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第2話

 いつもどおり魔術書の解読を行っていると、召使が扉をノックする。それから小窓が開き、鉄格子がするすると下方向に収納されると、小窓からせり出すように設置されている台の上に青銅の仮面が置かれた。 「何だ。掃除か?」  召使はほとんどこの小窓を介してのみしかハリエットと接触しない。例外として、食事の用意や掃除のさいには部屋に立ち入るが、そのときハリエットは必ずこの仮面を被っていなければならなかった。魔術士長と面会するさいも、とにかく他人と会うときにはいつもこれを被らなければならないことになっている。ハリエットの顔にぴったり合うように作られていて、額から鼻の頭までを覆うものだ。 「いいえ、シナン様がいらっしゃいました」 「なに!またおかしなものを持ってきたのではないだろうな!?」  先日シナンがやってきたとき、彼は大きな瓶を両手に抱えていた。てっきり飴玉の瓶かと思えば、中に入っていたのは紫色のウロコをもつ大百足(ムカデ)だった。  シナンは『かっこいいから持ってきた』などと無表情で言っていたが、ハリエットにとってはひたすらに気持ちが悪いだけの代物である。ぎゃあぎゃあ喚きながら持って帰れと騒いだら、同じ顔をしたまま『すまん』と言って素直に帰っていった。シナンは虫が好きらしい。 「安心しろ、今日持ってきたのはただの本だ。入っていいか?」 「ほ、本当だろうな。いいぞ、許す」  シナンはハリエットの部屋を訪れるとき、大抵なにかを持ってくる。それはハリエットへの土産の場合もあったし、単純に読みたい本を持参しただけということもあった。  わざわざあちらから目通りを求めて来るくせに、シナンは特に何を話すわけでもなくただ無言で本を読んで帰っていくこともある。人間関係の限られたハリエットには比較のしようもないが、多分こいつは結構へんなやつなのではないかと思い始めていた。 「おい、お前!!やはり虫ではないか!!」 「なんだ、これは本だぞ。ハナスズメバチの生態についての図鑑だ。お前まさか絵に描かれた虫まで怖いのか?」  何だか小馬鹿にしたような口ぶりなのが腹立たしい。不敬だぞ、と言ってやりたかったが、虫ごときであまり騒ぎ立てるのも気高くないだろうかと思って我慢する。 「ハナスズメバチの生態は興味深いぞ。お前も女王蜂なんだから似たようなものだろ。百足よりは興味があるんじゃないかと思って持ってきた」 「はあ!?よもやお前、私をその虫ケラと同種のものだとでも思っているのか!?」 「……そうは言ってないが。ほら、胴体はきれいなしま模様だし、翅(はね)も葉脈みたいな筋が入っていて面白いぞ。よく見てみろ」  シナンは見開きにハナスズメバチの全身が大きく描かれているページを開くと、ハリエットがたった今読み進めていた魔術書の上に重ねるように置いた。どうやら今日は二人で読書したいらしい。   「うう……あまり近づけるな。……確かに足がたくさんないだけ百足よりはマシだが、私をこれと同じようなものと思われるのは心外だ。なんか邪悪そうな目をしてるし」 「そうか?つぶらでかわいらしい目だと思うが」 「かわいらしい……?」  お前、もしかしてものすごくへんなやつなのではないか。一応確認してみたが、シナンはきょとんとしている。 「蜂は見た目が愛らしいだけでなく、非常に社会的な集団を作って生活することでよく知られている。とても頭のいい昆虫なんだ。真社会性といって、集団がきちんと役割分担をして暮らしている。一番の特徴は、そのなかに生涯子どもを残さない個体がいることらしい」 「……子どもを残さない?なんでだ?病気なのか?」 「違う。ハナスズメバチという種が繁栄するためには、その方が都合がいいということだろう。産むものと産まないものに分かれて、それぞれがそれぞれの仕事に没頭した方が子孫を残すのに効率がいいから、そうしているんだ」 「ふうん……」  へんなの。ハリエットは口をとがらせて呟いた。単純に考えれば、すべての個体が等しく子どもを残したほうが種としてもたくさんの子孫が残せるような気がする。何がどう効率的なのかよく理解できなかった。 「……お前は本当に、なにもしらないんだな」 「な、なんだと!こんな虫ケラの一体何を知っている必要があるというのだ!」 「そうムキになるな、そういう意味じゃない。……お前はすぐに怒るな」  シナンは本をぱたんと閉じる。背表紙を掴むその手を見て、ハリエットは思わず声をあげた。 