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第1話

「佐藤補佐」 「はぁい?」  聞き慣れない声に、佐藤は書類から顔を上げた。  ズレた眼鏡を正すが思いのほか視点が合わないのでそろそろ老眼かと、嫌な予感がよぎる。  見上げた先には、ピシリとしたスーツに硬い表情の若者。  ただ年数を重ねているだけで自分には威厳も欠片もないので、そんなに緊張しなくてもいいのに。 「企画課の守谷課長から渡すようにと預かりました」 「守谷から? ありがとう」  同期の出世頭からの品物に思い当たらず、差し出される箱を受け取ってひっくり返す。さほど重さもないし、突出すべきものはない。 「――ああ、なるほど。」  合点した佐藤は、細い目をさらに細めて浅く顎を引いた。 「では、自分はコレで――」 「そうだ。きみの名前を聞いてもいいかい?」  ディスクから(きびす)を返そうとする若者の足を、意識してゆっくりした声音で止める。 「失礼しました、飯田です」 「飯田君、良ければちょっと僕に付き合ってくれない?」  あまり役に立たない黒縁眼鏡を外しながら、佐藤は目尻の皺を深くした。 「……それ、で、オレ、あ、自分は、出来損ない、で……」  詰まりながらも声を絞る若い社員を見上げる。同じように座っている佐藤が見上げる格好になるのは、飯田に上背があるせいであって自分の身長が縮んでいるからではない。断じて。そして目の下に刻まれた濃いクマから、睡眠も満足にとれていないことを知らされる。仕事に関してか、他の悩みについてか、もしくはプライベートか。  手にした湯飲みに口をつけながら、彼の言葉に耳を傾ける。  箱の中身が甘味だと知った佐藤は、飯田を誘って二人お茶会なるものを開催していた。彼が伝書鳩したまんじゅうはさっそく開けられ、お茶請けとして活躍している。  もちろん彼の上司には、佐藤から一報いれてある。  おしゃべりの佐藤に人を寄越したのだ、たとえ人手が足りないとしても飯田に罪はなく同期の自業自得。さらにお茶会が終わったら飯田は退勤していいとちゃっかりと許可を取りつけ、彼の本日の仕事があれば振り分けるように依頼してあるので問題ないはずだ。守谷ならば抜かりなくやってくれるだろう。  とりとめのない会話をしつつ佐藤に気を許したのか、飯田のとつとつと語られた内容を要約するとこうだ。  いくら改善傾向とされても就職氷河期の時代、数え切れないほどの会社の面接に赴き落とされる日々。社会から自分の存在意義を見失いかけながらも、やっと就職を果たした会社。新卒として就職してから約三ヶ月、さらに自分を見失っている。 「もう、どうしたら、いいのか……」  底の見えた湯飲みを置き、飯田を仰ぐ。考えをまとめながら、佐藤はうーん……とちいさく声を漏らす。 「僕はヒラに毛が生えたていどの立場で、飯田君に対しても、誰に対しても強制力がないことを前提として聞いて欲しい」  眉を下げちいさく引かれる顎を認めて、佐藤は努めてやわらかい声音で続ける。 「ココが会社として、社会の『すべて』ではないんだ。僕は……まぁ、色々あって、この会社にいる時間が長いだけで特別大きな意味はない。昔は美徳であるとはされていたけれど、今はないに等しい」  言い方は悪いが、学校という空間では教える側は提供し、学生側は受け取るという図式になりやすい。大勢に対して、ある一定の知識量を授けるには、その方法が理にかなっているからだ。もちろん自主的に学習を進める者も中にはいるだろうが、すべてではないはずだ。  だが、ひとたび社会に出た途端、劇的に変わる。自ら学び、教えを請わなければ『使えない者』として烙印(らくいん)を押される。元学生であった新社会人が戸惑うのは当然だろう。  そして、初心忘れるべからずとはよく言ったもので、業務に追われた指導側は忘れがちだ。普段はいかに効率よく仕事を回すかに重点を置く傾向となる。学校を出たばかりのほぼまっさらな知識の他人にイチから説明するよりも、解っている自らで片付けてしまったほうが、手間も省けて短時間で終わる。日常業務としては悪くないのだが、指導の観点からすると後任は育たない。よって既存スタッフが仕事を抱え込んで、自らの首を絞める悪循環が生まれる。  会社に余力がなく『人を育てる』ことを(ないがし)ろにした結果、即戦力を()い新人を潰す。  基本的に新入社員は仕事ができなくて当たり前。むしろできると思っている方が手に負えないことが多いのだが、今回ソレは横に置く。 「僕には、飯田君はとても焦っているように見えるよ」 「焦って、いる……?」 「うん」  新たな茶を求めて席を立てば、気を利かせて飯田も腰を上げるが制する。ちいさな子どもではないのだ、自分の茶くらいは自分で汲む。 「お、茶柱。