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6月9日(日)23:33 最高気温27.3℃、最低気温22.2℃ 雨

 6月9日(日)23:33 最高気温27.3℃、最低気温22.2℃ 雨 「七月七日の予定ってどう?」  樹は手帳もひらかずに、 「ああ駄目だ。ゴルフコンペ」  と言った。  パソコンで検索した結果が返ってくるよりも素早い反応速度だった。  がっかりした。  その答えに、じゃない。  何だかもう、ありとあらゆるものに。 「樹ってさあ、基本的にいつも煮え切らない態度のくせに、否定するときだけは超早いよね」  言い始めたときは大丈夫だと思ったのに、言い終わるときには語尾が震えないようにするのが大変だった。 「返事は早い方がいい。特に断るときは。仕事じゃ鉄則だろ」 「でもこれは仕事じゃないよ」  そこで樹が初めて顔を上げた。 「俺たち、仕事相手じゃないじゃん。仕事してるんじゃないじゃん」 「……何が言いたいんだよ」  ずるくないか。そういう言い方。分かるだろ。樹なら。日向より頭よくて難しい仕事してる樹なら分かるだろ。行間を読めとか、( )の中の文字を埋めろとか、そういうことを言ってるんじゃない。言った言葉を文字通りそのまま受け取めてくれればいいだけなんだ。受け止めてくれさえすれば、その重みでちょっと、伝わるものがあるはずなんだ。それなのに樹は、渾身の思いで絞り出したものに限って、ふれるどころか見ようともしてくれない。  何が言いたいのか。  言いたいことは、はっきりしていた。はっきりしていたはずだった。でもそう詰め寄られるとどう言っていいか分からなくなって、どう言っていいか分からなくなると、つられるように、何が言いたかったのかも分からなくなってきた。  一個バグができてしまうと、それだけの修正じゃ収まらない。連鎖的に直さなきゃならないところが必ず出てくる。だから一個でも作らない。綻びがうまれないようにしてきた。でも本当は分かっていた。作らないようにしてきたんじゃない、これは……  見ないようにしてきたんだ。 「予定があいてるかとかあいてないかとか、ただそれを知りたいだけじゃないんだよ。久しぶりにどこ行こうとか何食べようとか、そういう話をしたかったんだよ。猫だって、本気で飼えると思ってたわけじゃないよ。どんな種類が好きなのかとかどういうところが好きなのかとか、いつか一緒に猫カフェ行きたいねーとか、そういうことを話したかったんだよ。天気だって、別に、何月何日から梅雨入りしただとか梅雨入りの定義だとか、そういう正確な情報なんかクソどーでもいいんだよ。暑いねー、じめじめしてるねー、そうだねー、こういうときにはさっぱりしたものがいいよねー、って、ただ、そういう話をしたかっただけなんだよ。そういう……何て言うか、そういう感じを一緒にしたかっただけなんだよ!」  ちょっとでも顔を背けたりしたら、ぐい、と引き寄せてやるつもりでいた。けれどこういうとき樹は、腹立つくらい真っ直ぐ見てくる。 「じゃあどこ行きたい? 何食べたい? 猫カフェ行く? 猫のどこが好きなの? 本当、じめじめして最近嫌な季節……」 「だから!」  勢い任せに叫んだけれど、そのあとを続けることができなかった。胸を圧迫し、喉を塞いだ怒りと悲しみ。怒りだけだったらそのまま叫び続けることができた。悲しみだけだったら涙の形で零れ出た。でもまったく同じ質量で押し寄せたそれは、ただただ自分の中で消化しきれずにふくれていくだけだった。 「大体さぁ……前からその日は……予定大丈夫そう? って、何回か訊いたよね」  初来日とかで話題になっていた画家の展覧会が、七月中旬までだった。その話をちらっとしたら、めずらしく樹が乗り気だったから嬉しくて、じゃあ一緒に行こうという話になった。あとになって、接待のネタとして見ておきたかっただけ、ということが分かったのだけれど、それでも楽しみにしていたことには変わりなかった。 「しかたないだろ、そのときは予定決まってなかったんだから」 「じゃあ予定入ったとき、何で教えてくれなかったんだよ」 「言ったところで駄目なもんは駄目なんだから、言ったってしようがないだろ」 「だったら別の日に予定立てることだってできたのに」 「何をムキになってんだよ。そんなに行きたかったのか? だったらそう言えよ。それこそ別に……仕事じゃないんだし。絶対行かなきゃならないってワケでもないだろ」 「行きたかったんだよ!」  樹は大袈裟にため息をつくと、部屋に戻っていった。  ほっとしたような。でもこの感情をどう整理していいか分からず途方に暮れていると、また、手帳を手に樹がリビングに戻ってきた。 