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第1話 -1

 カイは腹を空かせていた。 「食うもんねえな……」  眼鏡越しに見える小さい冷蔵庫の中には缶チューハイが数本といつ買ったのか分からないドレッシングや梅干しがぽつりぽつりとあるだけ。小さいとはいえスカスカのそこへ手を伸ばし慰み程度に梅干しを一粒口に含み顔を顰めた。酸っぱい。  いつも買い貯めているカップ麺は切らしている。米はあるから炊けばおにぎり位ならつくれるが米を研ぐのも炊けるのを待つのも億劫だ。ならば徒歩三分のコンビニまで足を運んだ方がましというもの。 (よし、出掛けよう)  それまでやっていたゲームをセーブし部屋着のままコートを羽織る。季節は冬を終えようとしているが薄着で外を出られるのはもう少し先だ。扉を開ければぴゅうと冷たい風が吹き込んで来る。 「う、わっ」  けれど扉を開けたカイは冷たい風に目を細めるどころか大きく見開き背後の閉じ掛けた扉にドンと背中をぶつけた。  びっくりした。すごく、びっくりした。  紺色の帽子にハーフパンツの制服。くりっくりの大きな瞳。  カイの足元で、小さな少年が黒目がちな目を自分に向けて突っ立っていた。 「にーちゃん、だれ?」 「は?」  それはこちらの台詞だ。  当然知らない見た事もない子供だ。カイは狼狽えきょろきょろと周りを見るが親らしき人物は見当たらない。 「あ、えっと、君は」 「ヒカル」 「え?」  唐突に単語を示されカイは困惑した。少年は少しむっとして再び小さな口を開く。 「おれのなまえ、ヒカル。にーちゃんは?」 「……カイ、です」  ああとやっと納得して答えると、ヒカルと名乗った少年は「カイ」と子供らしい拙さで復唱した。  けれど自己紹介なんてしている場合ではない。  カイは人見知りの上に子供が苦手だった。一刻も早くこの状況を何とかして部屋の中に籠りたいのに保護者も警官もいない。関わっていなかったら見て見ぬ振りをしていたところだが、自分の部屋の前に立たれ声を掛けられては無視も出来ない。  どうしよう。  けれど聞いてみると、それは案外呆気なく解決される。どうやらヒカルは家を間違えたらしく近所の子供のようだ。首からぶら下げていた鍵はカイの部屋のものと同じ型で、同じアパートではないかと推測された。 「えーと、住所書いた紙とか貰ってない?」 「じゅーしょ? あるよ」  あるんじゃないか。  ほっと安堵してお守りのような小さい袋の中から出てきた紙を見るとそれは隣の棟の同じ一階の部屋で、近い線までいっていたんだなと内心苦笑する。  ピンポン、とインターフォンを押ししばし待つ。他人と顔を合わせたり話をするのが苦手なカイにとってこの行動すら身体が重く、ブザーを押すのもとてつもなく緊張した。 けれど反応はなく、緊張を続けているカイの横でヒカルは短い腕を伸ばしガチャリと鍵を開ける。 「とーちゃんいないよ? まだしごとだもん」  ばたばたと部屋の中に入るヒカルを呆然としながら目で追っていると、家に帰したのだからもう自分の任務は完了したのではないかと気づいた。 (やった、帰ろう)  どうやら親は留守のようだがもう十分だろうと踵を返し掛けたその時、ぐいと裾を引っ張られた。 「カイ、なにしてんの。はやくはいれよ」  ぐいぐいと強引に裾を引かれ、その容赦のなさに訳が分からないまま引き摺られるようにして部屋の中へと足を踏み入れた。  知らない匂い。冷たくて余所余所しい、他人の家の匂い。  カイはこの瞬間が苦手だ。自分がどこにいるのか分からなくなりそうで、無性に寂しくなる。  同じ系列のアパートとは言ってもこことカイの部屋とでは敷地面積も内装も大分異なる。カイの部屋はいかにも一人暮らしの大学生が住んでいそうなワンルー ムタイプのものだが、この部屋はそれより少し広く部屋も複数あるようだ。流しに食器が放り込まれたままのキッチンを横目に居間に向かうと、その異様な部屋 に目を見張らせた。  テレビやテーブル、ソファが置かれているという点では至って普通だが問題はサイズだ。例外なくすべて大きい上に重量感のある革張りのソファが広いテーブルを囲っている。目利きに不安のあるカイでもそれらが上質なものであろう事は容易に察しがついた。  ここが高級マンションであったならこの家具達も空間に馴染んでいただろうが所詮はアパートだ。一人暮らし向けのコンパクトなものだったらゆとりも出来て丁度良いだろうに、どかんどかんと大きな家具が占領してはバランスが悪い。折角の高級家具も台無しだ。  加えて幼児用の遊び道具が散乱しているのだからカオス以外の何物でもない。ついでにヒカルが脱ぎ飛ばしたばかりの帽子も転がっている。 (これは酷い)  家具家電には拘るのに部屋づくりのセンスが皆無だ。カイも人の事は言えないがカイの場合拘って買ったのはパソコン位なもので後は安物でも使えれば何でもいい人間だ。  はあ、とカイが半ば呆れながら部屋の中を見渡しているとカイから離れたヒカルはソファの近くにある棚に近づいていた。その棚も本や植物をお洒落に配置するデザイン性に富んだスタイリッシュなつくりなのだが、やはり狭っ苦しく棚の前には人一人通る程のスペースしかない。  ヒカルはその狭いスペースにちょこんと収まり何やら肩から下げていた通園バッグの中を漁っている。  何してるんだろう。  する事もないしとヒカルの行動を見守る。ヒカルが取り出したのは二つ折りのパスケースのようなものだった。ヒカルはそれを一番近い棚の上に置くと、突然パンパンと両手を叩いて手を合わせる。 (あ)  パスケースの内側。写真が入っている。目を凝らして見えたその女性は恐らくヒカルの母親だろう。顔にヒカルの面影が見える。  ヒカルは祈るように目を瞑って小さな手を合わせていた。 (もしかして、この子)  こういう時は叩かないんだとか教えた方が良いのかもしれないと思ったが、動揺が勝って言葉が出てこなかった。 (母親はどうしたとか、言わなくて良かった)  ただの思い違いかもしれない。けれどもし本当に『そう』なら、無神経にもこの子を傷つける事になる。

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