「お前、今日は手袋をしていないのか?」  ハリエットの部屋に立ち入る人間は、全員常に皮手袋をはめている。屋外に出るさいは外套というものを羽織るらしいのと同じように、手袋をはめるのもそういった作法の一つなのだろうと思っていた。ハリエットの御前では、誰しも正装でいなければならないというようなことを魔術士長も言っていた気がする。  シナンははっとしたように片手を見る。爪のきわが土色に汚れていた。 「ああ……ここに来る途中、オミカズラの木が生えているだろう。馬車を止めさせて、根元の土を掘り返したんだ。幼虫がいるかもしれないと思って。それで外して、忘れていた」 「そうなのか。……なあ、お前に頼みたいことがあるのだが、」  王宮から水車塔までの道のりに一体どんな植物が生えているかなどハリエットは知らないし、オミカズラがどんな木であるのかも、その根元に埋まっているのがどんな虫の幼虫であるのかも知らない。興味もさほどなかった。  それよりも、今はただシナンのむき出しの手のひらに夢中になっていた。 「お前の手に触ってはだめか?」 「……なぜだ? 汚れているぞ」 「手袋を外した他人の手に、触ったことがない。いままで見たこともなかった。だから興味がある」  シナンはあからさまに驚いた顔をした。何に驚いたのかはよくわからなかったが、彼がどうやら魔術士長ほどの鉄仮面ではないらしいことがすこし好ましく思える。  感情を表出させすぎることは、高貴ではないだろうし、場合によっては不敬である可能性すらあるだろう。けれどシナンの表情が変わるさまを見ていると、ハリエットはなぜか楽しい気持ちになった。  シナンは眉をひそめ、一度もか、と聞いてくる。 「いくら私でも赤ん坊の頃の記憶はないから、一度もないかは知らぬ。ただ、覚えているかぎりはないな」 「……そうか。構わないが、先に手を拭うものを持ってこさせる。待っていろ」 「別にすこしくらい土くれで汚れていようが許してやるぞ。それも含めて興味深いのだ」  言うと、シナンは素直に手を差し出した。てっきり断られるだろうと思っていたので、今度はハリエットの方が驚いた。 「お前、その……おそろしくはないのか?」  召使たちも魔術士長も、すべての他者は常にハリエットに一定の距離感を持って接する。  以前本の挿絵で、母親が幼児の胴に腕を回し、体を密着させているものを見たことがあり、魔術士長に市井の人々はいつもこんなふうにべたべたし合っているのかと聞いてみた。  その通りだ、と魔術士長は答え、さらにハリエットがけしてそのように扱われないのは、尊ばれるべき女王蜂だからなのだと説明された。 「……恐ろしい?何がだ?」 「魔術士長が言っていたぞ、女王蜂は偉大過ぎる存在であるからして、直(じか)に触れることすらおそれ多く思う者もいるだろうと」 「…………恐ろしくなどない。他の者はどうか知らないが、少なくとも俺は、お前をけして恐れない」  まっすぐにハリエットを見つめてシナンは言う。  見えない矢に射られたように、ハリエットにはその言葉が体の奥深くに刺さったように感じられた。悲しいのかも嬉しいのかも、腹立たしいのかもわからない。ただ、深くまでひびくような何かが心を揺らしている。  だから、触れ。ぶっきらぼうに再びシナンが差し出した手を、ハリエットは握った。  大きさはハリエットとさほど違いがない。肌の色は、ハリエットのほうが多少白いだろうか。先端に爪がついているのも、指の本数も、関節の位置も、ハリエットと変わらないように見える。そして触れたその感触は―― 「……温かい」  仮面は被らなければならないが、ハリエットは手袋は嵌めない。むき出しの両手で、同じようにむき出しの他人の肌をおもちゃを掴むように握る。  温かかったし、手のひらには弾力があった。それもハリエットと違いがない。けれど他人の肌そのものの感触も、それがおのれの肌と触れ合う感触も、自分自身のそれらとはまるで違って思える。  シナンの表情が容易く変わるのを見たとき以上に、なにか心が浮き立っていた。相変わらず胸のうちにおさまっている冷たいかたまりも、どうしてか少しばかり小さくなったような気がする。  お前たちも、私と同じ手のひらをしているのだな。ぽつりと言うと、シナンはまた驚いたような顔をした。さらにおずおずと握り返すようにして、彼の手にも少し力が籠もる。 「……お前は、虫が嫌いなんだな。百足もこの図鑑も、別にお前を気味悪がらせようと思って持ってきたわけじゃないんだ。あの百足は、小さいけれど虚(うろ)を持っている珍しい種類で、お前が興味をもつんじゃないかと思った。