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第4話

「ハリエット様、何か大きな物音がいたしましたが、いかがなさいましたか」 「あの鐘の音、何かだんだん大きくなってないか?いかな寛容な私でもそろそろ堪忍袋の尾が切れるというヤツだぞ」  いつもと同じ、早朝のことだった。無視をされるのを見越したうえで言った言葉に、けれど小窓の向こうにいる人物は言葉を返して見せた。おいたわしや、と。 「……ん?お前今なにかしゃべったか?」 「はい、申しました。私が騎士団に所属していた時分にも、あの鐘の音は確かに不評でした。朝の修練のために団員たちを起こさなければならないのは事実なのですが、王宮の兵舎には夜警を担当するものも寝泊まりしております。その者たちにしてみれば、寝入ったばかりの時刻ですから」 「……お前、私の召使よな?」 「はい、左様にございます、ハリエット様。二日前に着任いたしました、エルトリア・バロンと申します。貴方に話しかけていただけるのを、今か今かと待ち望んでおりました」  恐る恐る小窓の外を覗いてみれば、鉄格子の向こうにずいぶんと背の高そうな大人の男が見えた。日焼けした肌に、きれいに整えられた顎ひげと口ひげ、後ろに撫で付けられた長めの茶色の髪。絵本に出てくる精悍な騎士のような風貌だが、浮かべている笑みは召使らしく柔和だ。  状況が飲み込めず眉を寄せているハリエットに、バロンはウインクして「私は、貴方のファンです」と(のたま)った。  さらに、芝居がかった仕草で上着の内側から赤い薔薇と封筒を取り出すと、小窓からハリエットに差し出してくる。ほかに並ぶもののないほど美麗で、香り高く、しかし同時に鋭い棘をもっている、これほど貴方に相応しい花はないでしょう、とか言いながら。 「……その封筒はなんだ。手紙とかいうやつか?」 「ええ、ファンレターですハリエット様。ラブレターと解釈してくださってもいい」 「……らぶれたー??」  らぶれたーとは何だ。ハリエットが聞くと、男は鳶色の瞳をたわませて『貴方はまだとても無垢なのですね』と言った。 「貴方を誰よりも尊く思うものが書いた、貴方への愛の手紙です」  男は片手を胸にあて、深く(こうべ)を垂れてみせる。  それが、ハリエットと風変わりな召使との出会いだった。     ◇◆ 「で、これをいつまで続けるんだ……?」 「私が満足するまでに決まっているだろうが」  言いながら、ハリエットはシナンの胴に回した両腕に少しだけ力をこめた。暖炉の前、シナンを半ば押し倒すようにして、ハリエットはぎゅうと彼に抱きついている。  はじめはいつも通り、手のひらを握ってもらっていたのだが、久々に対面した今日はどうにもそれだけでは満足できなかった。  手のひらというのは身体のうちのほんの小さな一部位に過ぎず、つまり接地面が少なすぎるために満足感も得られづらいのではないか。そう考えたハリエットは、いっそ上半身すべてをくっつけるようにしてシナンに抱きついてみたのだった。  これはなかなかに良い、とハリエットは思う。シナンがこの場にいるという事実を全身でもって実感できるし、彼の匂いも感じられる。  むき出しの肌同士がふれ合う箇所がほとんどないのがすこし残念だが――しかしこの体勢で裸の接地面を増やすというのは、なんとなくやってはいけないことのような気がしている。何だか、それは、ものすごく破廉恥な行いのように思えるのだ。破廉恥とはいかなる状態であるのか、具体的なことをハリエットはよく知らないのだけれど。 「……おい、お前なんだか顔が赤いぞ」 「あっ、赤くなどないわ。シナンこそ、さっきから耳までまっ赤だぞ」  お前がむやみやたらにくっつくからだろ。ぶつぶつ言いながら、しかしシナンは特に抵抗はしなかった。はじめはひどく戸惑った様子だったものの、今ではすべてを諦めたかのようにぐったりしている。  再会してまず、シナンはハリエットに何も告げずに旅行に出かけてしまったことを詫びた。  