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6月2日(日)18:52 最高気温27.9℃、最低気温17.3℃ 雨

 6月2日(日)18:52 最高気温27.9℃、最低気温17.3℃ 雨 「なぁ、もう梅雨入りってしたっけ」 「まだだろ」  会話はそれで、途切れてしまった。  けれど樹(いつき)がパソコンのキーボードを叩く音は、途切れることなく続いている。 「もう七時……そろそろ晩飯にする?」 「んー……」 「何がいい?」 「何でもいい」  それが一番困るんだけどな、という空気を伝えたくて沈黙してみたけれど、日向(ひなた)の沈黙は、樹のそれとは違って、樹に何のダメージも与えられなかった。それどころか、それを訊かれるのが一番困るんだ、と逆に跳ね返してくるような圧を感じる。  もうこれ以上何を言っても無駄だと諦め、日向は台所に立った。  料理をするのは好きだ。男子厨房に入らず、な時代に生まれなくてよかった。今ある食材から手順を考えて、こうだ、と決まったときの清々しさ。基本さえ守れば、料理は決して裏切らない。だから好き。  じめじめしているから、さっぱりしたものがいい。そうだ、そうめんにしよう。具材は何がいいかな。作り置きしていた蒸し鶏と煮卵があるからそれと、細切りしたきゅうりとキムチを合わせて、鶏ガラスープのぶっかけそうめんにしよう。丁度先週末立ち寄った香川県のアンテナショップで、小豆島のそうめんを買っておいてよかった。そうめんなんてどこのものでも同じ? いや、違う。前まではそう思っていたけれど、これを食べてからはもう他のものに戻れな……  駄目だ。頭の中の自分との会話の方が、樹との会話より遥かに盛り上がっている。  順調にきゅうりを切っていたが、うっかり肘が当たり、近くに置いていたボウルが床に落ちた。ガランガランガラン! けたたましい音が響く。長い残響が終わったあと、リビングの気配を探ったが、変わらずキーボードの音が続いている。見えなくても分かる。樹はきっと、ぴくりともせず、そのまま作業を続けている。 「いったぁ~」  聞こえるくらいの声で言ってみたが、聞こえてくるのはやはり、キーボードの音だけだった。  わざと、バチン! と音を立てて換気扇のスイッチを入れた。水を入れた鍋を火にかける。換気扇が回り出すと流石に、どれだけ耳を澄ませても、リビングからの物音はいっさい聞こえなくなった。鍋の中にそうめんを入れてから……ああ、しまった、と思う。そうめんだと茹で上がる時間が早すぎて、すぐにあのリビングに戻らなきゃならない。ごうんごうんという換気扇の音に安らぎを感じて、ずっとここにいたいと思った次の瞬間には、沸騰した鍋が吹きこぼれそうになっていた。 「樹ー、そろそろできるから、テーブル、片付けといて」 「んー……」  返事なのか何なんだか分からない声だった。皿をふたつ持ってリビングに行くと、やはりまださっきと同じ姿勢で樹はパソコンに向かっていて、テーブルの半分ほどが、本やらプリントアウトした紙やらで埋まっていた。日向がそれに手を伸ばしかけたところで樹はようやく、ノートパソコンのフタを閉じた。 「……ふーん、そうめん?」 「うん……まずかった?」 「いや別に。そうめんだな、って思っただけ」  思っただけ、じゃないだろ。  こいつの、沈黙で相手を不快にさせる術には、苛立ちを通り越してときに感心すらする。 「じめじめしてるから、さらっと入るものがいいかなって」 「何か……梅雨通り越して夏、って感じだな」 「確かに」  いただきます、と合わせた手を日向がほどくより早く、樹はそうめんを啜っていた。 「どう?」 「うん、美味い」  日向の作ったものに対して、樹が不味い、と言ったことはない。でも、「どう?」と訊かないと、美味しい、と言ってくれることもない。  そうめんを啜る樹の口元を見ていると、さっきまではあったはずの食欲がなくなっていくのを感じた。しかし箸を止めていると変に思われてしまう。  小豆島のそうめんは、樹から教えてもらった。樹の出身が香川だからだ。からかう意味じゃなく、純粋に興味関心と、あと、好きなひとの好きなものは好きになりたいという思いから、うどんの話ばかりしていたら、些かムッとした感じで、うどんだけじゃなくそうめんも有名なんだと言い返してきた。樹はどちらかというと、そうめんの方が好きなんだと。だったら、と、早速オリーブそうめん(オリーブの茶葉が練り込まれていて緑色をしている)を買ってきたら、今度は地元にはあまりいい思い出がないから、思い出させるようなことはしないでほしいと言ってきた。そのくせめんつゆは関東風は合わないから関西風にしてくれなどと言う。  何なんだ。  今となっては、過ぎ去ったいろんな事象を総括してそう思うけど、そのときは、悪いことをしたとおたおたしたし、自分の無神経さを恥じ、樹の繊細さに尊さすら覚えていた。  樹は眉間に皺を寄せながら、そうめんを啜っている。これが小豆島産ということに、樹は気づいているのだろうか。気づいて、苦い過去を思い出したりしているのだろうか。  でも、そうめんに罪はない。  どうせなら美味しいものを食べたいし、それを選ぶ権利は作る自分にあるはずだ。  思った瞬間、視線が合って、どきりとする。  何かと思ったけれど、 「テレビつけて」 「あ……ああ、うん」  促されるままにつけてしまってから、ああ……駄目だ、と思う。これで完璧に、樹に関心をテレビに奪われてしまった。  丁度やっていたニュースで、関西地方が梅雨入りしたことを告げていた。

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