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淫花廓

私有地、と書かれた車一台の幅の、木々に囲まれた道を進むと、突如として赤い欄干が現れる。 さらさらと流れる小川の上にかかる、このゆるやかな山なりの橋。通称を、『戻り橋』という。 あの世とこの世を繋ぐ橋、として有名な一条戻り橋が由来なのだろうか。 誰が言い出したものかは知れなかったが、『戻り橋』と言えばこの橋のことだと、ここを訪れる者は皆わかっていた。 優美な赤い欄干を辿って、橋の向こうへ一歩でも入れば、そこは既に俗世ではない。   独特のルールと、治外法権がまかり通る現代の遊郭。   『淫花廓(いんかかく)』。   限られた人間だけが足を踏み入れることのできる、()の楼閣が佇む場所なのである。   『淫花廓』。   そこは、あらゆる意味で特別であった。   まず、この(くるわ)の客になること自体が、難しい。   社会的地位と、財産。そられを満たしていなければ、『戻り橋』を超えるどころか、この廓の場所すらも特定できないのだ。   さらに、紹介状を手に入れる必要があった。   すでに『淫花廓』の会員である人間を介し、紹介状を手にして初めて、客として扱われるのである。     『淫花廓』の敷地内は現代の法治国家にあるまじき、治外法権となっている。   ここには独特のルールがあり、客と(いえど)もそれに則って動かなければならない。   まず、『淫花廓』では電子機器の持ち込みは禁止されている。   携帯電話、スマートフォン、ノートパソコン、タブレットなどなど……そういった、外部との通信手段として用いられる類のものは、受付で回収される。   たとえ隠し持っていたとしても、この辺り一帯には妨害電波が通っており、使用はできないのだった。   さらに、男衆(おとこしゅう)、と呼ばれる能面をつけた屈強な男たちが遊郭の至る所に控えており、客は、『淫花廓』のオーナーか、もしくはこの男衆の言うことは必ず聞かなければならない、とされている。   いくら客やその相手がイエスと言ったとしても、男衆がノーと言えばすなわちそれはノーとして扱われる、というわけである。   この『淫花廓』には、二つの建物が中心に据えられている。   『しずい邸』と『ゆうずい邸』。間に2メートルほどの川を挟んで隣同士に立つその建物は、古い旅館のようでもあり、外壁の赤や緑の色遣いは、旅館ではあり得ないみだりがましい気配を濃厚に漂わせていた。   両邸にはそれぞれ、『淫花廓』で働く人間が暮らしている。すなわち、客に身を売っている人間、というわけである。   『淫花廓』最大の特徴は、そられすべてが男性である、ということだ。     『しずい邸』は、その名の通り雌蕊(めしべ)……雌の役割をする男娼が。   『ゆうずい邸』には、雄蕊(おしべ)……雄の役割をする男娼が。   各々、事情を抱えながらもここで働いているのだった。   その両邸から放射線状に石畳の渡り廊下が伸び、庭園や人工池などを挟みながら六角形の小さな建物が点在している。   蜂蜜色の屋根をしたそれは、蜂巣(ハチス)と呼ばれ、客が男娼とひと晩を共にするための場所であった。

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