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第8話

 カラカラと開いた扉から入って来たのは、今は引退して息子に船を譲った元漁師の常連客だ、機械で巻き上げた網に足が挟まり、それ以来杖を突いて歩いている。 「おーいマコさん」 「いらっしゃい!」  何時もより元気の良い声に、少し驚いた顔をしてカウンターの中を覗くと、そこには店主では無く、最近この島にやって来た同居人だった。 「あれ、アキ坊やないか、マコさんは配達かいな?」  島は高齢化が進んでおり、坂道の多いここでは、このなぶらで夕飯を注文し配達して貰う事も良くあり、実際この老人も利用した事もある。 「マコさんね、ちょっと休んでるんだよね」 「なんや、具合でも悪いんか?」  カウンターに座った客へ、冷えたおしぼりを出し、ちょっとした突き出しを前に置いた。 「病気とかじゃ無いんだけど、今日風呂で湯中りしてしまってさ、帰って横になったらそのまま起きれなくなっちゃって、今だけ俺がピンチヒッターってやつ」  ハイ何時もこれだよね、そう言って客の前に出したのは麦焼酎に梅干しを入れたやつだった。 「おうおう、そうやそうや、よう覚えとったな」 「そりゃ毎日手伝ってたから覚えるって、今焼き鳥を焼くから待ってて」 「なんや、アキ坊も料理人じゃったか」 「ええ? 違うよ、ここに来る前は居酒屋でバイトした事あるんだ……って言ってもちょっとだけだけどね! 焼き物は自信があるよ!」  店の中にはこれで客が三人となったが、章良は器用にそれぞれ相手をして切り盛りしていた。 「はい、焼き鳥」 「なんじゃー焦げとるのぉ!」 「焦げは俺からのサービスで隠し味ね!」  ワハハハと何時もの様に店の中には笑い声が響いている。客同士も幼い頃からの顔なじみな為、直ぐに話も盛り上がって行き、アットホームな空気にみたされていた。この店は、こうした寄り合い場の様な役目もあるから、余程の事が無い限りは休めないと、何時も真琴が言っていたのを思い出していた。  章良は客の話を聞きながら、ふと天上を見上げて真上にいる真琴を想った。    風呂から背負って帰り、店に着いてそのまま二階の部屋まで行くと、何時もはつけないクーラーのスイッチを入れて部屋を冷やした。布団をひいてから真琴を寝かせると、30分したら起こしてと言ったまま気を失う様に眠ってしまい、30分経ち章良が部屋を覗き声をかけるが、真琴は頭痛を訴えたまま起き上がれそうに無かった。 「俺、店の前に臨時休業の紙を貼って来るよ、今日はもうこのまま休んだ方が良いって」 「…………駄目だよ……今日は定休日じゃない……毎日ここで呑む事を楽しみにしている人が居るんだ……坂だから……ここまで下りて来て休みだったら、きっとがっかりする……それに、惣菜の注文も受けてて、取りに来るから……」  少し掠れた声を途切れさせながらもそう話すが、真琴は布団から出られそうに無いと言う事は一目瞭然だった。 「解った、俺が店を開ける」  真琴が青い顔をしながらも。章良の顔を驚いた様子で見る。 「俺さ、少しだけど居酒屋でバイトしてた事があるんだ、それにここに来てからずっと店を手伝ってたし、店を開けるけど来た人には事情を話して、マコちゃんが作り置きしてないものとか、寿司とかは出来ないって断る」 「……だめだ……未成年で従業員でも無い君を一人で店に立たせるなんて……っ」  真琴が身体を起こそうと頭を上げるが、眩暈を起こしてまた枕に頭を戻した。 「とりあえず、今は寝ていた方が良い……起き上がれる様になったら店に来て」 「……ごめん……」  どうにか真琴から承諾を得る事に成功し、章良が店を開けたは良いが、開店から二時間経っても真琴は下りては来ない為、章良は少し心配になってきていた。普通の街にある居酒屋と違い、朝の早い島では夜の9時を過ぎると夜中と言われる。店で世間話をしていた客も次々と帰って行った。    章良は急いで片付け、洗い物もそこそこに暖簾をしまうと、大急ぎで二階へと上がって行った。