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第3話
ある日のこと。寝台に寝転びながら読みふけっていた魔術書に、ハリエットは興味深い呪文を見つけた。
ここではないどこか、遠く離れた場所に、おのれの視覚と聴覚を飛ばすという魔術である。
魔力が堀当てられる土地ならば、屋外でも屋内でも或いは山深い森の最中(さなか)でも、全てを見通すことができるのだという。この大陸の地底を這うようにして張り巡らされた力源を伝って、自らは部屋から一歩も出ぬままに、おのれの感覚だけを離れたどこかに転移させることが出来るというのだ。
◆◇
「このユウシャというやつは、」
暖炉の前に足を投げ出して座るシナンの膝の上に、豪奢な装丁の本が開いてある。その挿絵の人物を指差してハリエットは聞いた。
仰々しい鎧を纏い、体長ほどもある大剣を携えた男である。
「一体どうしてマオウを殺さなくてはならないのだ?」
「それは……魔王が悪いやつだからじゃないか?」
「だが、マオウが一体どんな悪いことをしたというのだ?」
シナンと出会ってから、三度目の冬が訪れていた。テオメア王国の王都ユスツァは海に面してあり、冬は耐えず吹き込む海風のためにそれなりに冷え込むし、積雪も多い。
魔術士長によれば、冬は一年のうちで最も寒さが厳しく彩りの少ない季節だというし、シナンも虫たちが冬眠してしまうから冬はつまらないと言っている。ハリエットはせいぜい温度変化くらいでしか季節というものを感じることがないため、それを四つに区切る意義をよく理解できないほどだったが、とりあえず寒いことは特に好きではないと思う。
けれど酷く冷え込む日に、シナンとくっついて過ごすことは嫌いではなかった。冬になると、ハリエットとシナンは大抵暖炉の前に並んで座り込み、パラリスと呼ばれる陣取りゲームや読書をする。
「冒険の最初に『マオウはやがて災厄をもたらす悪なるもの』と書いてあるだけで、別に具体的に悪いことは何もしてないぞ」
「だが、途中で勇者の仲間の猛獣使いを殺しただろう」
「先にユウシャがマオウの手下を殺したのだぞ。考えようによっては正当な仇討ちだ」
シナンが今日持ってきたのは、勇者が魔王を殺して英雄になるというお話の本だった。この国ではかなり有名な物語らしく、シナンが言うところによれば勇者は太古に実在したとも言い伝えられているらしい。
「……確かに、そう言われてみればそうだな。もしかしたら隠れて人間の姫を拐ったり、村々に火をつけて回ったりしているのかもしれないが」
「でもどこにも書いてないぞ。この男、悪を成敗するというなら、まずマオウが本当に悪人であるのかしかと確認してからにすべきではないのか」
マオウが本当はいいやつだったとしたら、この男こそ悪人ということになってしまうではないか。人差し指でぱちんぱちんと勇者の頭を弾きながら言うと、シナンがふ、と息を漏らした。口角があまり上がらないのでわかりにくいが、これで一応笑っている。
「ガレウス兄さまもエミエルも、そんなことを言ったことは一度もないな」
「ふふん、そうであろう。私は『女王蜂』であるからして、そこらの王子などとは目の付け所が……エミエルとは誰だ?」
シナンが第五王子であるということは、つまりそのほかに四人の王子が存在するということである。
兄弟というのは日常的に頻繁に関り合うのが普通のようで、シナンもしばしば二番目の兄と三番目の兄の間で喧嘩が絶えないとか、一番目の兄が不眠症で困っているとか話している。
この本も、元々は兄のうちの誰かのお気に入りで、貸してもらったものらしい。四人もいると名前を覚えるのが大変だろうな、とハリエットは思っていた。
「エミエルはエミエルだ。四番目の兄だ」
「ああ、”ちいにいさま”というやつだな、覚えているぞ」
「……もうそんな呼び方はしていない。エミエルはエミエルだ」
一番目と二番目の兄は王妃の腹から生まれた双子であり、三番目と四番目の兄、そしてシナンはそれぞれ別の側妃から生まれたのだと、魔術士長が言っていた。