南方の国――ユスライの王子は(うろ)を持つためにかつて魔術士長のもとで修行していたことがあり、その縁でシナンの母親とも知古であるため、比較的気軽に国と国とを行き来するような間柄なのだと言う。  しかし今回は、それでもいささか唐突な訪問ではあったらしい。母親に言われるまま、昆虫採集の道具もまともに用意できないほど突然に出かけることになったのだとシナンは言っていた。  姫君については、シナンはあまり多くを知らない様子だった。エルレティーナは魔術士長の弟子である王子の長子であり、シナンより三つ年上であり、午後のお茶に正気とは思えないほど長時間を費やすらしい。それ以外は、好きな食べ物も、趣味も知らないと言っていた。  その午後のお茶に招待されたさい、舌が腐って落ちそうなくらいに甘いお菓子を振る舞われたそうで、シナンはそれを土産に持って帰ってきてくれた。一口食べて、ハリエットが好きそうだと思ったのだという。  その言い草がなんとなく不敬だったが、しかし彼の言うとおりハリエットにとっては素晴らしく美味しいお菓子だった。てかてかした赤色の、ココナツの砂糖漬けである。  ちょうどシナンの胸あたりにハリエットの頭が置かれているためか、シナンは先ほどから手持ち無沙汰そうにハリエットの髪を弄ってくる。髪をすくように動く彼の手が、とてつもなく心地よかった。 「……きれいだな」 「……ん?なにがだ?」 「お前の髪だ。はちみつでしつらえた糸のようだな。透き通って、金色で、とてもきれいだ」 「な、なんだと?」  私の髪がか。思わず顔をあげて聞くと、シナンは不思議そうにそう言っているが、と答える。  美しい、きれい。そういった類いの誉め言葉に、よく考えてみればハリエットは全くもって慣れていなかった。偉大だとも、希少で(たっと)いものだとも、宝玉のようだとも言われて育ってきたが、それらは別にハリエットの容姿を褒め称えるための言葉ではなかったのである。  自分が――あるいはその身体の一部位が、美しいとか美しくないとか、ハリエットはほとんど考えたこともなかった。実を言えば、ハリエットは自分の顔をよく見たことすらもない。  ハリエットの部屋には鏡は一枚もないし、姿が映りこむような大きな窓もないのである。たらいに汲んだ水の表面に、不鮮明にゆらゆらと自分の姿が映ることはあるが、それも別にまじまじと見ることはない。  誉められるのには慣れているし、女王蜂であるからには賛辞の言葉を投げかけられるのはごく当然のことだと思ってきた。  なのに、おのれですら知りもない見た目についてどうこう言われることは、なぜか体がむずむずするくらい恥ずかしい。  同時に、きれいだとかきれいでないとかの話になると、やはりまず例の姫君を思い出してしまう。美しい姫と友人になってきたばかりのシナンにそういったことを言われると、なぜか比較されているような気がして落ち着かなかった。  ハリエットは女王蜂とはいえ男だし、ひらひらした格好の姫君たちとは何もかもが違う。ドレスなど身につけたことはないし、宝石で身体を飾ることもない。だから同じ土俵に並べること自体おかしなことだと思うのに、知らぬうちにシナンの言葉全てを美しい姫君に結びつけてしまう自分がいる。 「……で、どうだったのだ。その姫君とかいうのは、とても美しい女だったのだろう」 「エルレティーナ様のことか?……確かに母上は、大陸一の美姫だとか言っていたな」 「た、大陸一美しいのか!?」 「いや、確かに美しい方ではあったが、大陸一かどうかは知らん」 「ふうん……でもやはり美人だったのではないか。良かったなあ、そんな美しい姫と友人になれて」  額をシナンのみぞおちにぐりぐりとめり込ませながら言ってみる。シナンは控えめにハリエットの額を押し返しながら、なぜかひどくつまらなそうに言った。   「別に……俺は大人たちが決めたことにただ黙って従っただけの話だ。良いも悪いも特にない。エルレティーナ様にしたって同じようなものだろ」 「……だが、お前と私だって魔術士長に『友人になるように』と言われて引き合わされたのだぞ。