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第7話

「マコちゃん! 買って来た!」  勢いよく引き戸を開けて飛び込んで来た章良の手には、良く冷えたスポーツドリンクが3本ぶら下がっている。島の温泉で珍しく真琴が湯中りをし、脱衣所で動けなくなってしまった。章良が買って来た冷たいドリンクを横になっている真琴の首筋へ刺し込んだ。 「大丈夫? まだ顔も真っ赤だな……とりあえず飲んで」  章良が背中を支える様にして横になっていた真琴を座らせ、そのまま自分の方へと身体を凭れかけさせて、キャップを取ったペットボトルを真琴の口へと当てる。 「自分で飲める?」 「……のめる」  真琴が、ペットボトルを受け取り、スポーツ飲料を一気に半分ほど飲んで、大きく息を付いた。章良の汗ばんだ身体と接している所がヒンヤリと感じるほど、自分の体温が高いと言う事が解る。  この温泉は源泉掛け流しで、成分も濃い為、慣れない人が長湯をすると湯中りを起こし倒れる事がある。真琴自身もここへ住み始めた頃、一度今と同じ状態になった事があった。前回は寝不足や栄養失調、ストレス名等体調が良くなかった時だったが、今回は明らかに浸かり過ぎたと自覚している。理由は湯船から出られなかった、章良の身体を意識してしまった瞬間から、どうしても目が行ってしまい、仕舞いには軽く勃起までした為、慌てて湯船へと逃げた。    章良はこれまでと同じ様に普通に石けんの受け渡しや、会話の中での自然な身体の接触しかしていないが、その全てが気になり意識してしまった。章良は熱い湯が苦手らしく、この湯船には入れない。変わりに洗面器で水と混ぜた温泉を頭から被るのが何時ものスタイルだった。まだ日も高い夏の午後は、窓を開けていても風は温く、山で大量の蝉が鳴く声が津波の様に押し寄せて来る。真琴が蝉の声と自身の血流の音が耳の中で大きくなるのを感じ始めた頃、遠くで章良が自分の事を必死で呼んでいる声が聞こえた気がしたが、次に意識が浮上した時は、裸でベンチに寝かされており、今度はタオルで必死に自分を扇ぐ章良の姿が見えた。 (そんな泣きそうな顔で必死にならなくても……)  僕は大丈夫だよと、身体を起こしてそう言おうとしたが、実際は割れそうな程の頭痛で小さく呻いて少し身じろぎをしただけになってしまった。持って来たタオルを水風呂から汲んだ冷たい水で濡らし、頭の下と額の上へと置き、飲み物を買って来ると言って慌てて走って出て行ったのを最後に、また意識が遠のいた。  章良の買って来たスポーツドリンクを飲み、また暫く横になっているとようやく頭痛も峠を越えたかの様に引いて行くのが解り、改めて章良の方を見ると、脱衣場に置いてある掃除の当番表が挟んであるファイルで風を送りながら、額に乗せられた濡れタオルを取り、それを広げて真琴の身体へ掛けてやる。 「はぁ……」  真琴が目を閉じて、左手で額を隠しながら捲れた前髪を整えて露わになった額を隠した。 「気持ち悪く無い? 話てる途中から返事が無いなって振り返ったら、マコちゃん半分沈んでたんだ! むっちゃ焦った……意識ないし……」 「ごめん……うっかり長湯しちゃった……」 「この島病院無いし、診療所は明後日じゃないと先生も来ないし、透也に言って船出して本土の病院……」 「いや、ただの湯中りだから大丈夫、逆にこんな事で船を出させてしまう方が迷惑をかけてしまう、この季節はイカ漁だから今は準備で忙しいしんだ……」  章良の言葉を遮る様にしてそう言うと、ゆっくりと身体を起こし、新しいペットボトルからスポーツ飲料を今度はゆっくりと残り半分ほど飲み、フラリと立ち上がった。 「はぁ……情けないなぁこんなので倒れるなんて」 「そんな事無い、店に帰ったら少し寝た方が良いよ」   まだ足下が危うい真琴を、章良が強制的に背負い岐路へ着く。この時間は次の漁の準備や昼の漁に出ている船はまだ港には帰らない空白の時間だった為、まるで島の中には二人しか存在しないかの様に人影は無かった。