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第2話

「……え、」  メールを確認して、佐藤は声を漏らした。  そろそろ老眼が入ってくるだろう近眼を瞬かせても、内容は変わらない。何かの間違いではなかろうか。  顎に手を当ててひとり唸っていれば、声を掛けられる。 「お早いですねぇ、補佐(ほさ)さん」  それほど大きくないはずが、静まりかえった社内でよく響く。 「伊藤さんには負けますよ」  目尻のシワを深くする顔とは、いつの頃からか軽口を叩く間柄になってしまった。どうやら佐藤が就職した頃を知っているらしいので、彼の勤続年数も相当なものなのだろう。 「そりゃ、人が居ない方が掃除は捗るからなぁ」  自分との会話の間にも、手にしたモップは忙しそうに動く。広い室内を見回しながら、自分たち以外の不在を確認する。遠くの廊下では自動掃除機が仕事をしている。 「始業までだいぶあるけれど、補佐さんは仕事かい?」  自分がいたのでは、彼の邪魔になるだろう。態度で表しはしないだろうが。 「一段落したので、そろそろ食事にします」  背を伸ばして席を立ちつつ、上着を手にする。 「ゆっくりしといで補佐さん」  手を振る伊藤に軽く会釈して、佐藤は一時職場を後にした。  シャク。  申し訳ていどのハムレタスと薄いパンを噛みながら、佐藤は手の内の缶を転がす。 「横山ねぇ……」  先ほど目を見開いたメールには、異動者が記されていた。確かに、上から時季外れの人事があると聞かされてはいたが、まさかウチの部署とは。景気低迷が嘆かれる昨今、奇跡的に残っている一種窓際族であるココに。しかも彼は、周囲が認める将来有望のエリートだ。  美味くもない安コーヒーを呷って流し込む。存在を知らしめる胃。  ヒラに毛の生えた、なんちゃって中間管理職が考えても詮ないことだろう。吐息一つで早々に疑問を諦める。 「そろそろ頃合いかな」  時間を確認しながら重い腰を上げる。高い湿度がじんわりと肌に汗を滲ませる。  佐藤の会社には、ある一定の上役しか知らない口頭の申し送りが存在する。大層なものではないが、要約すると管理職名義のまんじゅう持参者には大なり小なり気を配れという示唆。その受け入れ窓口が佐藤である。相談のしやすさは人それぞれなので、すべて請け負うわけではないが。さらに話を聞いたとしても特別なことはしておらず、会社公認でまんじゅう片手に茶をしばく。  ただ、それだけ。 「おはよーう。お、キレイだねぇ」  案内に飾られた花を愛でながら、ゆっくりと廊下を進む。 「おはようございます。補佐さん、遅刻しちゃいますよ」 「はぁい。大丈夫、だいじょうぶ」  あれは何年前だったか。  横山も上司名義の甘味を持ってきたのだ。一見して、他の者とは一線を画しているようにピシリと伸ばされた背筋に、隙のなさそうな切れ長な目尻。  はじめは何かの間違い、もしくは出張の土産かと本気で考えたものだ。その時は、本人からアクションも何ら見られなかったため、ありがたく箱を受け取っただけに留めた。  認識を改めたのに、さほど時間は要さなかった。  期待が大きすぎるのだ、周囲の。  入社数年の若手に管理職的な役割を担わせるのは、いかがなものか。横山当人も、当然のものと受け取っていた節はあったので、能力を買われ任される仕事を甘んじていたのだろう。  しかし、佐藤はそこに危機を感じた。当時の横山の上司も似たような思いがあり、まんじゅうを持たせたと後になって知らされた。 『あの手のタイプが凝り固まって型に()まると、周囲の評価の中でしか泳げない。チヤホヤされている間はいいが、長くなった鼻っ(ぱしら)へし折られて最終的に潰れる』  フィルターを噛みしめながら、紫煙と共に吐き出された低音は苦々しかった。  彼の危惧も一理ある。  目標があるとする。それに対しての行動計画を立てるとする。成果をどこに持ってくるか、だ。