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第1話

人間には男女の他にあと3種類の性がある。 その中でもΩと呼ばれる性はその特異な性質から、古来より蔑まれ軽んじてこられた。 生産性だけに特化したその性質は、社会に適合しづらかったためだ。 しかし抑制剤の開発や器具の発明により、その性質を抑えられるようになると、徐々にその古く忌まわしい風習も廃れ、現代においては特に意識されることもなく、常識とはかけ離れた知識としてのみ残っている。 β、いわゆる一般の男女の性を持つものは特に。 α、頂点に立ちΩを支配する立場の、Ωに遭遇する確率が高いαでさえ。 ただ本能に振り回されるΩのみが、ひっそりとその性質と戦っていた。 駅前にある並木が綺麗な公園は、近くの住宅街の憩いの場になっていた。 通勤時には公園をぐるりと回るコースより、公園を横断するコースを選ぶものも多い。 比良木も例外ではなく、駅へ向かう波のような人混みにいつもはいる。 今日は仕事の締め切りを夕方に控え、たまたま早く目覚めたこともあって、いつもより1時間早く家を出た。 薄っすら白い靄の中ではまだ誰も動き出していない。 そんな早朝の人気のない静かな公園で、比良木は一人、自らの震える体を抱き締めベンチに座り込んでいた。 青くなる顔色とは裏腹に頬は高揚し、吐く息も熱を持つ。 (う、そだろ⁈なんで) 自分の意思とは裏腹に、微かに身動きする服の摩擦でさえ敏感に拾い、性欲を掻き立てる。 発情期だ。 (まだ、全然先のはずじゃねーか) 若い頃は人並みに3ヶ月ごとに発情期が訪れていた。 しかし年を重ねるごとに、発情が軽くなり、周期は伸び、今では半年に一度軽めの発情が起こるのみだった。 発情周期が近づくとなんとなく本能でわかるため、その時に抑制剤を飲めば日常生活に支障なく暮らしていけた。 自分のΩとしての存在価値がなくなっている証拠だと思っていた。 βとの交配によりΩ同様、個体数が圧倒的に減少したαにほとんど遭遇しない。 ゆえにその性質が不要になっていると思われる。 圧倒的に数が少ないといえ、自分の周りにはΩとαがそれぞれ一人づついる。 けれどその二人が番であるため、比良木には全く分からず、相手のΩに指摘されて初めて知った。 ゆえにαでありながら、αでないその番の相手に触発されることもなく。 (なんで急に⁈) 思い当たることがあるとすれば、一つしかない。 最近出会ったαが一人だけいる。 毎日、満員電車で通いながらも同じ車両にαがいたことなど一度もない。 なのに取引先の営業にαがいた。 とんでもない確率だと、我ながら驚いた。 相手の性質を見抜けるのはΩのみ。 だから相手は自分がΩであることに気付いていない。 いや、αであることすら知らない可能性だってある。 実際知り合いの番のαはΩに会って教えられるまで、自分がαであることを知らなかったらしい。 (αの体臭に触発されたのかな) 他に理由がない。 なにせついこの間、発情期が来たばかりだ。 αに出会う、一ヶ月ほど前。 軽い発情を迎え、薬で難なく抑えた。 予定ではあと4ヶ月も先。 しかもこんな強い発情は十代、二十代前半以来だった。 (くそ、どうしよ) 全くの想定外のため薬も持ち合わせていない。 帰ろうにも足が震えて立てない。 声も出ない。 いや、出るのは出るが、変な別の声が出そうだ。 (事務所に、電話…) 仕事場であるデザイン事務所に電話をかければ、共同経営者である菅野が迎えに来てくれるはず。 ポケットのスマホを取り出したいけれど、腕をちょっと動かしただけで起こる摩擦が体を痺れさせた。 このままこうしていても、どうしようもない。 これだけ強い発情だと、自我をなくしかねない。 誰彼構わず襲いかかるのだけは避けたい。 (せめて人目につかないところに) 早朝の公園といえ、いつまでも人が来ないとは限らない。 「大丈夫ですか」 案の定、通りかかったらしい人に声をかけられた。 「だいじょ…」 とっさに返事をしようとして、比良木は慌てて鼻をつまんだ。 (やば、αだ!) αの強い体臭がふわりと香ってきた。 しかも今の声は…。 恐る恐る目だけをあげると、発情の原因とも呼べるαがいた。 「え、比良木さん?」 向こうも自分に気がついた。 名前を呼ばれ、さらに体が震えた。 ゾクゾクとした痺れが下半身に集まってくる。 (αて、声にもなんかあんのか) αの体臭というかフェロモンにΩへの催淫効果があるとは聞いていたが、声にも同じ効果があるとは聞いていない。 「比良木さん、大丈夫ですか?」 