二階に上がった一番手前の襖を開け、内側の襖も開けると真琴が布団の上で眠っているのが見える。  出来るだけ音がしない様に静かに上がり、枕元へ店を閉める前に作っておいたおにぎりを置いて、水差しの中を確認すると自分が入れた量の半分ほど減っており、どうやら何度か起きて水を飲んだ事が解り少し安心した。    冷房の効いた部屋で布団をかけて寝ている顔は、随分と血色も良くなり寝息も安定しているのを確認して、ほっと小さな溜め息を溢す。  部屋のカーテンが開いている事に気付き、章良が窓辺まで歩いて行くと、窓の外には夜の海が広がっており、暗い海の上にはまるで蛍の様なイカ釣り漁船の灯りが点在している。  章良がこの島へ着いた日の夜、この光景をとても美しいと思った。月が昇りその光が海の上に道を作る、その光の道からまるで生まれ出たばかりの星の様に、漁り火が揺れていたのを思い出していた。    死にたかったわけでは無い、ただ、何者でも無い一人の自分に戻りたかっただけだった。一度書いた小説が忽ち売れて、兄はそれから小説を書く様に強要して来る様になった。  その時はまだ兄の事も大好きで、少しでも兄の力になれるのならと小説を書き続けた。自分の中から生まれた物語は全て兄の物であり、賞賛も名声も自分の物では無かった。べつにその賞賛が惜しいと思った事は無いが、そこに存在しない自分がとても価値のないものだと、書く度に空しさに襲われ。ある日、兄の許可を得ずに書いた本を直接出版社に送り出したのが、幻と言われたあの本だった。  それは直ぐにバレて、即回収となってしまったが。それまで存在してはいけない自分のせめてもの抵抗だった。  このまま世界から消えてしまうのではないか、そんな思いに蝕まれ、気が付いたらバイトで溜めたお金を鞄に詰めて家出をしてここに辿り着いた。 「っ……た……」  後ろで小さな声が聞こえ、章良が振り返ると真琴が寝返りを打ちながら何か寝言を言っていたが、一体何を言ったのかは聞き取れなかった。  章良はカーテンを閉めて、冷房を弱にしタイマーをかける。今夜は何故か真琴の側に居たいとそう思っていた。これまで他人に対してこんな感情になった事も無いが、何故か真琴を見ているとまるで恋愛感情にも似た想いが湧いて来る。  章良は壁に寄りかかりながら、眠る真琴の髪に触れてみた。  艶やかでストレートな黒髪は、サラサラと指の動きに合わせて流れて行く。真琴は前髪が長く、いつも目にかかるギリギリまで伸ばしている。鬱陶しく無いのだろうかと思っていたが、風が吹いたり髪を洗ったりしても常に前髪を気にして額を隠していた。章良がその前髪を少し横へ流す様に梳いてやると、形の良い丸い額が露わになる。 「……傷跡?」  章良の手が止まり、真琴の額にある大きく引き連れた皮膚にそっと触れた。傷は新しくは無いが、額の半分近くの皮膚が傷ついていただろう事が解るほど傷跡が大きい。確かに傷跡は目立つが、女なら兎も角男の真琴がこの傷跡を隠すのにはきっと何か理由があるのかもしれないと、そう思った時、背負った真琴が話していた暴行事件の事を思いだした。 「マジか……もしかしてこれってその時のか?」 「……ん」  その瞬間、少し魘された真琴が左手で自分の額を隠しながら、こちらに背を向ける様に寝返りを打つ、もう痛みは無いはずなのに顔を曇らせ、痛みを堪える顔をしている真琴を見て、章良はまた怒りがこみ上げて来るのを覚え、大きく嘆息し壁に凭れかかり顔を歪める。    真琴の部屋は本当に荷物が少ない。服は普段から作務衣か白衣で中は白のTシャツでズボンも何時も同じカーキ色のストレートパンツだった。洗濯はしているので、恐らく数枚の服を着回している。  壁の角に木箱を重ねただけの本棚があり、そこには何冊かの本が置かれていた。その時、壁と本棚の隙間に一冊のアルバムらしき物が隠す様に挟まれているのが見え、章良は好奇心から本棚をずらして取り出してみた。  表面は紺色のベルベットの様な布で覆われ、表紙には見た事の無い中学の名前と、金色で形取られた校章が書かれていた。 