……すまなかったな」 「なんだ、別にそうは思っていないぞ。私は確かに虫は好きではないが、お前が何を好きなのかにはどうやらそれなりに興味があるらしい。だからすこしは面白かった」  なぜだろうな。ハリエットがこてんと首をかしげて聞くと、シナンはふいとそっぽを向いた。なぜか耳のふちが赤くなっている。  不機嫌なようにも見えなくもない顔をしていたが、けれど彼はけして握られた手を振りほどきはしなかった。  他人の手のひらに、あるいはその肌に触れる。何と言うこともない行為のはずである。  実際ハリエットも、紙の上に記された術式が現実に魔力を流して機能するのかを確かめるのと同じように、ただ実物を確認したいと言う気持ちでシナンの手のひらに触れさせてもらっただけだった。  けれど、それはハリエットになにか得体の知れないものをもたらした。胸に詰まったかたまりと同じように、名前のわからないもの。けれどもっとずっと心地の良い何かが、触ったところから伝わってくる。心の奥底を羽ぼうきで撫でられるような、不思議な甘やかさに囚われる。  その感覚を、ハリエットはしばらく忘れることが出来なかった。  だから次にシナンがやってきたとき、再びハリエットは彼に手を握らせてほしいとねだった。  次も、またその次も。  ハリエットが触れたいと言えば、シナンはいつでも黙ってそうさせてくれる。シナンの手を握ることは、いつしかハリエットのお気に入りの習慣になった。   ◆◇  御身の友人として、シナンは相応しい振る舞いをしているでしょうか。シナンと引き合わされて半年ほどが過ぎた頃、定例の面会で魔術士長が聞いた。  『女王蜂』の前ではいつも正装でいなければならないのだとしたら、平気で手袋を外してみせるシナンはもしや不敬なのかもしれない。そう思いはしたが、なぜかその話はしたくないと思った。  だからただ、問題はないと答える。もしかしたら、私とシナンは友だちになれたのかもしれない、とも。 「……それは上乗。我が君、はもう冷たくありませんか?」  大人の大きな手のひらがハリエットの胸を覆う。手袋越しだから温かさは感じないが、けれどすこしほっとした。 「……近頃は、すこしましになったように思えることもある」  シナンに手を握られていると、どうしてか冷たさを忘れられる。  けれどそれはけして消えて無くなったわけではなく、シナンが帰ってしまえば、むしろ胸の裡(うち)のかたまりはより大きくなっているような気もする。  じゃあな、と無愛想に彼が帰っていく瞬間、磨かれた刃の切っ先のような氷のとげが、ぐさぐさと身体の内側に刺さるのはどうしてだろう。シナンはへんなやつだが、一緒に過ごすことが不愉快とまでは思わない。むしろ、楽しいと感じることすらある。なのになぜそんなふうに思うのか、極めて不可解だった。  同時に、このような不可解な状態にあるおのれは、よもや気高くないのではないかと心配になる。 「……我が君。御身は生まれながらにして多くを手にされた方です。恐らく、この国の誰よりも。しかし、まだ」 「……ああ、わかっている」  まだ、ハリエットは幼い。身体も、そしてその心柄(こころがら)も小さく、だから生まれもった膨大な財産を扱いきることが出来ない。度量の足りない者が限度を超えた力を操ろうとすれば、それは当人にとっても周囲にとっても悲劇しか招かない。だから―― 「貴方は他に並び立つ者のいないほどの器量を備えなければならぬ方なのです。そしてそのためには、時に辛苦に耐えなければならないこともある。しかしその財産に見合う境地に到ったとき、貴方は全てを手にするでしょう」  御身がそれをお望みならば、文字通り世界の全てを。ですからどうか、今はご辛抱ください。  魔術士長が繰り返し語るその言葉の意味を、おそらくハリエットは完璧には理解できていない。他に並び立つ者のない器量とは一体どれほどのもので、ハリエットは一体何を『辛抱』させられているのか。正直さっぱりわからない。  けれど日頃感情のわかりづらい魔術士長が、こんなときばかりはとても必死な顔をする。  だから、彼の望む姿でいてやりたいと思っていた。おのれの身の程を知り、与えられた使命を知り、そしてそれに見合った高貴な振る舞いをして生きるのだ。 「わかっている、魔術士長。私は最も多くを与えられ、やがてこの国に富と繁栄を賜すもの。気高さの価値を誰より心得る『女王蜂』だ」

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