左手に広がる深い原生林からは押し流されそうな程の圧倒的な蝉の声が二人を包み込んでいる。  最初は少し抵抗していた真琴も、体力的に限界を自覚していたのか、いざ背負われると大人しく年下の背中へ身体を預けていた。 「マコちゃん」 「……うん?」 「マコちゃんってここに来る前って、何処に居たの?」  背中の真琴の身体に少し力が入るのが解った、これは聞いてはいけない事だったのかと思い、章良が訂正をしようとした時、真琴が静かに答える。 「……ここに来る前は東京に居たんだ」 「あ……そっか、だから言葉が標準語なんだな、訛りが無いからもしかしたらそうかなって思ってたんだよね」 「東京で有名な老舗料理店で働いてた……働いてたと言うか、まだ板場へはそんなに上げてもらえるほどじゃなかったけどね、でも、何度か雑誌にも載ったりして若手の中では注目されてた事もあったよ」 「凄いね、有名人?」 「いや、有名なのは店の知名度があったからだよ……そこで将来有望視されて、板長にも目を掛けられてたんだけど、やっぱりそれを面白く思わない人ってのは一定数いて、注目されればそれだけ叩かれた。僕はそれでもこの道で生きて行きたいと思っていたから、そんな事に気を煩わせ無い様にって……益々修行に打ち込んだんだ……」  夏の生暖かい海風が真琴の前髪を揺らすと、真琴がそれを拒むかの様に章良の肩へ額を押しつけた。 「…………なんでそんな将来を約束された所を出て、この島に来たのか聞いて良い? マコちゃんが話したく無いなら言わなくて良いよ」 「…………暴行事件が起きたんだ……その中の半数が、店の若手で中には中堅も含まれてた、それが原因で僕はそこに居られなくなったんだ……その事件を起こしたのが僕の中学の頃の同級生……全ての原因の元は僕なんだ」 「え、待って……それってニュースになった?」 「ううん、なってない……被害届も出して無いし、警察も介入してない。店も次の日からは普通に営業してたよ、だから……あの事は無かった事になってるんだ」 「……被害届って……マコちゃん、被害者って事だよね?」 「そうだね……事件だけを見たら僕が被害者になるけど、でも元々の原因は僕が作ったみたいなもんだし……被害届け出すと、過去の言いたくない事まで言わなくちゃいけないでしょ?」  真琴の告白を聞いて、章良は何故か怒りがこみ上げて来ていた。  今、自分が怒りを露わにしても何の解決にもならない事は解るし、ましてやまだ成人していない自分にそんな力が無い事も理解出来ているが、気持ちの問題としてどうしようも無く怒りを覚えた。  自分の背中で身体を預けている年上の男は、男にしては軽すぎて薄い生地越しでも肉が付いて居ない事が解るほど痩せている。真琴には話してはいないが、港で聞いた島に来た頃の真琴の話を思い出していた。喋らず笑わず、そして何も口にしなかった。島に残れと言われ声を殺して泣いたと聞いた時から、真琴の事が気になって放っておけなくなった。  年上なのに、自分が護らないといけないと思わせる何かを感じ取っていた。 「……凄く頭に来る……」 「あ、ごめん……こんな話……」 「違う、マコちゃんが原因って何だよ! 何が原因でも暴力を振るった方が悪いに決まってるだろ、無かった事にって……全てをマコちゃんに押しつけて放り出したって事だろ? 理不尽だ……頭に来る!」 「浄水君……」  背中につけた額から響く章良の怒りが少し嬉しく感じた。理解して欲しいとは思わないが、こうして理不尽だと口にしてくれた事が少し救われた気持ちになる。世界の倫理から外れて生まれた自分でも、こうして共感しようとしてくれる。年下の彼がとても逞しく感じた。    ―― あ り が と う ――    目の奥が熱くなるのも、鼻の奥がツンと痛むのも、きっと湯中りのせいだと、真琴はそう思う事にした――。 【続】  2019/06/25 海が鳴いている7  八助のすけ

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