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6月13日(木)07:08 最高気温26.4℃、最低気温13.8℃ 曇り

 6月13日(木)07:08 最高気温26.4℃、最低気温13.8℃ 曇り  樹の繰り出す必殺技はいくつかある。  ひとつは無言。  そしてもうひとつは、出張。  朝、「今日はちょっと遅くなるから」と同じようなトーンで、「月曜日まで戻らないから」と、洗面所で髭を剃る手を止めずに樹は言った。「戻らない」という言葉の放つ予想以上の冷たさにたじろいで、「出張?」と言い換えた。 「そう、京都」 「へえ……月曜までって……めずらしく長いね」 「金曜と月曜アポで。一旦こっちに戻ってくるのも非効率だろ」 「それはそうだね。大変。でも今の京都って……いい時期じゃない。三室戸寺の紫陽花がきれいだって、さっき、丁度テレビでやってた。せっかくだからいろいろ回ってくれば? 楽しそう」  樹が髭剃りのスイッチを切った。さっきまではその音量に負けじと声を張っていたのに、静かになると途端に話題が途絶えた。 「そんな暇ないよ」  分かってる。樹が、出張を利用して最大限遊び倒す、なんて性格じゃないことは分かっていた。でもどこかで、そうあってほしいと願っていた。たまに羽目を外してくれるくらいが丁度よかった。浮気は困るけれど、でもその方がまだ、怒るか、悲しむか、はっきり自分の感情の整理がついた。こんな、ぐずぐず、雨なんだか晴れなんだか、梅雨に入ったんだか入ってないんだか分からないような感情に絡め取られ、手も足も出なくなるのに比べたらマシだった。  仕事、というのは口実で、本当は日向と一緒に過ごす休日が気まずくて逃げ出したくて、猿だなんて言った手前今さら日向を誘うなんてできないから、旅の恥はかき捨てならぬやり捨てできる男を引っかけるために出張を利用した……とかだったらいい……わけはないけれど、その方がまだ、理解も覚悟もしやすかった。でもそう思っていられるのは、たぶん、樹がそんな奴ではないと十分知っているからだろう。  手帳を見たり、スマホを覗いたりしたことも、実は、ある。スマホのパスワードはずっと変わっていないから、今でも見ようと思えば、いつでも見られる。けれどもう、見ようとは思わない。そんなの見たってロクなことがない……本当に、そうだ。人生の先輩方の言うことは、素直に聞いた方がいい。でもどうして、実際痛い目に遭わないと学習しないんだろう。樹の手帳も、スマホも、見事に仕事のことしかない。そのことに、打ちのめされた。浮気の証拠を見つけてしまうときよりも、打ちのめされた。新しく入っていたメール以外で唯一未読になっていたのは、日向が送ったものだけだった。  つまんない男。  樹の背中を見るともなしに見つめていると、そんなワードがぽつん、と浮かんだ。  つまんない。  冷たい、とか、意地悪、とか、空気読め、とかよりもそれは思わずぴったり嵌まって、変なところで雲間に太陽が差したような爽快感を覚えてしまった。あー、つっまんねー奴だなー!  最大のライバルは、仕事。お仕事さまの前には日向は永遠の二番。しようがないよな……いや、やっぱりしようがなくない……。本当にデキる男ってのは仕事も恋人のケアも完璧にするんじゃないか。「ああ俺、何よりも優先されてる!」って、本当は違っててもそういう多幸感をちゃんと恋人に与えられるんじゃないか。そうだ、こいつの中途半端な優秀さがいけないんだ。仕事でも、そこそこのポジションには行くんだろうけど、社長になったりはできないだろ、絶対。  ああでも、こういう風に感じるようになったのって、一緒に住むようになってからだな。恋人だった頃はこんなことなかった気がする。それは日向の方もだ。「出張」と聞いて、「へー」なんて反応はしなかった。樹と会えない一日は、一週間分くらいの長さに感じられた。いつからどこへ行くとか、何曜日の何時に帰ってくるとか、そんな予定もしっかりメモって忘れなかった。  恋人、だった頃……  じゃあ今は一体何なんだろう。  同居……人……?  一緒に暮らすようになって関係性は深まったはずなのに、それに対応する言葉がない。同居人、同棲相手、というのは、恋人より蔑ろにされる存在なんだろうか。それともこれが、蔑ろにされることこそが、生活の一部になった、ということなんだろうか。より離れがたい存在になった、ということなんだろうか。

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