比良木に気付いたαが近付いてこようとする。 「く、来るな!」 思わず叫んでいた。 αに催淫効果があるのと同様に発情期のΩの体臭にもαに対して興奮作用が生まれる。 明らかにαに支配されるべく備わった性質。 近付けばΩの体臭に、αとしての自覚がなくても反応するはず。 そうすればその先の結果が見えている。 そんな風になし崩しな関係にはなりたくない。 淡い恋心を抱いた相手ならばなおのこと。 αだからなのか、一目見て惹かれてしまった。 彫りの深い端正な顔立ち。本人は濃いと笑っていたが、目鼻立ちがはっきりして整っているだけだ。 外見に違わず、はっきりとした意思と信念を持ち、少々強引に話をつけようともする。そのくせ、気配りが細やかで、比良木にも女じゃないんだからと言いたくなるぐらいの優しさを見せた。一緒に現場を回るときのドアの開閉はもちろん歩く時も車道側に自分が立ち、遅い比良木に歩幅も合わせてくれた。缶コーヒーを手渡す際には口を開けてくれたりと、些細な優しさに気付く度どきりとした。 何よりも惹きつけられたのが、笑顔だ。 真面目に仕事の話をしている真剣な顔はどきりとするほど男前なのに、笑うと幼く可愛くなる。 だが先日その仕事もひと段落してしまい、もう次の機会、それがいつかはわからなかったが、それまで会えないはずだった。 だから会えたことは嬉しい。 けれどこんなときじゃない方が良かった。 こんな、本能が色濃く支配するときじゃない方が、きっと…。 比良木の強い拒絶に面食らっていたαが、ただ事じゃない空気を察して足を踏み出して、止まった。 比良木は俯いたまま、靴先を見ていた。 「これ、…Ω?」 びくっと比良木の体が震えた。 知ってた。 知られてしまった。 「来るな」 別の意味で体が震えはじめた。 ぎゅっと目を閉じて靴音が去っていくのを待つ。 だが逆に靴音は一気に近づき、比良木の腕を取った。 「ひあっ」 体を触られる感触に思わず悲鳴のような声が上がった。 そのまま腰が抜け、ベンチからずり落ちた。 「あ、ごめん」 比良木の過敏な反応に面食らったように手を離しかけたが、またやんわりと腕を引いた。 「でもこのままじゃまずいでしょ。俺、車だから、送りますよ」 比良木は必死で首を振る。 「ほら、行きましょう」 「や、だ。ほ、っとけ」 行こう、やだ、をしばらく繰り返していると、腕を引く手が急に強まった。 ぐいっと引かれ腕を肩に回され、腰にもう片方の手が支えるために回された。 触れてきた体温とαの体臭に、頭がくらくらとした。 「ふぁ、や、だ」 変な声が漏れてしまう。 とっさに口を抑えるが、鼻から漏れる息は自分でもわかるぐらいに荒く、熱い。 ごくっとαの喉が上下するのを視線の端で見た。 Ωの体臭がαを煽っている。 それを痛感した一瞬だった。 その後から、今までの記憶はほとんどない。 乗せられた車内にはαの体臭が充満していて、5分も揺られていたら、理性と意識が飛んだ。 気付いたら見知らぬベッドで、裸のαに抱き締められ、その胸に擦り寄っていた。 身体中の不快感、気怠さ、内部とその入口の痛み。 どれもが何が起こったのか、恐れていたことが現実になったことを示していた。 何よりも自分の発情が収まっているのがその証拠だ。 αとの性行為が発情の発作を治める。 だがそれもいつまで持つかわからない。 今なら家に帰りつけるはずだ。 αの腕を起こさないように慎重に外して、痛む体を無理矢理起こす。 ベッドから両足を下ろして、ふと目に入ったものに苦笑した。 ゴミ箱の淵に辛うじて引っかかっているもの。 口を縛られたコンドームが、投げ込まれたのか幾つか見える。 Ωを知っていたから、妊娠の可能性に気付いたのか。 記憶も理性もなかった自分には到底配慮できなかったことに、気付いてもらえてホッとした。 もちろん今なら堕胎という選択肢もあるが。 改めてαを振り返ると、笑顔同様、ちょっと幼い顔で安らかに眠っている。 思わず口元が緩んでしまう。 同時に眉も寄った。 こんな再会じゃなかったら。 もっといい関係が築けたかもしれないのに。 記憶のないことが悔やまれる。 二度とないだろうから。 αとして本能に従ったまでだろうから。 自分はΩとしての本能より、おそらく感情が先だったから。 だから発情した。 αを煽ってしまった。 身支度を整えて、軽く行為の後片付けをして、比良木は眠るαにそっと口付けをした。 「ありがとう、大杉さん」 そして部屋を出た。

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