「美術館ってどこだっけ」 「え……」 「プレーは午前中で終わるから……そのあと会食はあるけど、三時くらいには戻ってきて……四時くらいには現地に行けそうだけど」  本気で言ってるんだろうか。 「……いいよ、別に」 「行きたかったんじゃないのか」 「行きたかったけど、でも……」 「せっかく予定……」 「結局『仕事』にしてるじゃないか!」  どうしても我慢できなかった。 「俺との約束を、アポの一件、みたいにすんなよ! こことここの間あいてたからここに……みたいな、そんな感じで処理されてもちっとも嬉しくないんだよ!」 「処理? は? じゃあどうすりゃいいんだよ。こっちはせっかく都合つけて、何とか歩み寄ろうとしてんのに、そんな言い方ってないだろ」 「歩み寄る? そっちこそそんな言い方ないだろ。てか何で俺の方がお前に歩み寄られなきゃいけないんだよ。何で俺の方が無理なこと言ってるみたいになってんだよ。前から……前から思ってたけどさあ、お前の俺に対するスタンスって、常に何か、してやってる、って感じだよな。予定合わせてやってる、風呂洗ってやってる、会話してやってる、口に合わない料理でも食べてやってる……」  付き合ってやってる。抱いてやってる……  じっと見られて、本当はもっと言ってやりたいことがあったはずなのに、中身も、表現もスッカスカの、それこそ子どもの駄々こねのようなことしか出てこなくて、必死に箱を逆さまにして振ってみても何も出なくて、どうしようもなくなって投げ捨てるみたいに会話が途切れた。  樹は何も言わず、部屋に戻った。  気にくわないことがあると暴力をふるうような奴に比べたら、天と地ほどの差があることは分かっている。でも樹の沈黙は暴力に等しかった。  こういうとき、寝室を別にしておけばよかったと後悔する。  でもいつまでも避けているわけにはいかなかった。先延ばしにすればするほど、関係修復は難しくなる。  もうちょっと自分を押し通した方がいいんじゃないかと思うときはある。その場の空気を読みすぎるあまりプライドを安売りするようなことは。でもいつだって先に耐えられなくなるのは日向の方だった。沈黙が耐えきれずに話しかけてしまうのも。へらへら笑ってしまうのも。ごめんと言ってしまうのも。  樹の布団の中に潜り込んで、背中に頬を寄せる。いつだって樹はこっちに背を向けた姿勢で寝ている。寝顔を見せるのを断固拒むみたいに。  相変わらず樹はすぐにはふりむいてくれない。初めに惹かれたのは、こういう素っ気ないところだった。好きだ、と言って、すぐに俺も、と返されると逆にどうしていいか戸惑ってしまう。抱きしめ返されでもしたら、逃げ出したくなるかもしれない。好き、好き、好き、と、百回くらい乱れ打ちして、一回くらい返ってくるくらいで丁度いい。好き、と言うことそのものが、日向は好きなのかもしれない。庭に変なボールが飛んで来ても、ああまた飛んできたな……って放っておいてくれるのが理想。けれど今の樹の無反応は、同じ無反応でも少し違う。庭をぐるりと囲む高い塀が見えるような。  それを乗り越えるように腕を回し、情緒とかそういうもんがないなあと分かっていたけれど、早々に下半身を押しつけた。それでも樹は梃子でも動かなかった。胸のあたりに回していた手を首筋に、頬に……。キスして、と、ねだるみたいに唇を探り、口の中に指を入れようとしたところで、樹の唇が動いた。 「俺、お前のそういうとこ、ちょっと理解できない」  沈黙が怖い。でもそれを先に、樹に埋められてしまった。埋められたくない言葉で。 「何でこんなときにそんな気分になれんの。そんなことでなかったことにできると思ってんの。あんま馬鹿にしないでほしいんだけど。猿じゃないんだし」 「俺だって……!」  俺だって別に、したくてしたわけじゃない。馬鹿にしてんのはそっちだろ。ひとを万年発情期みたいに言いやがって。喧嘩したあとのセックスはもえる、とか、そんな単純なこと考えてたわけじゃない。ただ自分が馬鹿をやらないとこの関係は修復できないから……だから一肌脱いでやったんじゃないか。どんな思いでこういうことをしたかなんて分かっちゃいないくせに。だったらお前はできんのか。できもしないくせに。まずやってから言ってみろよ。こういう風にして、なかったことにしていかないと、ひととひととの関係なんて続けられっこないだろうが。  背中を叩こうと思って、でも、やめた。  ぶつげるぎりぎりのところで飲み込んで、寝室を出た。  ソファで一夜を過ごした。

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