「卒業アルバムだ」  章良はまるで宝物を見つけたかの様にわくわくし、表紙を開いた。    そこには卒業年度と校舎の写真、そして当時の校長の写真も載っており、校訓が書かれている。真琴が持っていたと言う事は真琴のアルバムだろうと、ペラペラとページを捲って行く。 「……え?」  最初はクラスの写真が並んでいた、一体真琴が何組だったのか解らないがその中に真琴が居ないか、指で一人一人確認しながらページをめくって行く。すると、あるページを開いた瞬間、章良の顔が曇り手が止まった。    クラス写真の中断の右端に立っている学生服を着た男子生徒の顔が、マジックで黒く塗りつぶされていた。  これは何かの悪戯なのか、虐めでやられたのかは解らないが、そのままペラペラと最後の方までページを捲って行くと、どのページにももう塗りつぶされている顔は無く、少し安心して最後の卒業生一人一人の個人撮影の写真へと進んで行った。名前と顔を確認しながらも章良の中で少し嫌な予感が頭を持ち上げている。次のページは、あの塗りつぶされた顔のクラスだ。 「――!!」  ずらりと並んだクラスの顔写真、その中に一つだけやはり黒のマジックでグシャグシャと塗りつぶされている写真を見つけ、名前を確認する。  ―― 坂下 真琴 ―― 「……マコ……」  見てはいけない真琴の傷を見た、そんな気がして章良がマジックで消された顔を指で擦ってみたが、当然マジックが消える事は無い。  章良がアルバムを元の場所へ返そうとした時、アルバムの間からペラリと何かが落ちて来た。それを拾い見ると、そこにはどこか飲み屋の座敷らしき場所で撮ったであろう二人の人物が写っていたが、その二つの顔もマジックで消されている、恐らく片方は身体の感じから真琴だと言う事は解ったが、隣にいる男は誰なのかはわからなかった。  裏には真琴の字で「孝史」と書かれていた。  たかし……章良はそう呟いて、落ちた写真をアルバムに挟み、そのままそっと元の場所へ戻して、もう一度真琴の寝顔を見ると、真琴が目を閉じながら声も出さず表情も変えずにただ涙が筋を作り流れていた。もしかして何処か具合でも悪いのかと熱を測る様に頬に手を当てると、真琴がその手に自身の手を重ねた。 「マコちゃん」  章良が真琴の手を取り、反対の手で流れる涙を拭ってやると、真琴の口が少し開き――。 「……たかし」  写真に書いていた男の名前を呼んだ。  何とも言えない気持ちになった、怒りでも絶望でも無い虚無感に似たこの気持ちはなんと呼べば良いのだろうか――恐らく、あの男のを真琴は好きだったのだろうと言う事だけは解った。    話さず、笑いもせず、何年もこうして見えない所で一人で泣いていたのかと思うと、切なさに胸が苦しくなる。【孝史】がどんな男なのかは解らない、しかし、真琴を悲しませる男に対し、章良は嫉妬に似た感情を覚えた。 「……マコちゃん……俺じゃ駄目かな?」  もし自分なら……絶対こんな涙は流させないのに……。  章良は自分がおかしな事を言っていると言う事は解っていた。真琴は男で自分も男だと言う事も当然解っている。  だが、男でしかも年上の真琴を、自分は恋愛に似た感情で見ていると、この時はっきりと自覚してしまった。  しかし、真琴の中では今でも【孝史】が住んでいる。  好きだと自分が告白したら、真琴の性格からすると必ず拒否される事は解っていた。そして、拒否しながらもそんな自分を責めて追い込んで行くだろう事も、想像に容易い。 「…………言え……ねぇよな…………そんな事」  古い振り子時計の規則正しい音と、カーテンの隙間から差し込む月光だけが支配しているこの空間で、章良は、黙って繋いだこの手の温もりを手放したく無いとそう思った。   離したくえねぇ………… 【続】  2019/06/26 海が鳴いている8  八助のすけ    

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