その腹違いの四番目の兄の話を、出会ったばかりの頃、シナンは比較的頻繁にしていたように思う。無表情に『ちいにいさまが、ちいにいさまが』と繰り返す様子を見て、そんなに親しいのだろうかとなぜかもやもやした気持ちになったのでよく覚えていた。
しかしいつのまにか、その男は“にいさま”の座から陥落したらしい。
「なんで“にいさま”じゃなくなったのだ?嫌いになったのか?」
「……別に、大した理由はない」
濁すような言いぶりが、どこかシナンらしくなかった。以前感じていたもやもやが甦ってくるような気がしてなんとなく不愉快だったが、不敬といえるほどの態度ではないので放っておくことにする。
「ふぅん……へくちっ」
「おい、お前やはり風邪を引いたんじゃないか?まだ手も死人みたいに冷たいままだ」
「私がそうやすやすと風邪など引くわけが……へくちっ」
今日シナンが訪れた時、やはりハリエットは『仕事』の真っ最中だった。
部屋に入るなり、寒すぎる、風邪を引くぞ、などと言いながらハリエットを執務机から引きずり下ろしたシナンは、ハリエットをブランケットでぐるぐる巻きにし、召使に新たに火を入れさせた暖炉の前に座らせると、さらに今日はまだ頼んでもいないのにあちらから手を握ってきた。
触(ふ)れられて初めて自覚したが、シナンの手のひらが火のように熱く感じられるほど、確かにハリエットの肌は冷え切っていた。
それからしばらくが経ったが、シナンはまだハリエットの表皮の温度に不満があるらしい。定期的に確認するように握る手に力を込めては、先ほどからずっと「まだ冷たい」などと口走っている。
「お前、何故そんな薄い服を着て、暖炉に火もいれずにいたんだ?」
「少しばかり複雑な術式の解読をしていて、寒いのに気付かなかった。魔術士長が言っていたが、私にはシューチューし過ぎると周りが見えなくなるきらいがあるらしいぞ。……シナンは死人に触ったことがあるのか?」
「……いや、無いが。この部屋は調度品ばかり豪勢だが石壁がむき出しだから、一度暖炉の火が落ちるとすぐに冷えてしまうな。城内には室温を一定に保つ術式が敷かれた部屋もあるが、ここではそういった魔術は使わないのか?」
「……使わぬ」
「なぜだ?お前なら、たいがいの魔術は思うままに扱えるんだろう」
シナンの認識は誤ってはいなかった。それどころか、『たいがいの魔術』しか扱えないような言いぶりは不敬であるとすら思えるほどである。
ハリエットは現在存命のどの魔術士よりも広大な虚をもち、そしてまた同じく誰よりも膨大な数の魔術書を読み込んできたのだ。例えば暖炉に火を灯すくらいのことだって、息を吐くより容易に出来てしまうはずだった。
けれど、だからといってその力を実際に使うかといえば、それはまた別のはなしだ。
「扱えても、扱う必要がないのだ。今の私には、まだな」
「……それは、お祖父様の命(めい)か?」
聞くシナンの声に怒気がにじむ。近頃、ときおりこういうことがあった。
スターラ領の守護結界が壊れて大量の魔獣が田畑に入り込み、その修復のための術式解読をハリエットが三晩寝ないで行わなければならなくなったときも、シナンはこんな声色で魔術士長の話をした。
「勘違いするな。私は魔術士長に何かを命じられたことなどないし、あれに私に何かを命じる権限もない。『女王蜂』は魔術士長よりずっと偉いのだぞ」
「……なら、本当に必要がないと思うのか。こんなに凍えているのに、必要がないのか。自分を温める火くらい、灯してもいいだろう」
お前にだって、体を温める必要はあるし、温める手段を持っているなら当然それを使っていいはずだ。ぎゅうと手のひらを握りしめながら言われる。シナンが饒舌になるのは、大抵彼が怒っている時だった。
「……そうだろうか」
「そうだ」
今シナンが何に怒っているのか、ハリエットにはその正体を掴みきることは出来なかった。魔術士長に怒っているのかと思えば、くるりとその対象がハリエットに移り変わったりする。
『女王蜂』を叱りつけようというのなら、無礼千万もいいところだが、どうしてかちっとも嫌な気分にならないのが不思議だった。
