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第4話
予定通りに出張が終わるという知らせを受けたのは、日付の変わる寸前のことだ。
「明日、直接そっち行っていい?」
「うん。夕飯は?」
「一緒に食べよう。なんか作っといてよ」
仕事の愚痴は言わない彼だったが、この言い方は少し疲れているのだろう。
「うん、わかった」
「辛口がいいなあ」
それと、有加里がカレーくらいしかまともな料理を作れないことを知っていて、英記は時々こういう言い方をする。甘口派の有加里との折衷案で、いつもは中辛で妥協させられている彼だ。スピーカー越しの穏やかな失笑を聞きながら、辛口のルーを買って帰ろうと決めた。
有加里のカレーに特別なことはない。
にんにくと生姜をすりおろして入れるのと、英記のためにガラムマサラを用意しているくらいだ。玉ねぎを炒めて、今日はたまたま牛肉、あとはにんじんとじゃがいもを入れて煮込むだけ。以前に飲み残しの野菜ジュースを入れてみたらどことなく上等な味になったような気がして、最近は適当な野菜ジュースを一缶入れている。どれも、工夫というほどではないだろう。
ピンポーン、玄関のチャイムが響き、ガチャリとドアノブが音を立てる。
飛び出したようなタイミングにならないよう一呼吸置いて出迎えると、最初に現れたのは小ぶりのスーツケース、次にその取っ手を下ろしながら、英記が入ってきた。
スーツに包まれた均整の取れた身体、涼しげな笑顔。
「ただいま」
「おかえり」
「ただいま、有加里」
「聞こえたって。返事したでしょ?」
「いいから、もう一回」
「……おかえり」
ただいま、と噛みしめるように呟いた英記が両腕を広げるので、促されるまま近づくと、すぐに抱きすくめられる。有加里の背中と腰に腕をしっかりと回し、胸の中に納めて、チークダンスのようにリズムをとりながら横に揺れる。スーツの襟に額をすりつけると、よそよそしい外のにおいが鼻先をくすぐった。
「有加里」
「なに?」
「会いたかった」
「……うん」
「それだけ?」
「……俺も、だよ」
一年ぶりの再会じゃあるまいしと思わなくもないけれど、彼はいつでもこんな感じ。有能な商社マンは、玄関をくぐればとんでもない甘えたがりの寂しがりに変貌する。たった三日の出張が一年にも感じられるような相手だと思われているうちが華だなんて思っていると知れたら、どんな顔をされるだろう。
「英記、会社寄って来たの?」
「ああ、うん。よくわかったな」
「社員証、ぶらさがってる」
「……ほんとだ」
体温が遠のく。英記は首にかかったホルダーの青い紐を指で摘んで、驚いたように目を瞬いた。それから、くいっと片眉を上げて、口の端でにやりと笑う。
「慌ててたからね」
「何かあったの?」
「早く有加里に会いたかった」
「……もう。すぐそういうこと言う」
歯が浮くようなせりふは、何十回、何百回聞いても慣れない。英記の胸を押し返して踵を返そうとすると、
「ほんとのこと」
反射でかざした手のひらにまず口付けられ、その手がゆっくりはがされて、唇どうしが触れた。
押印するように柔らかく重ね、離して、有加里の肩越しにリビングを見て笑う。
「いいにおい」
「リクエストのカレーです」
「辛口にしてくれた?」
「うん」
「お。やった」
「すぐ食べる?先に風呂?」
「腹減ったから、先食べるかな。なあ、なんか夫婦みたいね」
「はいはい」
「あ、急に冷たいんじゃない?」
そう言いながら、熱くなった耳たぶをつついてくるのだからお見通しだ。英記はスーツケースを玄関に置き去りのまま、背広を脱いで、社員証を外して、ネクタイをはずし襟元のボタンを外し、手早く軽装になっていく。洗面所からの水音とうがいの音を聞きながら、ピ、コンロのスイッチを入れて温め直し、カレー用の白い皿に米をよそう。