姫とお前の関係とあまり違いはないではないか。私とのことだって、良いも悪いもないと思うのか?」 「……お前とユスライの姫の件とは、全く別の話だ。確かにお祖父様に連れてこられたのがきっかけだが、今は俺は俺の意思でここに訪れている」  お前に会うために。何ということもない様子でシナンは言う。ハリエットは、その言葉にひどくどきどきしていた。至って平然とした様子のシナンが、すこしばかり憎らしくなるほどだった。  ハリエットは偉大なる女王蜂であるので、シナンのように自らの意思でぜひにも会いたいと望むものがいたとしてもそれはごく当然のことである――そんなふうに気高く開き直るべきだと思うのに、心臓がまったく制御もできないような動き方をしている。 「そ、そそ、そうか……そうだったのか……」 「ああ。……なあ、お前は美しい姫に興味があるのか?」 「……は?い、いや、私が興味があるというより、お前が……」 「俺がなんだ?」 「い、いや、なんでもない。美しい姫というものは、おとぎ話の中では何より価値があり、重要なもののように扱われているし……私も正直、興味はあるぞ」 「……お前もいつか勇敢な騎士になって、その褒章に美しい姫を娶りたいと思ったりするのか?」  頭の上で動いていた手がぴたりと止まる。くつろいだ様子だったシナンの声色が、なぜか少しこわばったように思えた。 「……?おかしなことを言うな。私は女王蜂であって、騎士ではないし、騎士になどなり得ないだろう」 「……そうか、お前はそういうやつだったな」 「どういう意味だ?」 「いや……俺は、ユスライの姫よりも、瞳の色もその金髪も、お前のほうが美しいと思うだけだ」 「……は、はあ!?」  思わず、再びがばりと起き上がってシナンの顔を見る。シナンはハリエットと目があった途端、ふいと顔を背けた。相変わらず、顔はまだ少し赤いままだ。 「お、おおお、お前、一体今日はどうしたのだ!やたらと美しいとか、きれいとか。わ、私が中身のすかすかな姫君どもより美しいなど、あるわけがないだろうが!」 「……中身がすかすか?別に、俺は事実と思うことを口にしただけのことだ。お前の金髪は美しいし、その赤色の瞳も宝石のようできれいだ」  そらしていた目を一転ハリエットにまっすぐ向け、シナンが言う。今度はハリエットが目をそらす番だった。 「あ、頭がおかしくなったのではないか?私は、美人とか、姫君とか……そういった種類の生き物ではない。私は……」 「お前は……なんだ?」 「私は、『女王蜂』だ」 「……美しい姫は幸福の象徴、王子はか弱き者に富と権力をもたらし、騎士は常に勇ましく清く正しい。魔王は魔王であるというだけで悪で、勇者は必ず魔王を滅ぼす。現実も、そんなふうにあるべきだと思うか?」 「……何を言っている?」 「別に。おとぎ話どおりのものなんて、現実には一つもないと思うだけだ。肩書や役割と、それを与えられた者が一体どんな人間であるのかは、全く別のはなしだ。……お前が何者だろうが、お前が美しいことに変わりはない」  ハリエットは、本気でシナンは気が触れたのではないかと思った。あるいは、おかしくなったのは自分のほうかもしれない。  制御不能なくらいのどきどきは依然続いているし、頭も混乱して思考がまるでまとまらないのだ。そしてその動揺のまんなかには、どうしてか間違いなく喜びとしか呼べない感情が居座っている。シナンは果てしなくおかしなことを言っていると思うのに、それが多分、ハリエットはただうれしい。  きわめて不可解な状況だった。 「う、美しくなど……そもそもお前、私の顔をまともに見たこともないくせに。まあ私だって、よく知っているわけではないが……」 「……ちょっと待て、お前自身の容姿の話だぞ。なのにお前は知らないのか?」 「ああ。水面に映るのを見ることはあるが、それほどはっきりと見たことはないな」 「……お前、まさか鏡を見たことがないのか?」 「ない。鏡はそれそのものが魔術的な力を帯びている。膨大な数の魔術書があるこの部屋に置くのは望ましくないと、魔術士長が言っていたぞ。