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第4話 木曜日
流石に昨日は言い過ぎたか。今更そう思っても、後の祭りだ。
ここ何日かで、麻野について分かったことがある。あいつは素直過ぎて、それ故にひねくれているんだ。教師に啖呵を切ったり、自分で言い出した掃除を必要以上にやり遂げてみたり。挙句の果てに、その顔にありありと『病み垢バレた』と出してしまって。
涼しい顔して、「拾ってくれたんだな、悪い」の一言で済ませたらいいものを。どうしても、引っかかるものがある。
そうして僕は、今日も麻野のいる渡り廊下に来てしまっていた。
「昨日は言い過ぎた」
廊下の内側から、外側にいる彼に話しかける。
「気分を悪くさせたのなら謝る、悪かった」
タイミングよく、雨も上がっている。僕は、彼の傍に近寄り、話を続ける。
「もし良かったらだけど、掃除が終わったら理科室に来ないか? 一人にも飽きちゃって」
馬鹿だな僕は。素直に、君と話がしてみたいと言えばいいものを。僕が麻野に興味を持ってしまっていることは、僕の中では既に明白な事実となっている。
「俺の弱み握りたいのか?」
「え?」
「だから、俺の病み垢の名前とかIDとか聞き出そうとしてんのか? 教えねえからな」
「誰もそんなこと」
言ってないのに。そう言い切れず、とりあえず最後に言葉を紡いだ。
「まあ、気が向いたら来なよ。6時まではいるから」
下校時間まではいる。いつものことだ。だって、僕は家に帰りたくない。
家に帰れば、女がいる。僕とは血の繋がっていない、戸籍上も赤の他人の女。その人は、父の彼女みたいな人だった。実の母は、ずっと昔に死んだ。
母の記憶が、時と共に薄らいでいく。優しく抱きしめてくれた。優しく頭を撫でてくれた。でも、あれは全部嘘だったんじゃないか? 妄想なんじゃないか? 僕にそう思わせるのは、長過ぎる時の経過と、あの女のせいだった。
あ、雨。また降り出してきたのか。そう思って、外に目を遣る。渡り廊下、彼の姿はない。無意識に、麻野を気にしてしまっていることに気付かされる。しかし、そこに彼はいない。
「ギリギリセーフ」
ガラッ、と開け放たれた扉には、麻野の姿。
「雨降る前に掃除終わった!」
「それは良かったな」
「で、何? 何で呼んだわけ?」
「別に」
そう言い、ノートに視線を落とす。今日は数学。方程式に当てはめるだけの、簡単な作業だ。
「……何か、悩んでることでもあるのか?」
式を解きながら、何気なく声をかける。
「言わねえよ」
1問、2問、3問。ただ解き続けているうちに、静かな時間は過ぎる。
連立方程式。こんな風に、対人関係も簡単に解ければいいのに。一つ目の式が自分で、二つ目の式が相手。紐解いていけば、共通点が見つかる。まるでxとyのように。
「フェアじゃないな」
1ページ解き終わり、僕はふいにそう言った。
「君が病み垢を持っていることを知ってしまった以上、僕の弱みも何か伝えなければいけないのかもしれない」
「別に、そんなこと知りたくねえけど」
「僕の主義に反する」
パタン、とノートを閉じ、筆箱に筆記用具をしまう。僕のその一連の動作に、麻野も自然と聞く体勢になった。
「僕がどうして毎日ここにいるか、知ってる?」
「知るかよ」
「さっさと帰ればいいじゃんって、思うだろ?」
「まあな」
だらしなく斜めに座る麻野。目の前に座る彼は、何だかんだ聞く耳を持ってくれそうな雰囲気を醸している。
「僕の家には、父さんの彼女が入り浸ってるんだ」
ああ、母さんはずっと昔に死んだよ。疑問に思っていそうな麻野に、そう付け加えた。
「僕は塾や習い事なんかしていないから、早ければ4時半には家に着いてる。父さんが仕事から帰ってくる夜遅くまで、僕はあの人と二人きり」
予想外の話が展開されているのか、麻野は思った以上に静かに話を聞いている。
「二人で何してるか、想像できる?」
急に問われて、麻野はびくりと肩を震わせた。
「男女二人ですることっていったら、あれしかないじゃん。そのくらいわかるだろ?」
「……わかるかよ」
案外初なんだな。そう思うも、僕は続けた。
「無理矢理脱がされて、させられる。女の人って、こんななんだって思った。昔、母さんに抱き締められた記憶とは大違いだった」
僕は、話していて泣きそうになるのを堪える。馬鹿みたいだ。なんでこいつにこんな話を? そう思うのに、言葉が止まらない。
立ち上がり、今の表情を見られないようにその場を離れる。窓に近寄れば、雨脚が強まった屋外が見える。外は寒いのだろう。僕の息がかかった窓ガラスは、白く曇る。
別に、怖いことや痛いことをされるわけではない。でも、嫌なものは嫌だった。あの人のことが嫌いなわけではなかったが、好きでもない。ただ、虚しくて寂しくて、目に見えない不安感に襲われる。だから、一人でいる方がずっと良かった。
「帰りたくないんだな」
帰りたくない。麻野が呟いた一言は、僕の心情そのものだった。
「俺も帰りたくない。だって、あいつらいつも喧嘩してるから」
少し心の落ち着いた僕は、窓際に立ったまま、彼の方に向き直る。
「親父もお袋も、喧嘩ばっか。関係なくても、聞こえるだけでイライラするっつうか、怖いっつうか……」
だんだん小さくなる声。
何日か前まで、ただの意気がっている不良というイメージしか抱いていなかったのに。今となっては、ただの非力な少年でしかなくなっていた。もしかしたら、僕よりも弱いのではないか。少し前まであんなに忌み嫌い、煽るようなことしか言えなかったのに。今は素直な言葉で話せる気がした。
「僕たち、案外似た者同士だったんだな」
方程式が解けた瞬間。数学の問題集のように、すっきりとした答えが出たわけではないけれど、今は『似た者同士』というのが、最も適切な言葉な気がした。
僕の言葉を聞いて、麻野はガバッと立ち上がる。荷物も持たずに理科室を飛び出していくではないか。
「おい麻野、どこ行くんだよ」
気に障ることを言ったか? 少々馴れ馴れしかっただろうか。
心配になり、後を追う。彼は、何の躊躇もなく外に飛び出した。ここ数日で、一番雨風が強いかもしれない。
「何してんだよ、戻って来いよ」
「うるせえ、泣いてんだよ。どっか行け」
泣いている? どうして?
そういえば、この前も目を真っ赤に腫らしていた。あの日も、雨に濡れていた。
こいつは、雨で自分の涙を隠している? そうか、今更気が付いた。
僕は、雨に濡れるのも構わず、彼に近付いた。腕を引き、抱き締める。
「何して――」
「知らない? 抱き締めるとストレス減るってやつ」
「知らねえよ」
僕より少し背の高い彼の背が、頼りなさげに震えている。
「いいよ、泣いて」
誰にも言わないよ。自分で思っているよりも、優しい声でそう言えた。
震える体、耳に届くむせび泣き。僕もつられて、少しだけ泣いてしまった。
後でびしょびしょの服を後悔することなんて考えられないくらい、このときの僕たちはただひたすらに雨に濡れていた。
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