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第1話

軽く息を止めて、ドアフォンに手を伸ばす。 いつ来ても、この瞬間は緊張する。 こうやってこの家を訪ねるようになってもう3ヶ月も経つのに、未だに慣れない。 本当に自分は招かれているのか、自信のなさが躊躇いを引き起こす。 ともすれば震える指を叱咤してインターフォンのボタンを押すと、軽やかな音が家の中に鳴り響くのが聞こえた。 しばらく待つが、人の出てくる気配はない。 (あれ? おかしいなあ) もう一度。 (・・・・・今日って言ってたよね?) 約束って、明日だったっけ? もしかして、僕の覚え間違い? いや、そんなことは、ないはず。 「今度の土曜日、映画に行こうよ」 怜雄にそう誘われた時、僕は当初あった予定をすっ飛ばしてそれに飛びついたんだから。 それは兄さんと二人で食事に出かけるという、いわゆる「家族デート」(デート・・・兄さんは言葉選びがいつもちょっとおかしいと思う)のことだったんだけど。 おかげで、今日出かける時も兄さんには散々文句を言われてしまった・・・あとでちゃんと埋め合わせしなきゃ。 (・・・出かけちゃったのかな?) なんだかがっかりして、僕は足元に視線を落とした。 今日新しくおろしたばかりのシューズがすこしむなしい。 怜雄は僕との約束なんて忘れちゃったのかもしれない。 楽しみにしてたのは、僕だけだったのかな・・・ (なんだろ、なんか僕バカみたいだ・・・) 悲しくなって、そのままくるりと踵を返す。 足を一歩踏み出したところで、ふと何かが引っかかった。 「・・・・・」 もう一度ドアに向かい、今度はドアノブに手を伸ばした。 招かれてもいない他人の家。 いつもの僕だったら、考えられない行動だと、自分で思った。 カチャリ。 「あっ・・・」 開いてる。 僕はびっくりして、そのまま固まってしまった。 まさか、開いてるなんて。 「・・・・」 (ど、どうしよう・・・) 恐る恐る、薄く開けたドアの隙間から中を覗いた。 「・・・れ、怜雄、いるの?」 玄関から見える廊下は薄暗くて、しんと静まり返っている。 (鍵もかけないで、無用心だよ) 足元を見ると、靴が二足並べられている。 黒い革靴と、有名なスポーツブランドのバッシュ。両方とも、怜雄のだ。 (・・・ってことはやっぱり、いるのかな?) 怜雄は一人暮しだ。 お父さんが仕事の都合でドイツに行ってるって言ってた。 だから、怜雄以外の人はいないはずだ。 「怜雄?」 声を大きくして再度呼びかけても、返事はない。 (どうしたんだろう?) ───近所に出かけてるのかもしれない。 (鍵をかけないで?) ───もしかして、何かあったのかな? 「・・・!」 倒れてるとか!? 「怜雄!!」 僕は靴を脱ぎ捨てて、ばたばたと、勝手知ったるリビングに駆け込んだ。 「怜雄、どこ!?」 無人のリビングをぐるりと見まわし、洗面所とバスルームを確認する。 (いない・・・) 僕の頭の中では、すでに怜雄は、真っ青な顔になって苦しそうに床に倒れ伏している。 リアルな想像に、僕は半分泣きながら二階に駈け上がった。 「怜雄!」 怜雄の部屋のドアを、ばたんと開け放す。 (怜雄・・・!) 「怜雄!!」 窓から差し込む日の光の中で、怜雄は床に倒れていた。 (うそ!!) 最悪の想像が確信に変わり、足ががくがく震えてくる。 そのまま僕も倒れそうになって、はっと我に返った。 (しっかりしろ!) 「怜雄! しっかりして!」 夢中でそばに駆け寄り、投げ出されていた体を揺すった。 手のひらに感じる温かさにほっとする。最悪の事態にはなっていない。 「───ん・・・」 その時、怜雄が低くうめいた。 「何!? 苦しいの!?」 「───祐樹?」 「うん、僕だよ!怜雄、気をしっかり持って!」 ぼろぼろ涙を流して、僕は怜雄の手をしっかり握り締めた。 「───すきだよ」 「!」 なんでこんな時に・・・まさか・・・まさか、遺言・・・!? 「ぼ、僕も好き! 大好きだから!怜雄!愛してる! だから、し、死なないで・・・」 「───ん、おいで・・・」 「えっ?」 握り締めた手を逆に握り返され、ぐいっとひっぱられる。 あっと思った時には、怜雄の腕の中に抱きこまれていた。 (な、なに・・・?) 訳がわからず、呆然と目の前の端正な顔を見つめる。 よくよく見ると、なんだか穏やかな顔をしている。 ぐーーーーー。 「・・・・」 ───あ、寝てる。 風船の空気が抜けたみたいに、ぷしゅうううって音がした。 怜雄の腕に抱きしめられたまま、僕は脱力していた。 「・・・寝てたの・・・」 つまり、僕は一人芝居をしてたのか。 (れ、怜雄が起きなくて良かった・・・) こんなとこを見られたら・・・半年はからかわれるにきまってる。 想像するだけで赤面してくる。 怜雄は決して嗤わないってことは分かってるけど。 (・・・それよりも) (怜雄が、ここに、いる) 「・・・よかった」 僕の勘違いで。 「よかった」 胸に耳を押しあてると、規則正しく血液の流れる音が聞こえる。 (生きてる) シャツに顔を押し付け、思いきり息を吸い込む。 (怜雄の、匂い) (いい、匂い) 「よかった」 このぬくもりが消えないで。 安堵感に、心の中が、ぽかぽかと暖かくなる。 そっと顔を上げると、人形のような顔が無防備にさらされている。 (・・・綺麗だなあ) 陶磁器のような肌は透き通るような白で、窓から入り込む日差しに照らされて輝くようだ。 深い漆黒の髪は緑がかかってどこかミステリアスで、反射した光が天使の輪をのせている。 ただ、湖の底を思わせるどこか危うい眸が隠れているのは惜しいけど。 でも。 起きている時は、こんなにまともに見られないもの。 しかもこんな至近距離で。 「・・・なんだか、ラッキー、かな?」 じっと見つめていると、長い睫毛に縁取られた瞼がぴくりと動いた。 「あ」 (夢を見てるのかな?) 僕は思わず手を伸ばして、怜雄の頬に触れた。 (暖かい・・・) 怜雄はくすぐったそうに体を揺らして、そして僕を抱きなおした。 「あ」 顔が。 触れる。 ───吐息が 誘われるように、僕はその唇にキスをした。 ねえ、怜雄。 君は今、どんな夢を見てるんだろう? そこに、僕は出てくるのかな? こうしていようかな。 このままで。 ずっと。 怜雄が起きるまで。 「怜雄」 照れちゃって、いつもなかなか言えないけど。 「君が、好きだよ」

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