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第3話

 ふむ。  佐藤は若干目立つようになった、自らの腹をひと撫でした。新たに運動でもはじめなければ、引っ込まなくなる。それでなくとも年齢的にもだいぶアウトだ。  この時期は甘味の持ち込みが多い。新人が心身共に疲弊するのと、ぐずつく天候によって体調を崩しドミノ式に精神的にも支障を来すスタッフが増える。  しかも季節柄的にも自身の食欲は減退方向。せっかくの頂き物を腐らせるのは心苦しい。近所のディスクに座る同僚におすそ分けしながら、視線を感じて顔を上げる。 「横山君もいかが?」  にっこりと微笑みながら、先日異動してきた人物にも声をかける。時季外れの人事に佐藤含め周囲も訝しがったが、それもはじめだけだった。もともとの人当たりの良さと回転のいい頭で、上手く周囲に溶け込めている。 「前も思いましたけど」  言い置いて横山は、甘味の代わりに茶を寄越してくれる。ありがたい。 「佐藤さんって、そんなに甘いもの好きじゃないですよね」  美味い茶に舌鼓を打っていれば、思わぬ反撃を食らう。 「……どう、して?」  危うく噴き出しかけた茶を無理矢理飲み込んで見上げれば、読めない表情の美丈夫にうっかりと疑問を投げかけてしまう。要らぬ墓穴を掘った。あとから悔やんでも、言葉は口に戻らない。 「菓子よりもフルーツが好きですよね。無糖の飲み物の方がもっと好き」 「サトー補佐、そーなんですかぁー?」  横山に便乗して、たぶん彼目当てであろう女の子も話に参加してくる。会話するのはまったく問題ないが、渦中に面白みのない自分というのは何とも居心地悪い。 「あー……嫌いではないよ。ただ、僕の苗字と調味料の『砂糖』をかけて甘いものをくれる人たちが一定いるだけ」  嘘ではない。  自分が就職して数年目だったのでだいぶ前になるが、同期に引っ張られて参加した慰安旅行でネタにされたのだ。そこから社内に広まったのもある。珍しい苗字ではないのになぜだと、当時は首を捻ったものだ。  社内上層部での、暗黙の了解は公にはされていない。  仮にそれが大々的になった場合、誰も持ってこなくなるだろうし、持たされた者は上司からの認識を知るところとなり不信感へと続くだろう。  ある意味、いい隠れ蓑にはなっている。 「まぁ、おかげでこうして、お菓子は不自由しないで潤っているわけだから助かっているよ」  部署によってはおやつ代として徴収しているのだから、考えようによっては特典である。ただし自分の体形と血糖値が危ういだけで。  沈んだ考えに半目になったところで、その先の乱雑なディスクに気づく。珍しい。  基本的に彼の場所は片づいている印象がある。  片づけができていないというのは、整理できていない可能性がある。それは物理的だけではなく、思考にも通じる。まず、要・不要の判別ができないから物が溢れる。そして整理整頓ができなくとも、死なないため後回しにしがちであることからも、さらに余裕のなさが際立つ。  普段の几帳面さを知っているから、尚のこと。  湯飲みに口をつけて、彼の抱えている仕事のスケジュールを頭の中で上げ連ねる。多い。そして近い締め切りが目立つ。佐藤は静かに眉を潜めた。  先日ぎっくり腰をやった課長の雑用を、大半は自分が受け取ったが一部皆に振り分けたものもある。その分も上乗せされているとはいえ、巧くない。ぬかった。 「佐藤さん?」  表情を改めた佐藤に横山が訝しがる。いい勘だ。内心笑んで、席を立つ。 「ちょっとお手洗いー」  求めた人物は食堂で遅い昼食をとっていた。 「沢田君」 「佐藤補佐」 「隣いいかい?」  引かれる顎と共にカレーを視界に入れつつ、思ったよりも事態が深刻であることに気づかされる。別に社食が悪いという訳ではない。新婚である彼はマメな彼女が弁当を作ってくれることが多い。仮に弁当休みの日があったとしてもそれは自由だろう。外野が口出しをすることではない。ただの弁当休日なだけならば、まったく問題はない。 