……そんなにおかしなことか?」 「……鏡がないと、身支度のとき不便じゃないか?」 「……鏡がないと、普通、身支度ができないものなのか?」  ただ純粋に不思議に思って聞き返したが、何に驚いたのかシナンはしばらく絶句していた。そこまでする必要があるのか、と吐息のような声で呟くのが聞こえる。  それから気を取り直したように、彼は上着の合わせに片手をつっこむと、手のひらほどの大きさの金色の板が二枚重ね合わされたものを取り出してみせた。装身具の一種なのか、緻密な金細工が施され、ちいさな宝石がいくつも散りばめられている。 「……よしわかった、では今自分の姿を見てみろ。仮面を外せ」  言うと、シナンはその板をハリエットに向ける。二枚の板をこすり合わせるようにしてずらすと、つるつるしたガラスの面が現れた。まあるいそれの中に、何か像が動いているのが見える。噂に聞く、鏡というやつに違いなかった。 「は、はあ!?何を言っている、駄目に決まっているだろうが!お前の前では外せない!」 「なぜだ?お祖父様が禁じているからか?」  シナンは今すぐにでも手を伸ばして仮面を奪い取りそうな剣幕だった。ハリエットは思わず彼から身体を離し、仮面を守るようにふちを両手で握る。 「そ、そうだが……。しかし、魔術士長は理屈の通った行いしかしない男だし、わ、私は……誰とも違う、女王蜂なのだ。普通では考えられないようなことが、起こるかもわからぬ。そうなったとき、私は責任を負えない」 「何か起きたとして、責任なら俺が負おう。こうして会話をし、直接接触すらしても何の問題もないのに、素顔を見せただけでなにか起こると思うか?そもそもお祖父様は、お前の顔を見たことがあるんだろう?」 「ま、まあ、それはそうだが……しかし、だからって別に、今見なくても良いだろう!」 「なぜ今は駄目なんだ?」 「だ、だだだ、だって……」  恥ずかしい。あるいは――気高くあるべき女王蜂としては、甚だ不本意ではあるものの――恐ろしくもあるのかもしれなかった。  美しい姫君の話をしていたはずが、気づけばハリエットの容貌が姫君より美しいかどうかという話になっている。ハリエットの顔を一目見て、シナンはハリエットを全く美しくないと思うかもしれないのだ。想像すると、みぞおちがぞわぞわして悲しい気持ちになる。 「……も、もし、私が姫より美しくなかったら、どうする。見たこともないものが美しいかどうか、なぜお前にわかるのだ」 「…………。本当のことをいえば、美しいかどうかはどうでもいい。俺はただ、お前の顔を見てみたい」 「……なに?」 「お前が以前、言っていただろう。虫は嫌いだが、俺が何を好きなのかには興味があると。それと同じだ。おそらく俺は単純に、お前のことを、ちゃんと知りたい」  それに、お前には自分自身のことを知る権利もあると思う。静かな声色でシナンは言った。彼の瞳は依然そらされることはなく、ハリエットを見つめている。  青色のそれには、ひどく真摯な光が宿っていた。出会ったときと変わらず、きらきらしている。  正直ハリエットは、困り果てていた。これまで一度だって、魔術士長の“進言”を裏切ったことなどない。しかしあらゆるためらいを凌駕するくらいに強く、シナンの望みに応えてやりたいとも思ってしまっている。 「……いいだろう、ちょっとだけ、ちょっとだけだからな」  仮面に手をかけると、その手にシナンが手を重ねた。外してもいいか、と聞かれ、こくりと頷く。  まるでそれも身体の一部だとでも思っているかのように、とても丁寧にシナンは仮面を外した。頬がつめたい空気に晒される感触に、ハリエットは思わず固く目を閉じる。暗闇のなかで、シナンの指先がそうっと目元を撫でるのを感じた。  それから、数秒。あるいは数十秒、数分。シナンは一言も言葉を発しなかった。美しいとも、美しくないとも。  あるいは、そもそも美醜を判断できるような状態ですらなく、ハリエットの姿を見てしまったせいで何かが――具体的にが起こるのかは、ハリエットもよく知らないのだけれど――起こってしまったのかもしれない。