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第10話
佐藤は顔から火を噴きそうだった。
「……も、もぅ、はなして……」
消え入りそうな懇願も、横山は聞き入れてくれない。せめてと顔を覆うとする手も阻まれ、むしろ背後から抱えられるようにして閉じ込められ身動き取れずにいる。しかも首筋に顔を埋められて吐息が近い。
自身では不可抗力だったと信じている過去をばらされ職場をあとにした佐藤は、横山の部屋に連れられた。風呂を借り用意された服に腕を通せば、彼の物だったらしく袖は長いし襟首はスカスカで心許ない。佐藤サイズの服は何着か置いてあるのになぜとか、加齢臭が漂って愛想つかされたらどうしようとか、とにかくぐちゃぐちゃと考えてパニックだった。
「……なんて顔してるんですか」
「どんな顔だよ。普通のおじさんだろう」
「襲いたくなる顔です」
「……頭、大丈夫?」
本気で心配になって、肩越しに横山を仰ぐ。
「秋生さんを好きになって、大丈夫じゃなくなったんです」
これ以上は心臓が持たないと抜け出そうともがく佐藤はしかし、肩も腹にも腕を回され、体幹は足に挟まれ難なく押さえ込まれる。
「もしかしなくても、俺もそのひとりだったのでしょう」
「……え?」
耳元でささやかれ、佐藤は声を漏らす。
「秋生さんのコミュニケーション能力を勝手に勘違いして、舞い上がって付きまとった『厄介な人種』」
それは上司の落とした一種嫌がらせの発言か。できれば蒸し返したくなくて、どうしたものかと思案する。
「秋生さんは相手に関心をもつのが普段からの生活で、それを俺は自意識過剰に受け取った。自分だけに目を向けてくれているって」
どうやら自己嫌悪に駆られているらしいと汲む。
「えーっと、この話をしたのは、きみの想いを勘違いだとか、否定したいとかそういう訳ではないよ」
互いに想いを伝え、身体の関係もあって、むしろ今さらなところもある。思考を落ち着けながら、佐藤は身体の力を抜く。
いつもは泰然と構えているはずの横山が自分との関係に一喜一憂している。不謹慎かもしれないが、年齢よりも幼く見えてしまってちょっとかわいい。
「……まあ、あの時きみの周りにいた同僚たちとは、僕はちょっと毛色が違ったかも、しれないけどねぇ」
若手である横山に対して、周囲は良くも悪くもそれ以上の期待をしていた。
期待は諸刃の剣だ。
相手に勝手に望みを託して、叶えられなかった場合は落胆し、順調に叶えられると『次を』と望む。無限に広がる他者の願望の中で泳ぎ続けるのは、困難を乗り越える力になるものの、一方で当事者はいつか疲れるだろう。
そこからすれば、佐藤は異質な存在だった。
「はじめは他のスタッフと似たような接し方をきみにしていたけれど、それだけじゃないよ。慕ってくれて反応をくれたのが、なんというか……そう、すごく、嬉しかったんだ」
言葉にするとありふれた表現であるが、しっくりくる。
「単純なものは、実は一番難しいのかもしれないね。そんな大切なものを、もらったんだよ――きみに」
ひとつひとつ噛みしめるように伝えながら、彼に身体を預ける。佐藤がすこし寄りかかったくらいでは横山はびくともしない力強さがある。
「たしかに僕のところには色んな人が来るけど、実は同じくらい人が居着かない。それも仕方ないと思っていたんだ」
ひと呼吸置き、腹にまわされたあたたかな腕に指を絡める。
佐藤の元へ相談に訪れた者は、基本的にその後は近くに寄らない。
同じ会社ではあるものの部署は違って普段は関係ない場所、いってみれば日常と半分切り離された場所。そして内容は相談者の日常で、内面を含め人間関係や知られたくないものが多々ある。その特殊性から、自然と佐藤とは距離を置く傾向となる。
要は行き場を失った日常の狭間に生まれた、茶とまんじゅうが用意されたぽっかりした空間。大勢の人から見ればある意味、佐藤とのやり取りは次を見据える通過点なのだ。