むしろ、どちらかと言えばその真逆だ。痛いほどに強く握りしめてくる彼の手の感触が、なぜかどうしようもなく心地いい。
「なあ、……やはり、お前はへんなやつなのではないか?」
「……今の流れで、なんでそんな話になるんだ」
呆れたようにシナンが呟く。
お前といると、へんな気持ちになることがあるからだ。喉の先まで出かかった言葉を、ハリエットは飲み込んだ。単なる純然たる真実でしかないのに、口にするのがとても恥ずかしいことのように思えたからだった。
シナンとともにいるから、彼が手を握っていてくれるから、今ハリエットの胸は冷たくはなかった。
それどころか、むしろたまらなく熱いような気すらする。胸の裡(うち)の穴の形がはっきりとわかるほどに、息苦しいくらいに。
シナンとともに過ごすことは、魔術士長と話すこととも、あるいは召使たちと事務的なやりとりを交わすこととも全く違う。けれどなにがどう違うのか、或いはおのれがこんな気持ちになるのはシナンたった一人に対してだけなのか、それらをはっきりさせるにはハリエットは他者というものを知らなすぎた。
たとえば、シナンの兄弟のうちの誰かが同じように手のひらを握ってみせたとして、ハリエットは同じような気持ちになるのだろうか。
「……その、“ちいにいさま”とやらに、私も会ってみたい」
「は?エミエルとか?なぜだ?」
なんとはなしに溢れた言葉だったが、どうしてかシナンはいっそう険しい声色でハリエットに聞く。さらに返答を待たずに、駄目だ、と呟いた。
「……駄目なのか?」
「ああ。あいつは……、分別なく有象無象に愛想をふりまく女たらしだ」
「……女たらしって何だ?」
「女性と食事をしたり、観劇に行ったりして、やたらと恋人のような関係になりたがるやつのことだ。しかも一人だけでなく、両手では数えきれないほど大勢と」
「なんだそれは、人間のクズだな」
言うと、シナンがまたふ、と息を吐いた。それは言い過ぎかもしれないが、などと言いながら、彼の口角は先ほどよりわかりやすく上がっている。
虫けらにすら長所を見つけて、場合によっては愛らしいとか賢いとか言って褒め称えてみせるシナンが、これほどあけすけに何者かの悪口を言うことは珍しいことのように思えた。
飴玉も舐めてみなければ味がわからないように、その者が一体どのような人間であって、それを好くか嫌うかを決める権利はあくまでハリエットにあるはずである。シナンの判断を一方的に押し付けるつもりなら、それはいささか不敬であると言えなくもないような気もしたが、しかし依然ハリエットはちっとも嫌な気持ちにはなっていなかった。やはりむしろ、その真逆なのである。
ならば、会わなくても良い、お前の手のひらで良しとしてやろう。執拗にぎゅうと力の込められた手のひらを握り返して言うと、シナンはふいとそっぽを向いた。
また、耳のふちが赤くなっている。その理由が、近頃はハリエットにも少しわかるようになった。
おそらく、今おのれの耳も同じように赤くなっているに違いないからである。
◇◆
新年を迎える頃が、テオメア王国では最も寒さの厳しい時期である。塔の外壁にびゅうびゅうと吹雪の吹き付ける音が十日も続いた頃、ハリエットは近頃シナンが自分の部屋を訪れないことに気がついた。
面会に来た魔術士長に聞いてみれば、急な用事で南方の国の姫君に会いに出掛けているのだとか。
「姫君だと!?…姫というものは、現実に存在したのだな……」
「それは当然。シナンに姉や妹があったとすれば、それも姫君でしょう」
姫といえば、ハリエットにとっては子ども向けのおとぎ話に度々登場するきらびやかな架空の女でしかなかった。
物語において、彼女たちの役割は大抵、苦難のなかにあってそこを勇敢な男に救われるか、あるいは勇敢な行いをした男に褒美のように結婚相手として譲り渡されるかの二択である。
「……し、シナンは、何か勇敢な行いをしたのか?それとも、不遇な目に遇う者を救いに行ったのか?姫を娶ったり救ったりするのは大抵勇者とか騎士であって、姫と王子という組み合わせはいささか奇妙ではないか?」