そこを他人に任せてしまうと、最終的に()んでしまう傾向が多い。  仮に。  ビールがあるとする。ほろ苦く、のどごしバッチリ、パチパチと泡が弾けている。  居酒屋でビールを飲む、という目的。  仕事を終わらせて居酒屋で、という行動計画。まずは、目の前の仕事を片付ける必要がある。いつまでに終わらせ、どこで区切りとするか。  自分が飲みたいと考えていたジョッキ三杯、という成果と。先輩が飲めと威圧的に勧めたジョッキ三杯、という成果。  どちらの成果によって、目的が達成され結果が出たと判断するかだ。  佐藤としては、美味いものは他人に口出しされず、自分のペースを設けたい。そこを、賃金という対価を受けて仕事としての括りの中で、どこまで許容するかという話にもなってくるが、この場合はあえて気づかないふりをする。  話を戻すと他者に成果をひいては評価を預けてしまうと、言い方は悪いが責任転嫁が生じやすくなる。  自発的な飲酒によってか、強要された飲酒によって目標達成とみるか。長い目で見れば、前者の方が継続するだろう。そして、他者からの介入がいつもあるとは限らない。今後先輩の存在がなくなったとしたら、評価してくれる対象がおらず宙ぶらりんの状態になってしまう。  そこが、彼の上司が案じた部分だ。 『俺個人的に、アイツを潰したくない。頭の柔軟な内に「他」にも方法があることを知って欲しい』  ――と。  今までさまざまな人材を目にしてきた、横山の上司が目を細めた。 『僕にできることには、限りがあります』  基本的に成人の動機付けは、自らが納得しないと有効とは言えない。  勉強など強要されても建前上はやるかもしれないが継続しない。自らが必要だと判断して行動すれば、学習に対する理由を持つことができるので結果続けることができる。それを知って上手く使うと、ゆくゆくは己の有益に繋がる。  最終的に長くモチベーションが続くかだ。要は他人に指図されたものは、褒美でもないと続かない。  逆に、幼い場合は経験の乏しさからアプローチの種類を教えるためにも、手を貸さなければならないが。勉強の方法を知らなければ行動に移せない。さまざまな方法を学んで、自分に合う学習方法を獲得していけばいい。  そもそも学習とひとことで表しても種類が違う。新たな知識を蓄えるものだけがすべてではない。今までの己の無意識の行動に言葉や意味を付けるのに重点を置くのが、成人の学習の理由のひとつだ。  現実問題として横山は子供ではなく、むしろ同年代の中では抜きん出て仕事ができる部類だろう。佐藤の持っている情報としては。 『ああ。俺が目を光らせていられる、ウチの部署だけでも限りはある。これからの教育は個人だけじゃあ手にあまる』  対象が多様性に富んでいるからだろう。それも今後はさらに加速すると佐藤は予測を立てる。  横山の世代は物にも人にも執着が薄い傾向があるので、長く会社に居着かない。今までの職員よりも断然転職のハードルは低い。有益な人材を留めておくためには、何らかの対策をしておく必要がある。だがそれは自分たち末端ではなく、上役(うわやく)のタヌキたちが嬉々として飴と鞭を用意するだろう。言い方は悪いが、飼い殺すために。  そして嫉妬云々を抜かして、仕事ができるという認識が大きな落とし穴であることもあるのだが、今回は別問題として捉える。 『善処します』 『ああ、頼んだ』  そうして、佐藤はちいさく溜め息をついたのだった。  先ほどの閑散とした様子とは全く別の様相を呈したフロアを進みながら、スタッフたちと挨拶を交していく。  目的とする自分のディスクに長身の出で立ちを認めて、詰めた緊張を一瞬で吐き出す。悟られてはいけない。 「佐藤さん、お久しぶりです」 「――ああ、これからよろしくね。横山君」  振り返った精悍な顔立ちを認めて、佐藤は目尻のシワを深くした。

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