寂しくないといえば嘘になるが致し方ない、ひとつの選択だと納得もしているので、相談を受けたあとはあえて追跡していない。廊下で会ったらあいさつするていど。いつぞや本社が絡んだ案件で数名のその後を知ったのは、横山が引き寄せた偶然だ。
そのため佐藤から見た横山もある種、異質な存在だった。
「――でも、急にきみがいなくなって、僕は元気なかったらしいから」
近くにいた妻があきれていたので、客観的に見てそうだったのだ。横山に告白され抱かれ、出国したと知らされ、傍目からも哀愁漂っていたらしい。そんな佐藤の弱みにちょっかいをかけてきた人間がいたのは事実。
個人的には掘り起こしたくないできごとが芋づる式に連なるが、そうもいっていられない。同僚や友人よりもさらに身近な存在として、彼には真摯に向き合いたい。
「たぶん、そうだね……」
いったん切って、顎に手を当て宙に視線を彷徨わせる。
「きみが思っているよりも、僕はきみのことが好きなんだよ」
意図せず出た言葉に、なるほどと自分で納得する。
駆け出し数年目であった未来ある横山と、仮初 めとはいえ婚姻関係のある妻のいた自分と。当時そのまま想いを伝え合って結ばれたかといえば、否だろう。
月日が流れてそれぞれの立場が変わって、イビツながらもやっと形になりはじめた。長くはあったが、その期間は必ずしも無駄ではない。
帰国したばかりの横山に素直に応えられなかったのは、自分の中のわだかまりを消化しきれていなかったのだろうと、今さらながらに推察する。なにもいわずに置いていかれた上に人づてに聞かされて、さらになにもなかったかのようにひょっこりと帰ってきて、要は拗ねたのだ。年ばかり重ねても、自分もまだまだ子どもだと振り返る。
「そうだ……前から好きで、たくさん好きなんだ」
仰け反って後頭部を彼の肩に預ける。満足する結論に達せてやわらかく目元を緩めた佐藤とは対照的に、眇めた目で射抜かれる。
「秋生さん! 愛していますっ!」
「ぅわ、ぁっ!」
隙間なく抱きしめられ、やや早口の横山は続ける。
「切っ掛けは、もしかしたら勘違いだったかもしれません。でもたったそれだけで、あなたを何年も想ったりはできません!」
「そっか。あ、ありがとう?」
まるで告白大会だ。
なんと返事をしたものか、火照る耳朶をとめることができず身じろぐ。
「……あの、さ。もうこれで愛想とかの話は終わりにしていい? それでさ、そろそろ顔見てしっかり話そう?」
そう、ずっと引っ付いたまま。首も痛い。抜け出せない自分が非力なのか、横山の力が強いのか。ひとまず緩んだら少し距離を置いて、オーバーヒートしそうな頭を冷やそう。
喧嘩をしていたわけではないが、気まずい空気はなくしたい。
「それにきみばっかりずるい。僕もギュッてしたい――」
あ、マズった。
そう思ったのは一瞬で、視界が回った直後に吐息すらも奪われそうな口づけにのまれる。
「……ぅむ、ンぅ……ぁん」
互いの間にもったりと引いた銀糸を、押し戻すように再び貪られる。
「ん、んンぅ……ふ、ぁ……」
上顎を撫でられ、グッショリと舌を絡められ、唾液を啜られ、攪拌され、流し込まれ、喉を鳴らしながら喘ぐ。うなじに固定された大きな手のひらに、無意識に逃げを打つ身体は阻まれる。同時に耳孔 を塞がれて、ダイレクトに頭の中に水音が響く。
「ぁ、あぁ……」
甘噛みされた舌に、強制的に官能を引きずり出される。
「……ぁも……ンあぁ、ちょっ……ま、てぇ……」
ぐったりと縋りついた佐藤は、男の首筋でくぐもった声を出す。しびれたままではろくな言葉を紡げない。溢れて口角を伝う唾液に気づいて拭う余裕すらない。
「どれだけ煽るつもりですか」
「そん……ひゃ!」
つもりはない、と続けられなかった。
「ギュッて、してくれないのですか?」
ねっとりと耳介を食みつつ低くささやくようにして息を吹き込まれるのは、さながら身を焦がす媚薬。
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