「……我が君、現実の姫は王子と同様、王族の子女である以上の意味は持たぬ存在です。……今回の訪問にあえて目的を見つけるとすれば、姫君と友人になるために行った、というのが近いでしょうか」
「友人に?なぜだ?」
「より広範な人脈を作ることも、王子の務めのうちだからです」
魔術士長の言うところの『非現実の』姫たちは、大抵肌が雪のように白いとか、瞳がサファイアのようとか、雲雀(ひばり)のような声をしているとか、様々な表現でもってその美しさを讃えられる存在である。
身に纏うきらきらしいドレスや宝石をそのまま生き物にしたかのように華やかな彼女たちには、しかし飾り立てる外側だけを形にしたようなものであるだけあって中身がないように思える。要するに、人格というものが感じられないのだ。
そういうものとシナンが友人になろうとしている、と考えると、なぜかハリエットの胸はうずうずとした。
「……なあ。現実の姫君も、やはり美しい者ばかりなのか?」
「それもまた三者三様でしょうが……エルレティーナ様は、母君であるセーラ妃に似て美しい方だとは聞き及んでおります」
「……ふうん。お前より美人なのか?」
以前、ハリエットは世界で一番美しい人間を映し出す術式の仕込まれた鏡のでてくるおとぎ話を読んだことがある。継母の女王の性格がひたすらに悪いばかりで話自体はあまり面白いとも思わなかったが、『美しい人間』という概念にだけは興味を持った。単純に、ハリエットはどういうものが美人とか言われるのかを知らなかったし、その実物を見た覚えもなかったためである。
だから魔術士長に、美しい人間とは一体どういった見た目をしているものなのかと聞いてみた。すると魔術士長は何冊かの絵本や文芸書を持ってきて、その挿し絵のうちいくつかを指し示してみせた。
その中には男も女も、子供も若者も年寄りもいたが、とにかく性別や年齢関係なく、一般的には顔の各パーツのや体格の均衡のとれた人間を美しいと言うのだと彼は説明した。
時には容姿でなく、精神の美しさを評価して美しいと言われる人もいるらしいが、それはごく稀なことだという。また容姿の均衡は年齢を重ねるごとに崩れていく傾向にあるから、それがまだ維持されている若い年齢のうちの方が美しいと評価されやすいらしい。
ところでその挿絵のうちの一人の姫君が魔術士長にそっくりな顔をしていたため、お前も”美人”なのかとハリエットは聞いてみた。すると魔術士長は相変わらず人を殺しそうな雰囲気をまとわせながら、『私のような老いさらばえたただの男に、そのような形容は全く相応しくありません』と答えてみせた。美しいと言われるのは基本的に喜ばしいことのはずなのに、彼はどうしてか苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「……以前も申しましたが、私は老人で、かつ御身とは異なり唯(ただ)のなんの変哲も無い男です。私のような者をそのように評するのは、いささか悪趣味というほか……ハリエット様、いくつめですか?」
ハリエットはぎくりと手を止めた。先程から、暖炉にマシュマロをくべ、焼き目をつけては口かココアのカップに放り込む、という動作を繰り返している。ハリエットの手の中にある持ち手の二つついた大ぶりのカップには、溢れんばかりの焼きマシュマロがぷかぷか浮かんでいた。
「じ、じゅうなな……あっ、ま、待て!私は思うのだが、冬のいいところは暖炉でましまろを焼けることと、ココアがおいしいことくらいではないか?」
「……我が君、何事にも限度というものがございます。虫歯になるといけません、これはしばらくの間預からせて頂きます」
「あ、ああ~~私のましまろ……」
胸のうずうずがなくなるまで食べ尽くしてやろうと思っていたのに、ましまろのぎゅうぎゅうに詰まったおしろい箱は魔術士長に没収されてしまった。
そのうえ、魔術士長が帰ってから、ハリエットはシナンがいつ帰国するものか聞くのを忘れたことに気が付いた。
