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第5話 金曜日
「昨日も大喧嘩だった」
「君も大変だね」
例の如く、僕は今日も渡り廊下に来ている。いつもはすぐに通り過ぎてしまうこの場所も、何だか日常風景の一つになってきた気がする。
「森田こそ、昨日は大丈夫だった?」
「ああ。あんなことやこんなことしただけ。全然大丈夫」
君もしてみる? と、ふざけて相手の頬を撫でる。
「しねえよ」
掃除をし終え、二人して理科室へと向かう。何だか奇妙な光景だが、これが普通に感じられる。慣れって怖い。
「でも、ダメ元で一つお願いしたいことがあるんだよね」
昨日、あの人は僕を見て言った。濡れたシャツが色っぽいと。そして、艶っぽく触れてきて、抱きしめて、口付けた。
違う。麻野を抱き締めたときとは、全然気持ちが異なっていた。今まで普通に受け入れていたその行為。今までは嫌だとしか思っていなかった。しかし、麻野を抱き締めてしまった後には、嫌どころか気持ち悪いとさえ感じるようになってしまっていた。
理科室に着き、扉を閉めた。
「麻野、あのさ……」
流石に言い淀む。少しの間を置いて、お願いしてみた。
「キス、してみていいかな」
「俺が森田とキス……なんで!?」
リアクションが大きすぎて、思わず微笑む。
「ごめんごめん、ちゃんと理由はあるんだけど……ごめんってば」
信じられないという顔で見つめる麻野に、笑いながらも数度謝れば、彼は少し強張った顔で問い質す。
「何、理由って」
「僕、昨日あの人に触られたら気持ち悪くて。でも、麻野のことぎゅーってしてたときは、全然嫌じゃなかったんだよ」
「……で?」
「だから……」
上手く言い表せない。それを補うかのように、麻野が言葉を紡ぐ。
「俺となら気持ち悪くないか、試したいってこと?」
「まあ、そんなところ」
あのさ、と少し苛立ち気味に麻野が言う。
「俺、キスとかしたことないんだけど?」
「そうなんだ」
「そうなんだじゃねえよ」
悔しそうに表情を歪めれば、麻野は僕に驚愕の一言を言ってのけた。
「真剣に付き合う気があるなら、してやってもいいけどな」
「付き合う……え?」
「そんな……確認するための道具みたいに、俺のこと使うんじゃねえよ」
それは、つまり何が言いたいんだ? 僕と付き合ってもいいということなのだろうか。
「……僕と付き合いたいの?」
「そんなこと言ってねえだろ」
「じゃあそれ、どういう意味なの?」
不貞腐れた顔をする麻野に、僕は覗き込むように問う。
「付き合うとか、付き合わないとか、そう言うのよくわかんねえけど……お前といるのは別に、嫌じゃねえから……一回キスして終わりとか、寂しいなって思っただけ、それだけ」
言わせんなよ、と呟く麻野が、何だか愛しく思えた。
「わかった。じゃあ麻野も、来週もここ来てくれる?」
掃除、今日で終わりだろ? そう言えば、麻野は気付いていなかったのか、目を見開く。
「そうだった! 掃除今日までじゃん」
「まだ僕に会いたいだろ?」
「まあ」
「じゃあ、ここで一緒に勉強しよう」
「それは嫌だ」
話しながら、距離が縮まっていた。違和感も嫌悪感もない。自然だと感じていた。
今日は泣いていない。睨みもしていない。澄んだ目が綺麗だった。僕のしようとしていることを察したのか、きょとんとした顔が、次第に羞恥心に満ちた表情に変わる。
目閉じて。そう小さく呟き、僕は麻野に口付けた。ただ、触れるだけのキス。やり場のない手を彷徨わせたかと思えば、僕の肩に恐々と置いてきた。
ゆっくり唇を離す。僕は彼の首に腕を絡ませたまま。彼もまた、僕の肩に手を置いたままだった。
「どう、だった?」
柄にもなく震えた声で、彼が問うてくる。
「気持ち悪くはなかった。良かった」
「……そうか」
「麻野は? どうだった?」
「そんなの……わかんねえよ」
「初めてだもんな」
「おう」
そんな会話をして、お互いに照れたように笑い合った。抱き締めると、抱き締め返してくる。
梅雨。この言葉を聞くと、今でも思い出す。
居残り掃除?
掃除してちゃ悪いかよ。
そんな刺々しいやり取りが、今となっては懐かしい。
これは、僕と彼の、始まりの一週間の思い出。
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