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エピローグ(3)
そしてきっと、そこには父の願望が多分に関与したのだ。
生きているのが悠人であってほしい。
死んだのが綾人であってほしい。
そう願ったに違いない父を、綾人は責める気にはなれなかった。
母が生きていたら、意識不明の自分と悠人の遺体を見分けることができただろうか。
母が亡くなった中学生のとき、抱きあって泣いた悠人はもういない。
父が自分の死を望んだであろうことより、綾人にはそちらの方がよほど悲しかった。
あの時、トラックのヘッドライトに照らされた悠人は、綾人の方に手を伸ばした。驚きで見開いた弟の目。悠人には、綾人の背後に迫るトラックが見えていたに違いない。
あの手はきっと、兄を救おうと伸ばしたものだ。
綾人にはそう思えてならない。
本当のことなど、もう誰にも分らないけれど……
悠人は自分を赦してくれていたのだろうか。もしもちゃんと兄と名乗って会っていたら、話ができたのだろうか……?
綾人はずっと考えていた。
自分はこのまま悠人として生きることができるだろうか。
父がどんなに落胆するだろうかと考えると、真実を告げるよりは、生まれ変わったつもりで悠人の人生を生きるほうがいいように思えた。
誰かが名木佐を継がなければいけない。悠人が亡くなった今、その誰かは自分しかいないのだから。
悠人になれば、和臣とともに生きることはできない。でも、ちゃんとお別れはしたんだ。夢のような、奇跡のような方法で。彼を密かに想いながら、幸せを願いながら、愛された記憶を抱いて、生きていけるだろうか。
父が望むなら、女性と結婚することも、たぶんできる。恋はできなくても、家族として愛することはきっとできる。
花嫁衣裳の姉の姿を思い出す。とてもきれいだった。幸せそうではなかったけれど、とてもきれいだった。
しかし、綾人の逡巡を打破したのもその姉だった。
忙しい合間を縫い、綾人の意識が戻って二日目に見舞いに来た時佳は、少し顔の包帯が取れた綾人を一目見て目を見開いた。
ぐいっと厳しい顔を近づけたかと思うと、綾人の耳の後ろや足の爪など、包帯で隠れていない場所をいくつか素早く確認し、まっすぐに綾人の顔を見つめた。
目尻を切開して少しつりあげた綾人の目は、時佳にとって初めて見るもののはずなのに、その目つきが悠人のものでないことにはすぐに気づいたという。
「かわいそうに。…… 言えなかったんだね。」
そう言って綾人の頬を両手で包んだ姉の目は潤んでいた。
綾人は泣いた。自分の存在を認め、分かってくれる人がいることが、こんなにも安心するものとは知らなかった。
綾人は姉にひとつだけ頼みごとをした。
携帯の番号も覚えていないけど、きっと説明が難しいと思うけど、連絡してほしい人がいるんだ――
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