ハリエットが身体を冷やしてシナンが不機嫌になった頃よりいっそう、ハリエットの部屋は冷え込んでいる。暖炉を始終焚いても冷気を退けきれないほどだった。
シナンは今、何をしているのだろう。”エルレティーナ”とかいう姫君とは、無事友人になれたのだろうか。南方には王都にはない味の飴玉があるだろうか。シナンが無類の虫けら好きだと知ったら、きっと姫君も気味悪がるに違いない。シナンは南方でもーー姫君の前でも、いつもと同じように無愛想なのだろうか。
ハリエットの世界には、魔術書と、魔術士長と、召使たちと、そしてシナンしかいない。よって必然的に、ハリエットはいつも主に魔術についてか、シナンについて考えていた。出会ったばかりの頃はそうでもなかったような気がするが、いつしか生活のすき間を埋めるように、ハリエットはシナンのことばかり考えるようになっていた。
魔術について考えるのは楽しいが、シナンについて考えるのもそこそこに楽しい。手のひらに触れたわけでもないのに、胸の裡が少しばかり温かくなるような気がするくらいである。
けれど姫君の話を聞いてからというもの、シナンについて考えることはちっとも楽しくなくなってしまった。ましまろを没収されたその日からハリエットの胸はうずうずし続けているし、特にシナンに落ち度はないはずなのに、近頃は彼に対して無性に腹が立ってすらいる。
寒いのも、焼きましまろを楽しめないのも、胸がうずうずするのも、何もかもきっとシナンのせいなのである。なのにシナンは、ユスツァより幾分気温も高いという南方で、母親似の美人だという姫君と今も楽しく友人になろうと励んでいるのだーー一体何をどう励んでいるのかは、ハリエットには想像もつかないけれど。
「……シナンのばか!」
山のように積まれた魔術書のうちの一冊を掴むと、別の魔術書の山に向かって投げつける。いつものように本の塔が崩れる大げさな音がし、召使が異常はないかと問いにきた。『全てシナンのせいだぞ』と言ってみたが、やっぱり今日も無視をされる。
ハリエットはいつものように、胸の中にかたまりがあることを自覚していた。会えない日が長引くにつれ、シナンについて考えることが、どんどんと冷たく、息苦しくなっていく。物理的にも冷えるせいなのか、胸の冷感は日々質量を増し、ハリエットの呼吸さえ遮るほどに成長しているらしかった。
けれどそれでもなお、彼について考えることをやめられない。シナンがいまどこでどうしているかを知ることさえ出来れば、ずっと楽になれるような気がしていた。
ーーここではないどこか、遠く離れた場所に、おのれの視覚と聴覚を飛ばすという魔術。
王宮の水車塔は、テオメア王国で最も魔力量の多い力源の上に立っている。そこから、おそらく南方まで魔力の路は曲がりくねりながらも繋がっていることだろう。魔術を行使さえすれば、ハリエットはまるでその場に立っているかのように鮮明に、現在(いま)のシナンの全てを知ることができるのかもしれなかった。
シナンは言った、ハリエットにだって体を温める必要はあると。温める手段を持っているなら、当然それを使っていいはずだと。連日の吹雪とシナンの不在のために、ハリエットが窒息寸前に凍えていることを伝えたら、やっぱりシナンは同じように答えるのかもしれない。
白いものの浮かんでいないココアのカップを両手で包みながら、数日の間ハリエットは悩んでいた。
息を吐くより容易に成せるからといって、息を吐くより容易に行っていいことにはならない。人の行動には全て、責任というものが付きまとうものである。
けれどシナンはきっとまた必ず、ハリエットに会いに来る。南方について、姫君についてハリエットに長い話をしてくれるだろうし、手のひらだって握ってくれる。今彼がどうしているかがわからなくても、それだけは確かな事実として確信できる。
だから、ハリエットは魔術を使わないことにした。
自分で自分を温めたことはまだない。けれど、きっとシナンに温めてさせてやるほうがよほどいいことだと、ハリエットは信じることにしたのだった。
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