「何飲む?」
「ビールある?」
「ある」
スーパードライとウィルキンソンのジンジャーエールを一本ずつ冷蔵庫から出す。ほどほどに酒が好きな彼と、下戸の自分。煙草は吸わない彼と、喫煙者の自分。カレーの好みも違うし、仕事も、遊びの趣味も、違うことばかりだ。
腕まくりしたワイシャツとスラックスだけのすっかり家モードになった英記が、テーブルの上をじっと見て、それから、有加里を見る。
「作ったの?」
売り物でないことは一目瞭然だろう。野菜の切り方は不揃いだし、今さらながらマヨネーズを入れすぎたかもしれない。それでも過去の試作よりはましな仕上がりなのだ。
「けっこう……うまくできたんだど」
今夜のメニューは、辛口カレーと、教科書通りのポテトサラダ。
「うまそうだ」
「英記のみたいには、おいしくないと思う」
「バカだな」
「……そうかな」
「嬉しいよ」
彼はそれだけ言って、向かいの椅子に腰掛けた。
黄金色と琥珀色の液体を湛えたグラスを、静かに合わせる。
「いただきます」
ビールを一口飲んだあと、最初にポテトサラダを口に運ぶ。
「ん。うまい」
よかった。グラスの縁に唇をつけながら頷く有加里に、
「うまいよ」
もう一度言って。二口、三口とポテトサラダを食べてから、今度はカレーをスプーンいっぱいにすくってかぶりつく。サラダにじゃがいもを使ったのに、カレーにも入っているなとか、やはり今さら気づく。
「うまい」
らしくもなく、咀嚼の間から行儀悪く言うから、笑ってしまった。
「もういいって」
「よくない。だって有加里が、俺のために作ってくれたんだから」
「俺のためでもあるよ」
「いや、俺のためだね」
なぜか頑固に言い張って、また大きな一口。つられて軽くすくって食べると、いつもは買わないスパイスたっぷりのルーの刺激が、ぴりりと舌に走った。
「なあ、有加里」
「なに?」
「俺たち、そろそろ一緒に住もうか」
グラスに伸ばしたかと思われた手が、それを素通りし、有加里の手に重なる。うっすら腕時計の跡がついた、左手首。
「まあ、今も半分、一緒に住んでるような感じだけど。ちゃんとさ、二人で部屋探そう」
長い指が甲を撫で、それから、指を絡め取って、ぎゅっと握る。
いろんなところが違う自分たち。
彼にはきっと、もっとふさわしい人がいると思う。
自虐したいわけじゃない、でも、いつの間にか。彼の気持ちを留めておけるなら、彼に少しでもふさわしくなりたいと思うようになっていた。苦手な料理を克服したいし、煙草も一日一本まで減らせたのだからこのまま辞めたい。少しくらい長いほうがいいと言われたのを真に受けて、髪型も変わった。目の前の恋人が、内心ではいつもこんなことを考えていると知っても、彼はまだ自分を好きでいてくれるだろうか。
「おーい、有加里、なんか答えてくれない?」
「……うん」
「それじゃわからないだろ?」
「うん。よろしく……お願いします」
俯いて言うと、彼の指が額を軽くつつく。
顔を上げると、いつものように涼しげな笑顔でも、甘える時の蕩ける顔でもなく、眉をハの字に下げて目元をくしゃっと細めた英記の顔が正面にあった。
「大事にする」
「……もうされてるよ」
「もっと」
「……うん。俺も」
しん、と満ちた沈黙。笑い出しそうだ、と思った時にはもう吹き出してしまい、つられてにやりと頬をほころばせた英記と二人して笑い合いながら、どちらともなくまたカレーをすくう。
「有加里のカレーが一番うまいよ」
「そう?俺は英記のカレーが一番好きだな」
終わり
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