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第10話 -2 [完]

 駅を出ようと歩いていると、ふと遠くから龍崎の名を呼ぶ声が聞こえた。  声のする方を見ると、スーツにコートを羽織った姿が決まっている龍崎と同じ位か年下と思しき栗毛の男が近づいて来る。 「秋澤じゃないか」 「やあ、偶然だねぇ」  二人は砕けた様子でお互い手を上げて合図し、親しげに言葉を交わしている。  龍崎が秋澤と呼ぶその男と視線が合うと、にこりと微笑まれ軽く会釈する。 「カイ君、紹介するよ。彼は僕の大学の同期の秋澤。彼の経営しているバーはちょっと特殊なんだけどお店の感じは良いし何よりカクテルがとても美味しいんだ。今度連れて行ってあげるね」 「初めまして、カイ君? 秋澤と申します。随分若い子のようだけど、龍崎とは一体どんな関係なのかな」  手を差し出され緊張しながら握手を交わす。香水だろうか、大人っぽい良い匂いがした。 「初めまして、美波カイです。龍崎さんとは家が近いので、それで」 「ほら、息子預かってるって言っただろ? 今送ったところだったんだけどね、カイ君がよく面倒看てくれてたんだよ」  龍崎の口添えを頷きながら聞いていた秋澤が、ああ!とぱかっと目を見開いて拳を打つ。 「前に言ってた子かぁ! ああ、うん成程。確かに君が好みそうなタイプだね」 「分かるかい?」  意思疎通し盛り上がる二人を前にして一人置いてけぼりを食らっているカイは自分の事を言われているだけに会話の内容が気になるものの口を挟めず閉口する。  結局よく分からないまま秋澤と別れ、アパートへ戻る為に立体駐車場に停めてある龍崎の車に乗りシートベルトを締める。  音楽もラジオもついていない静かな狭い空間に二人きりというのがこそばゆくて、何か話さないとと言葉を探した。 「あの、龍崎さんは恋人つくらないんですか?」  自分の傷に塩を塗り込めそうだがずっと気になっていた事だ。  龍崎はきっと会社でもモテるだろう。バツイチとはいえずっと一人で暮らしていたのなら尚更彼に好意を寄せる女の一人や二人、狙われていても何も不思議はない。 「今はいないけど、前はそういう付き合いのある女性もいたよ。けどいつも長く続かなくてね。恋人って始まってしまったら必ず終わりがあるだろ? 僕は結婚も上手くいかなかったし、そういうのが少し悲しくてね。大切なものは大事にしないとすぐに失ってしまう」  龍崎は話しながらエンジンを入れアクセルを踏む。前へ滑り出した車体は緩やかに薄暗い駐車場の中をぐるぐると回りながら下りていく。 「本当に欲しいものには慎重にならないといけないって気づいたんだ。別れずずっと近くに繋ぎとめておくにはどうしたら良いだろうって考えたら、恋人という形を取らないという選択肢が出てきた」 「それ……相手が別の人を好きになってしまう可能性もあるって事ですか?」  龍崎の考えは斬新だが、それはつまり友人でいるという事だ。友人には相手の気持ちを束縛する事は出来ない。 「そうだね。勿論、最終的には恋人にするつもりだよ。心も身体も、たっぷり愛してあげたいもの」  その声の甘さにカイは胸が苦しくなる。  思い出されるのは龍崎との情事。溶けてしまいそうな程心地良く心身を奪われるあれに龍崎の心も伴ったらどうなってしまうのか。  そんな浅はかな事を考えてしまった自分が滑稽で、そっと唇を噛む。 「大切にしたいんだよ。どろどろに甘やかして、閉じ込めて、僕なしでは生きられないような身体にしてしまいたい」  飢えたように目を細めか細く呟く龍崎の雄の顔にぞくりとする。  車は三階から二階へ下っていく。混んでいるのか、前方に車が見え龍崎の車は停車した。 「なんてね」  冗談だよ、と言って龍崎は微笑む。 「以前読んだ本の主人公がそんな事を言ってたんだ」  その柔らかい表情にほっと胸を撫で下ろす。  龍崎の恋愛遍歴の上澄みを聞いていると、結局のところ龍崎は恋人にあまり執着がなく相手が別れたいと言えばじゃあそうしようと言ってしまえるような人間に思えた。  だからその言葉が龍崎のものだとしたら驚かされる。 (俺は誰かをそんな風に考えた事ないな。でも、それ程までに愛されたらきっとそれはとても幸せな事だ)  そう思うのに、また一方で不安に駆られる。  何故だか、それは少し怖い事のような気がした。  大きすぎる愛に押し潰されそうで、逃げ出したくなるんじゃないだろうか。  怖くなってしまうんじゃないだろうか。 「その本のタイトルは?」 「何だったかな。随分前に読んだ話だからうろ覚えで」  そうですか、と言って前を向き、あれと思う。  一体どこから別の話だったのだろう。 「待ってるからね」 「え?」  前の車が進み龍崎もブレーキを緩める。車はついに出口のある一階へとターンしながら下りていく。少しずつ、ブレーキを効かせながら。  近くの黄色いランプがくるくると点滅しながら回る。ブザー音が響いた。 「ゆっくり落ちておいで」  囁くように呟かれた龍崎の声はブザー音に掻き消される。  音が止み、次第に辺りが明るくなる。ゲートへと滑り出た車はバーの前で停車した。 「すみません、今何て?」 「大した事じゃないよ。もうすぐお昼だし、どこか寄ってから帰ろうか」  バーが上がり明るい陽の下に出る。目を上げるとそこは丁度高い建物がなくぽっかりと空いていて、雲一つない澄み渡った青色にカイは目を細めた。 (あ、桜……)  空から少し視線を下げると、咲き掛けの桜の木がずらりと並んでいる。大学の授業が再開するのももうすぐだ。 「桜だね」  どきりとしてぱっと龍崎を見ると、一瞬だけ視線をこちらへ向けた龍崎は柔らかく微笑んだ。 「もう少しして満開になったらお花見に行こう」  息が詰まって思わず顔を背ける。 「はい」  龍崎は実現させる気のない社交辞令は恐らく言わない人だ。これまでがそうだったし、さっき話していたバーへもきっと本当に連れて行ってくれようとしている。 (参ったな)  顔が火照る。 (まだ当分この人を忘れられそうにない)  窓の外では春風が木々を揺らし瑞々しい緑が彩りを添える。  麗らかな春がやって来た。  Ignorance is bliss.(知らぬが仏)  了

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