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引っ越し記念日
先月の休みはほとんど不動産屋巡りに消えた。
正確には、彼の休みは土日で自分の休みは市立図書館のカレンダー通りだから、有休を合わせたり、時には休憩時間に抜け出したり、お互いずいぶん苦心して時間を作った。しかしそんな非日常の苦労もどこか心浮き立つもので、それはたぶんだけど、これが人生の大きなイベントの多くに無縁なはずの自分に訪れた、小さな小さな思い出だからなのだと思う。
今月の休みは荷造りに消えた。
カーテンレールに吊るした箱根旅行土産のサンキャッチャーを外し、段ボールにしまう。天井の蛍光灯を受けただけでもきらきらと輝き……ああそうだ、蛍光灯も外さなきゃ。家で吸わなくなって久しいが、最近とうとう外でも吸うのをやめた煙草は、禁煙が続きますようにとゴミ袋へ。
「なあ、有加里」
背後から呼びかけられて振り返ると、リビングから英記が顔を出している。
「これ、どうする?」
手に持っているのはドレッシングの瓶だ。
「賞味期限、もう切れるけど」
「んー、捨てようかな」
「そ?」
「あんまりおいしくなかったでしょ」
「まあね」
有加里の顔とドレッシングの瓶を見比べ、ちらりと笑うと、引っ込んでしまう。
英記は既に自宅の片付けを済ませ、あとは荷物を運び出すだけになっているそう。有能な商社マンである万事手際の良い彼と、ぐずぐずしているうちに引っ越しの日が明日に迫ってしまった自分では大違いだ。
「この部屋もけっこう広かったんだなあ」
がらんとしたリビングに英記の声がやけに響く。
「ほんとだよね」
少し張って返事をした自分の声も、がらんとした寝室に奇妙に響くよう。
「お前の本の量には驚いたけど」
「これでも処分したんだって」
本を詰めた段ボールは、減らしに減らして五箱になった。仕事柄その重さに慣れている自分と違って、彼は驚いたみたいだ。本の他にも、服、日用品、食器…詰めても詰めても終わらない荷造りも、恋人の助けでようやく目処が立ちそうだ。
明日、この部屋を引き払う。
明日からは、新しい部屋で暮らす。
今までもしょっちゅう行き来していたし、ほとんど同棲しているようなものだったけど。今度の部屋には二人分の表札がかかるし、たとえば大喧嘩をしても出て行く場所がない。
英記の気配が近づいているのは、靴下越しの静かな足音と気配で気づいていた。
床が少し軋み、背中から腕が回される。有加里の身体をぎゅっと抱きしめ、首筋に頬を擦りつけ、さていつスイッチが入ったのやら甘えたモードだ。
「ゆかり」
「なに?」
「ゆかり……」
鼻にかかった舌足らずな声を、悪戯に耳に吹き込む。
二歳年上の恋人が、外では、自分以外には、決して見せない態度だと知っているから、いつまでも邪険にできないし、いつまでも頬が火照る。
「はいはい。冷蔵庫、もう終わった?」
「うん」
「ありがと」
「どういたしまして」
「……俺はまだ終わってないんだけど」
「うん」
「邪魔しないでくれる?」
「そろそろ休憩しよ」
返事はさせずに有加里を抱く腕に力を込め、
「わ、もう」
ごろん、と、二人一緒に冷たい床に転がって。もつれたどさくさで有加里の髪を撫で、唇を探り、
「有加里」
甘く囁いて唇を重ねる。
「ん……えーき……」
どんなに好きでも。なんて、下手くそな歌謡曲みたいだけど。
形のある、命のある結果を残せない自分を、彼は選んだ。ずっと一緒に暮らすというのは、そういうことだ。
手帳の明日の日付は、赤ペンで丸く囲ってある。
誰にも気づかれなくても、誰にも言えなくても。紛れもない記念日になるのだ。
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