めずらしいねぇ」  急須の中に浮かぶ小枝に、年甲斐もなくはしゃぐ。  ついでに減っていた彼の湯飲みにも茶を注いだら恐縮されてしまった。これもパワーハラスメントの一環である飲みニケーションに当たるのだろうかと、嫌な汗が背筋を伝う。気をつけなければ。 「それは、自分が仕事が、できないからで……」  いくぶんか柔らかくなったが、それでも固い表情を見上げる。先ほどの答えであると、佐藤は遅れて気づく。 「飯田君は水泳は得意かい?」 「……人並みには、泳げます」  急に変わった内容に、戸惑いがちに引かれる顎。  不躾でないていどに改めて彼の身体つきを見ると、しっかりと筋肉がついていそうだ。初々しくはあるものの、スーツが綺麗にきまっている。羨ましいと若干たるんだ己の体型を(かえり)みる。 「今まで足のつくビニールプールしか経験のない水泳初心者を、ポンと大海原に放り出したら泳げると思うかい?」 「いいえ」 「だよねぇ。僕もそう思う」  なら何故そんな質問をしたのだと、彼の表情が物語っている。大変素直で結構だ。 「――それと同じ事を、会社は求めてしまっているんだ」  先に泳いでいる先輩たちは、泳ぎはじめた者の心情を(おもんばか)るのを後回しにして『何故泳げない』と怒ってしまいがちになる。  息継ぎを学んでないかもしれない、バタ足の仕方を知らないのかもしれない、もしかしたら水に顔をつけること事態が今までなかったかもしれない。そんな初歩的なところに気づかない、新人に確認をしないので気づけない。さらに普段からそれぞれに背負った業務という荷物で自身が溺れそうになっているので、そもそも他者の重さを肩代わりできる余裕がない。  初心者側としては目の前の水しか見えておらず、世界は『ココだけ』で『対応できない自分が悪い・劣っている』と錯覚してしまう。 「泳ぎと同じで、仕事もすぐにできるわけじゃない。浅瀬で失敗と成功を繰り返しながら、やっていけるのがベストだと思うよ。個人的にはね」 「でも……」  言いよどむ飯田の次の言葉を静かに待つ。 「求められていることが、できない……。先輩と同じように仕事が、できないんです!」  新入社員の悲痛な思いが、湯飲みに波紋を作る。  波が収まるのを待って、佐藤は努めてゆっくりと口を開く。 「僕は別の部門だから、詳しくはわからないけど」  言い置いて、佐藤は続ける。 「飯田君はしっかり進歩しているよ」 「そんなこと、知らないのに……!」  膝上に握られた拳を眺めて、なるほどと思案する。  飯田の日常を知らないくせに調子のいいことを言いやがってと受け取ったのかもしれない。彼の中の会社で仕事を行うというのは、佐藤が思っているよりも高いハードルなのだろう。 「業務内容は、まぁ言ってしまえば時間をかけて慣れれば誰でもできるんだ。……あ、他の人に怒られそうだから、コレは『シーッ』ね」  口の前に人差し指を立てて、冗談めかす。  反応の薄い飯田を確認しながら、どうやら見事に滑ったらしいと佐藤は悟る。 「業務に関してはひとまず置いておいて。君の焦りは、ごく当たり前のことで、一定の人たちも経験することだよ」  白熱していく内に、話の内容がずれてきてしまっているので軌道修正する。 「なんで『今』のタイミングなのだろうね?」 「ずっと、ずっと、思っています」  細結(こまむす)びでこんがらがった糸を、ひとつずつ解きほぐす感覚。  口頭でやり取りしているが、図式化すると視覚的情報があるため飲み込みやすいこともある。ペンと紙を探したが、残念ながら手頃なものが見当たらない。 「別に入職直後に悩んでも問題なかったはずだよ。だって君より先陣を切っている人なんて山のようにいるもの。それが『今』ってことは、先輩と自分の立ち位置の違いが解ったってことじゃないのかな」  佐藤には、飯田はキラキラと眩しく映る。  就職から三ヶ月。  今までは初めて尽くしの仕事を(こな)し、がむしゃらに走ってきたであろう。そのペースが乱れるのが、この時期。張り詰めていた緊張の持続が難しくなり、右も左も解らなかった方向感覚が少し解った頃。足跡を振り返って、己がほとんど場所を移動できていないことに気づく。 「さっきの水泳初心者の話じゃないけれど。君なりに泳ぎを覚えてきたけれど、先に泳いでいる先輩たちとの距離が離れすぎていることに気づいた。そして――」  茶をひとくち含んで潤す。 「そして、こっちの方が大切だけど。振り返ったら、自分が思っていたほど泳ぎが進んでいなくて驚いたのかなぁって」  飯田が瞠目する。  焦りの要因は二つある。佐藤が飯田の話を聞いて勝手に導き出しただけであるが。  先に彼が危惧していたように、仕事の進捗が思うようにいかないこと。もうひとつは、自分の内面に関して。 「ちいさいことかもしれないけれど、それは大切な進歩だよ」  多くが立ち止まる。 