。ウタウは歌を作りながら探すのだ。トラを幸せにする方法を。 ウタウは人間の使う文字が書けるから、詩を書き留めておくことはできる。けれどそれをトラが読み返せないなら意味がないと感じて、少しだけ書いてやめにした。 「可愛い、かわいい……すき、すき」 「そればっかり、嬉しいな……あっ」 「わあ、からんじゃった」 「どうしてかな、最近……すごくのびる」 歌うのをやめて、ウタウは縺れた自分の髪とトラの爪を解く。 「社にいたころは、腰より長くなることなかったよ。でもここに来てからすごく伸びてきた」 「そうだね……いま、どれくらいかな」 トラが起きあがって、ウタウの脇を掴んで高く掲げる。足が地面に着かないので二人はこれが好きだ。赤子を高く持ち上げるような姿勢になる。 「えっとね……足首よりちょっと上!」 「わー……ありがとう」 ぺたんと寝台の上に戻されて、流れる髪を見る。結ぶ習慣がなかったのでそのまま好き放題にしていたのだが、ここまでくると生活に不便かもしれない。 「……切ろうかな」 「だめ!」 「長いほうが好き?」 「ウタウの体がちょっとでもなくなっちゃうのがいや!」 両手を握って首をぶんぶん振る。なんて可愛い生き物なんだろう。 「…ありがとう、じゃあ結ぼうかな」 「紐を一緒に選ぼう! 靴を作るとき、布も糸も、紐もたくさん用意したんだ」 物置にしている隣の部屋に向かってトラが歩き出す。伸びをして、窓の向こうの暗い空を見る。雨が続いていて、少しおかしいなと思う。この時期はどちらかというと乾燥しているはずだし、届く野菜の種類が変わってきている気がするから人間にも無関係ということはないのだろう。雨を守るとされる獣の姿を思い浮かべる。 「ウタウ、なにいろが好き? オレは………あ、」 どさ、とシシが両手に持った箱を取り落とす。 「どうしたの?」 「……しし」 床いっぱいに、様々な色の紐や布が散った。 *** 「ああ、黙って行くことはできないね。お前が呼んだのかな」 「シシ!」 トラが体当たりをして強引に開けたトオルとシシの部屋には、正装したトオルとシシがいた。シシは座るトオルの膝に頭を乗せ、目を瞑っている。 「さようならじゃないよ。俺たちは永遠だから、いっときの別れだ」 「トオル、シシをどこに連れていくの」 ウタウを空いた椅子に座らせて、トラはシシに縋る。 「行かないで、仲間なんだ」 「お前の仲間だけど、俺の獣だから。不死の国で一緒に眠るよ」 「お願い、連れて行かないで……」 トオルがシシのたてがみを撫でる。 「トラ、分かるでしょう。お前を守って育ててくれたシシは今はどこにもいないんだよ」 「いやだ……いやだよ、シシ、シシ……」 シシの目が開いて、すり、とトラに顔を擦りつける。声を発することなく、またトオルに頭を向けてしまう。 「お前はもうひとりじゃないよ。ウタウがいるから大丈夫。二人でずっといられるよ」 少しだけ寂しそうにトオルは笑う。いても立ってもいられなくなったウタウはトラの背を撫でるために駆け寄った。 「トラ、見送ってあげよう? トオルとシシが決めたことだから」 「いやだ……ウタウ、いやだ」 ぎゅっと背中から抱きしめる。 「俺がそばにいるよ。二人がまた戻って来てくれる日を二人で待とう」 「ああ……さみしい、かなしい」 シシに縋って、トラは泣いた。 「ウタウ、トラのこと頼むね。しばらくはなにかあっても助けてあげられなくなるけど、大丈夫だよ」 トオルは微笑んだ。 「俺たちも長いこと二人っきりだった。いろんなことがあったけど、意外となんとかなるものだからね」 「ありがとう……ねえ、また会えるよね」 「うん、俺たちは永遠だから。いつかきっとお前たちにまた巡り合うよ」 ウタウは、腕の中いっぱいにトラを強く抱きしめた。 「トラ、シシにお別れ言って」 「どうしてそんなこと言うの、どうして……」 「これがトオルとシシの運命だから、最後はちゃんと伝えないとトラが悲しくなる。これからいつだって思い出して、ちゃんとシシにありがとうもさよならも言えなかったこと、後悔するから」 自分がもしトオルに感謝も別れも告げられなかったとしたら、きっと何度も苦しい気持ちになるだろう。トラとシシもきっとそうだ。 「シシ……? あのね、いやだよ……ありがとう、ううん、やっぱり嫌だ、行っちゃいやだ」 トラがシシのたてがみに頬をすり寄せると、くぐもった獣の声が聞こえた。 「……またな」 「シシ、シシ……ごめんね、ありがとう、またね」 トラが泣きやむのを待たず、トオルとシシは立ち上がった。続きの間、寝室の扉を開けると広がっていたのは闇だ。真っ暗な、光のない無限の世界がそこにある。 「不死の国……」 「……いつか、またね。トラ、ウタウ」 あまりにあっけなく、トオルは笑って扉を閉めた。不死者はつがいを連れて不死の国へ帰る。きっと長くここへは戻らない。 「ああ、ああ……」 二人っきり取り残された部屋で、トラは咆哮した。

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