「田所さん順調?」  彼らは職場内恋愛の末、結婚に至った夫婦であり佐藤は双方に面識がある。未だに旧姓が抜けない。腹に宿った新たな命を育んでいる彼女はつわりがきついらしく、産休に入る頃も青い顔していた印象が残っている。 「ええ、まあ。たぶん大丈夫かと……」  あいさつがてら彼女の話題を出したが、思わぬ引っ掛かりを覚えて夫の瞳を見上げる。微かに泳ぐ視線に確信を強める。 「で? 本当は?」 「……その、切迫って……あの、でも大丈夫です」  尻つぼみになる言葉は、とても大丈夫ではない。 「沢田君、落ち着いて聞いて欲しい」  人気のない食堂に、自分の声が驚くほど響く。 「医者から話を聞いているだろうけど、切迫早産って母体も子供も危ない。程度にもよるけど、最低限のたとえばトイレにも動いちゃいけない場合があるのを知っているか?」  見開かれる目に、やはりと確信する。  少し考えれば気づくことだった。産休に入った嫁が介護の必要な義母に手を貸すこともあるだろう。介護は驚くほど体力を消費することを知らずに。彼女は気が利くし、心根もやさしい。  誰が悪くて良いという訳ではない。結果論を言うのは簡単で誰でもできる。そのときどう考え、どう行動したか。ただ、今回の天秤にかけられるのは仕事と、二人の生命であるというのが重要。 「最悪の場合もある。それを承知で『大丈夫』と言っているか、僕は心配だ」  妊娠は病気ではないが、健常でもない。人をひとり育み出産するというのは、さながら手術と大差ないのは男も認識しなければいけない事実だ。しかも子を産んだら、それで終わりではなく、新たなはじまりなのだ。 「制度もある。女性だけでなく男も取得できる。言い方は悪いけれど、会社員として仕事をする人間は替えがきく。でも夫として、父としてはたったひとりじゃないのかい?」  コレは受け取り方によっては、ハラスメントに当たるだろう。だが、母子二人の生命がかかっている事柄であることを、夫であり父である人物がもっと真摯に受け止めないとならない。 「……あ、ど、どう……」  蒼白になった顔に、己の言わんとしたことが伝わったことを知る。彼も馬鹿ではない。 「こういう時のために、僕がいるわけだよ。伊達に窓際でお茶を飲んでいるだけじゃないよ」  よいしょ。  少し茶目っ気を混ぜて、彼の手から床に滑り落ちたスプーンを拾う。 「仕事ができるから偉いって訳じゃない。――まあ、お給料が発生しているから一定はやってもらえると嬉しいけど。子供も田所さんもお母さんにも大切なこの期間に、君の時間を使っていいんじゃないかな。その間のきみの仕事をどう処理して、人材確保するかは上の仕事」  夫が父がすべての責任を被らなければならないという訳ではなく、家族という括りの中で協力するのはひとつの形だろう。家庭それぞれなので、独り身に戻った佐藤が口出すのはおこがましいと言われればそれまでであるが。  そして人がいなくて仕事が回らないというのは、上層部の人員配置ミスだ。不測の事態に対応できるように余力を持たせていないのが悪い。それを社員に責任転嫁させ、さらに末端にシワを寄せているのが多くの現実。社員を大切にしない会社は、最終的に人に潰されると佐藤は思っている。 「たとえ、休暇をとったとしても職場に君の席がなくなる訳じゃない。それに君のいる場所は、会社だけじゃないと思うんだ」  それに関しては産休に入っている嫁の方が危機感があるだろう。女は家事育児・男は外に出て仕事という、古い世論にどうしても飲み込まれがちだ。  己が積み上げてきた社会的立場を晒されるのは男も女も関係ないし、先に言ったように会社がすべてでない。だが、それが他者の手によって社会というコミュニティから切り離されていいのとは違う。判断するのは自分自身だから。 「僕はそれぞれに合わせた、それぞれの人間があっていいと思うんだ。だって、みんな同じだったら楽しくないもの。――沢田君、きみはどうしたい?」

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