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第10話 -1
晃が男泣きをしている。
そしてカイにしがみ付いている。
「ほら晃、行くよ」
「ガイイイイ。ぜっだいもどっでぐるがらあああ」
「やめる? 残る?」
「のごらないいいいい」
おいおいと泣く晃をスーツ姿の女が抱き上げ、良しとあやす。
「父より惚れた男か。叫ばれるのが自分の名前じゃなくて残念ね龍崎」
「惚れっぽいのは君譲りでしょ。きっと落ち着けば向こうで別の好きな子が出来るよ」
それもそうね、と女の視線が龍崎からカイへと向けられる。どきりとしてぴっと背筋を伸ばす。
「カイ君って言ったわね。うちの晃が沢山お世話になったみたいでありがとう。お蔭で晃も随分楽しく過ごせたようだし良かったわ」
「い、いえこちらこそ」
ぺこりと頭を下げると女はうふふと微笑む。
「よし、行くぞ晃」
「まだねえええええガイイイイイとーちゃああああ」
「元気でな、晃」
ぶんぶんと手を振る晃に貰い泣き気味のカイも手を振り返す。
龍崎と二人手を振って、新幹線の改札を抜けていく二人が見えなくなるまでそこに立っていた。
「龍崎さん」
「何? カイ君」
晃のいない改札の向こうを見つめたまま口を開く。
「晃のお母さん、本当に生きてたんですね」
「本当に生きてるね」
はああ、と項垂れ深く溜息を吐く。
隣では龍崎が笑いを堪えて肩を震わせている。
「ま、元気出してよ。ふふっ」
「めっちゃ笑ってんじゃないですか!」
だって、と言って龍崎は腹を抱えて手で押さえた口から笑いを咬み殺せていない。
晃の母、そして龍崎の元妻は健在だった。しかも晃は『龍崎』ではなく母の姓であり、カイが何度も足を運んだあのアパートの部屋も龍崎達がずっと住んでいた場所ではなかった。
何だかんだ馬が合わず離婚したものの友人関係は続いていて、仕事の都合でどうしても面倒が看られないからと龍崎に晃を託されたのが二か月前。因みに彼女の母はぎっくり腰で恋人も別れて今はいないだとか。他に頼れる人がいなかったらしい。
当時別のマンションに住んでいた龍崎は晃の通う幼稚園の送迎区間内に期間限定の住まいとしてあのアパートを選んだ。ただ送迎地点の目の前だったからという理由で。
そんな訳でマンションで使っていた馴染みの家具を何も考えず最低限アパートに突っ込んだらあんなに不格好な部屋になったという訳だ。カイはそれを聞いてやっと合点が行った。
「奥さん、写真通り綺麗な人ですね」
「元ね。彼女ちょっと変な人だけどねー。男はやっぱ駄目だって言い捨てて女に走るところとか、妥協でやって来てすごく嫌そうな顔して晃預けるところとか面白いよね」
へえ、と相槌を打ちそうになって止まる。聞き捨てならない事をさらっと聞いたような気がした。
カイが勘違いした原因である晃が母親の写真の前でお祈りをするあれはどうやら母親に言いつけられていた習慣らしい。母親が傍にいなくても寂しくないように、との事だがお蔭で余計な気を遣ってここまで勘違いし続けてしまった。
そんな彼女は客室乗務員の仕事をしていて、これから晃と共に海外へ引っ越すのだそうだ。晃との別れは名残惜しいが、帰って来るからと言っていた晃の言葉通りいつか大きくなった晃に会えたらと思うと楽しみだ。
「さて、帰ったら荷造りしないと」
「手伝いましょうか。役に立つか分かりませんけど」
助かるよ、と言って龍崎に背中を叩かれる。
晃は帰って行った。龍崎ももうあそこにいる理由はない。
「前のマンションに戻るんですよね。結構遠いんでしたっけ」
「そう。寂しい?」
彼らと関わる事で人生が変わった、なんて言うと大げさに聞こえるがカイにとっては言葉のまま。心なしか以前よりも視界がくっきりと澄んで――見えない事もない。
「寂しいです」
口元を緩め、苦笑いにしか見えない顔で微笑む。
(でも良い機会だ。今離れないときっとずるずる引き摺ってしまう)
何も会えない程遠くへ行く訳ではない。メールや電話だってある。
けれどこれまでの付き合いは近所だったから成り立っていたようなもので、しかもその引き金である晃ももういない。
もうどちらかの部屋に気軽に集まる事はないのだ。離れるのはきっと簡単で、繋ぎとめておく方が難しい。
辛いのは最初だけだ。
きっと傷も浅く済むだろう。
「龍崎さん、今までありがとうございました」
龍崎に向き直り、深く頭を下げる。
いざ別れの言葉を口にすると現実味が増した。ああ、もう本当にさよならなんだと実感する。
「僕の方こそありがとう、カイ君」
ぎゅっと両手を握られ、目の奥がじんと熱くなった。
(大丈夫)
また戻るだけだ。一人は慣れてる。
それに自分も頑張ろうと思って、今度父の家に行くつもりだ。さゆりから、あの人も待っているからたまには帰っておいでと連絡があった。
落ち着いて客観的に見られる今だからこそ思う事だが、父も父で少なからず自分を気に掛けてくれているのかもしれない。二人暮らしの時だって二人で家事を分担して生活してきたのだ。大学にだって行かせてくれた。
閉じ籠ってばかりいないで自分から踏み出さないといけない。
それでも、それ程自分を変えてくれた人だからきっと暫くは忘れられないだろう。
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