だんだんそんな気がしてきて、ひどく不安になる。 「母上は、嘘つきだな」  ふとシナンが呟いた。ぱちりと目を開いてみると、驚いたような顔をした彼と目があう。何かが起こってしまった様子は特になかった。 「な、なな、なんのはなしだ?」 「……なあ、お前はやはり、高い塔に捕われた姫なのではないか?そのほうが、俺にはしっくりくる」 「はあ!?急に何を言ってるんだ、女王蜂に対して不敬……わあっ」  シナンは自然なしぐさでハリエットの頭を引き寄せ、その額に自分の唇を触れさせた。一瞬のことで、ハリエットは全く身じろぎすることもできなかった。 「……お、お前っ、……な、ななな、なにを!」 「……ハリエット、見てみるがいい」  シナンは先ほどの鏡を再び取り出し、ハリエットに向ける。  鏡面に、見慣れない子どもが写っていた。それが自分なのだと思うとただ奇妙な心地だけがして、美しいとか醜いとかはよくわからない。色素のうすい金髪に、抜けるように白い肌、そして何より特徴的なのは、血液を日に透かしたような色をした目――緋色の瞳孔(どうこう)。 「……あかい、」  自身の瞳の色は知っていた。けれど、それは思っていたよりずっと赤かった。ずっと。 「ああ、紅玉(ルビー)のような赤だ。とてもきれいだろう」  頭を引き寄せられたせいで、シナンの顔が視点が合わなくなりそうなほど近くにある。額にいまだ残る乾いた微かな感触の意味について、ハリエットは考えるのをやめた――というか、考える余裕を全く持てずにいた。  シナンはやはりどこか魔術士長に似ているが、魔術士長のように長髪でもたおやかでもないので美人という形容は似合わない。けれど、はてしなく好ましい顔つきだと思った。表情の分かりにくい目元で震えるまつ毛の一本ですら愛おしい気がして、ハリエットはひどく混乱する。 「……俺はお前を、姫君だと決めつけているわけでもない。たったひとつにとらわれる必要はないと思うだけだ。お前が一体何者なのかは、いずれお前が決めればいい」  いつの間にか腰に手を回され、抱き締められるような体勢になっていた。シナンの片手は頭の上に置かれており、あやすようにゆるく動いている。  言葉以外のもので、愛おしく思う気持ちを伝えるすべがあるのかどうか、ハリエットは知らない。けれどシナンが頭を撫ぜるくすぐったいような感触に、ハリエットはそう伝えられているのと同等なくらいの(ぬく)みを感じていた。  胸を塞いでいたかたまりはいつの間にか霧散し、あれだけ寒かったり苛立ったりしていたことがとても遠い出来事のように思えてくる。シナンが存在する世界と、存在しない世界は、ハリエットにとっては朝と夜よりも、春と冬よりも違った。 「……お前は本当に、へんなやつだな」  ハリエットは女王蜂だし、女王蜂でしか無いし、それ以外の何者でもありえなかった。鏡の中の子どもの姿が、それを明らかすぎるくらい明らかに示していた。  けれど目の前の少年は、ハリエットの瞳をきれいだと評した。そのうえ、ハリエットを何者でもないと言う。あるいは、何者にもなれるのだと。  絵本や文芸書を読み、あるいは魔術士長にあれこれと質問して、この世界についてある程度のことは知ってはいるものの、おのれがずいぶんと世間知らずなのだろう自覚はある。それでも、シナンのようなやつが相当の変わり者であることは、ハリエットも何となく理解していた。ハリエットを女王蜂では無いかもしれないというやつなんて、おそらくこの広い世界に、もしかしたらシナンただ一人しかいないのかもしれなかった。  その日、シナンは二つ土産を置いていった。赤いココナツの砂糖漬けと、金細工の美しい手鏡である。  ひどく甘く、しらない南国の匂いのするその菓子の赤色を、シナンはハリエットの瞳に似ていると言った。だからこののち、渡された手鏡で自分の瞳の色を確かめることが、ハリエットはすこしだけ楽しくなった。

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