『これでいいのか?』  ――と。  その問いかけは大切なものだ。 「知っているかい? 泳ぎの知識や同じ視点がないと、人との差には気づけない。先輩の泳いだ距離を眺めて『あのくらいなら自分もできる』と誤認してしまうこともある。自分は陸地を歩く経験しかしたことないのに」  知識がないと疑問すら浮かばない。スタートラインに立っていないことにすら、気づけない。  それぞれの答えは人格や環境など人の内にあるものなので、周囲がどうこう言うものではない。ただ、その『気づき』に気づかない振りをする者もいる。それはそれで自己防衛のひとつなので、どれが悪くて良いのか明確な答えはない。  突き進むばかりがすべてではない、というだけ。 「泳ぐのが遅かったとしても、それがイコール仕事できないって訳じゃないよ。目に見える仕事の進捗状況と、目に見えない心構えとは違ってくる」  先のように、おぼれかけている者に対して、手を差し伸べられる者が現在の会社ではほとんどいない。余力がないため、仮に指導者と銘打っていても一緒に溺れてしまう可能性もある。  その中で白羽の矢が立ったのは、出世街頭を早々に蹴って浅瀬で足を浸けながら、のほほんと茶をしばいていた佐藤だった。景気低迷が嘆かれる昨今、不要な部署は解体される傾向の奇跡的に残っている一種窓際族である。以前かじっていた教育指導も少なからず役立っているのだろう。  相談というのは、言葉にするということであり、頭を整理することに繋がる。自分は補助をするだけ。答えが人の内にあるというのは、そのためだ。そして体面的には他者の意見を求める行為であるが、結論的には無意識下で腹は決まっていて、自分以外の同意が欲しいのでアプローチを掛ける行為であるという認識が強い。多数決が方針を動かすこの国の独自であり、それもひとつの考え方だと思っている。  突き放した考えかもしれないが、ちいさな子供ではないのだ。飯田にも思考する力はある。 「そもそも、入職して数ヶ月の飯田君に同じ仕事をされちゃったら、先輩の面目も丸つぶれだ。少しくらい先輩風吹かせてあげてよ」  茶目っ気たっぷりに目配せをする。 「『会社を辞めろ』とか『仕事ができなくて悪い』とか、そういうのではなくて。まぁ止める権利も僕にはないんだけど。ただ――」  ひとくちに大海原だと言っても、深海も遠浅もそれこそ色々ある。まず海の深浅だなんて、人間が勝手に基準を作っただけで地球にとっては些末なことだろう。世界は個人が見渡しただけでは余りある。 「ただ、価値のない者だと自らを認識したままならば、とても勿体なくて残念なことだよ」  持ってきてくれたまんじゅうを二つに割る。中はつぶあんだ。  泣き言を漏らした時の表情から、少しの強さを灯した瞳を認める。 「何年も学校に(かよ)って、試験を(とお)ってココにいるのだろう? その努力を、自分自身が認めないで誰が認めてくれるんだい?」  今までは教師や両親が、周囲の人たちがほめてくれていたかもしれない。しかし社会は驚くほど冷え冷えしていることもある。自分で暖める(すべ)を身につけなければ、心が凍えてしまう。  そして自分たちは魚ではないので、たとえ放られたとしても水から上がれるし、好みの泉に移ることも不可能ではないはずだ。別にあえて水に入らなくとも、陸にいるのも選択のひとつであろう。 「何度も言うけど、ここだけが会社じゃないし、社会でもない。上司や同僚は今の彼らだけではない。採用としては会社が選んだかもしれないけど、きみも会社を選んでいいんだよ。もちろん企業として改善しなければいけないことは、変えていくけどね」  本当は。  荷物を背負って泳いでいる経験者も、目の前しか見えていない初心者にも、さらに上の者がコーチやライフガードとして全体像を見渡して采配できるのが理想だ。しかし現実はそうばかりではない。人員不足で、自らも水に浸かりながらライフガードを兼任している所も多々ある。 「飯田君は、あんこは食べられるかい?」 「……あ、え、はい。こしあんが好き、です?」  変わった話題に、瞬きながらに返される素直さに頬を緩める。 「そっか。僕はどちらかと言えば、つぶの方が好みなんだ。飯田君のようにこしあんが好きでも、しろあんが好きな人も、みそあんが好きな人も、どんなあんこが好きでも、そもそもあんこが好きじゃなくて食べないという選択をしてもいいんだよ」  佐藤の立ち位置は、あんこを好まない人間に無理強いをするのではなく、あんこが苦手であることを気づかせる切っ掛けを手伝うだけ。  口の中のまんじゅうを飲み込んだ佐藤は微笑んだ。 「上手に、自分を甘やかせるといいよ」

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